- 著者
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有元 健
- 出版者
- 日本スポーツ社会学会
- 雑誌
- スポーツ社会学研究
- 巻号頁・発行日
- vol.11, pp.33-45,149, 2003
- 被引用文献数
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5
本稿は、「フーリガニズム」以降のカルチュラル・スタディーズにおけるサッカー研究が、サッカーと集合的アイデンティティとの関係をどのように考察しているかを概観し、そうした問題意識が西洋のクラブチームだけでなく日本におけるナショナルチームについても重要な分析の視点を提供することを論じる。レスター派を中心とするフーリガン研究との論争からカルチュラル・スタディーズのサッカー研究は、特に労働者階級のファンたちが文化的アイデンティティを構築するときの媒介としてサッカーを捉えてきた。そして彼らは、サッカーが一次的なカーニバレスクをファンに提供し、またそこで育まれる文化が資本主義社会や管理社会の対抗文化になりうるとした。カルチュラル・スタディーズはそのようなファンの自己同一化のあり方を、ブロンバーガーの「集合的イマジナリー」という概念によって説明した。これはプレースタイルが核となってファンの人々が心に抱き、それに同一化する「わがチーム」のイメージである。しかし、そうした「わがチーム」への自己同一化は、同時に複雑な人種的・国民的な包括と排除のプロセスを含んだ節合形態として認識されなければならない。つまり「集合的イマジナリー」にはすでに特定の人種的・国民的枠組みが書き込まれているのである。カルチュラル・スタディーズのサッカー研究が提示したこの視点は、日本の社会状況を分析するときにも有効である。2002年ワールドカップにおけるナショナルチームを表象するメディアは自己や他者に対するステレオタイプ化されたイメージを流通させたが、この視点にしたがえば、それによって身体的・人種的に特定化され固定化された「日本人であること」の集合的イマジナリーが構築され、ある特定の身体図式が「日本人であること」としてファン (日本国民) の文化的アイデンティティ形成に関与したのではないかと考えられる。