著者
有元 健
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.45-60, 2015

本論は、2020年東京オリンピック・パラリンピック開催を契機として新自由主義的な国策と都市形成が結びつきヘゲモニーを構築するあり方を、東京大会招致から決定後の諸言説・表象を素材として分析し批判するものである。本論はまず、「今、ニッポンにはこの夢の力が必要だ。」という招致スローガン及びポスターを記号論的に分析する。そこでは領土的な意味合いを視覚的に連想させる「日本」ではなく音声化された「ニッポン」という記号が用いられることによって情緒的なナショナリズムが喚起されると同時に、東京という個別的な都市が「ニッポン」に置き換えられることによって、個別の利益が全体の利益を代表=表象するというヘゲモニー構造が自然化される。本論は次に、東京大会開催決定後のエコノミストや都市政策専門家の新自由主義的言説の中で2020年東京大会がグローバル・シティとしての東京の都市開発戦略にどのように奪用されているかを分析する。そこではオリンピック開催を契機とした都市開発をめぐるユーフォリアがたきつけられながら、アベノミクスの経済政策と東京一極集中化が肯定されていく。だがそうした都市開発や経済政策の受益者は階級的に選択されたものとなる。本論は最後に、そこで語られるオリンピック・パラリンピック開催の「夢の力」が、現実にはどのような結果を導きうるのかを2012年ロンドン大会の事例を参照しながら批判的に捉えていく。レガシー公約とは反対に、ロンドン大会が生み出した都市のジェントリフィケーションは貧困層を圧迫し、またスポーツ普及は全体として進まず、参加者の階級的格差が広がっている。「夢の力」を当然のように期待し、それが良きものだと前提することは、オリンピック・パラリンピックというスポーツ文化を奪用しようとする限られた一部の特権的な受益者を批判する視点を失うことになる。
著者
有元 健
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.33-45,149, 2003-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
31
被引用文献数
7 5

本稿は、「フーリガニズム」以降のカルチュラル・スタディーズにおけるサッカー研究が、サッカーと集合的アイデンティティとの関係をどのように考察しているかを概観し、そうした問題意識が西洋のクラブチームだけでなく日本におけるナショナルチームについても重要な分析の視点を提供することを論じる。レスター派を中心とするフーリガン研究との論争からカルチュラル・スタディーズのサッカー研究は、特に労働者階級のファンたちが文化的アイデンティティを構築するときの媒介としてサッカーを捉えてきた。そして彼らは、サッカーが一次的なカーニバレスクをファンに提供し、またそこで育まれる文化が資本主義社会や管理社会の対抗文化になりうるとした。カルチュラル・スタディーズはそのようなファンの自己同一化のあり方を、ブロンバーガーの「集合的イマジナリー」という概念によって説明した。これはプレースタイルが核となってファンの人々が心に抱き、それに同一化する「わがチーム」のイメージである。しかし、そうした「わがチーム」への自己同一化は、同時に複雑な人種的・国民的な包括と排除のプロセスを含んだ節合形態として認識されなければならない。つまり「集合的イマジナリー」にはすでに特定の人種的・国民的枠組みが書き込まれているのである。カルチュラル・スタディーズのサッカー研究が提示したこの視点は、日本の社会状況を分析するときにも有効である。2002年ワールドカップにおけるナショナルチームを表象するメディアは自己や他者に対するステレオタイプ化されたイメージを流通させたが、この視点にしたがえば、それによって身体的・人種的に特定化され固定化された「日本人であること」の集合的イマジナリーが構築され、ある特定の身体図式が「日本人であること」としてファン (日本国民) の文化的アイデンティティ形成に関与したのではないかと考えられる。
著者
有元 健
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究
巻号頁・発行日
vol.11, pp.33-45,149, 2003
被引用文献数
5

本稿は、「フーリガニズム」以降のカルチュラル・スタディーズにおけるサッカー研究が、サッカーと集合的アイデンティティとの関係をどのように考察しているかを概観し、そうした問題意識が西洋のクラブチームだけでなく日本におけるナショナルチームについても重要な分析の視点を提供することを論じる。レスター派を中心とするフーリガン研究との論争からカルチュラル・スタディーズのサッカー研究は、特に労働者階級のファンたちが文化的アイデンティティを構築するときの媒介としてサッカーを捉えてきた。そして彼らは、サッカーが一次的なカーニバレスクをファンに提供し、またそこで育まれる文化が資本主義社会や管理社会の対抗文化になりうるとした。カルチュラル・スタディーズはそのようなファンの自己同一化のあり方を、ブロンバーガーの「集合的イマジナリー」という概念によって説明した。これはプレースタイルが核となってファンの人々が心に抱き、それに同一化する「わがチーム」のイメージである。しかし、そうした「わがチーム」への自己同一化は、同時に複雑な人種的・国民的な包括と排除のプロセスを含んだ節合形態として認識されなければならない。つまり「集合的イマジナリー」にはすでに特定の人種的・国民的枠組みが書き込まれているのである。カルチュラル・スタディーズのサッカー研究が提示したこの視点は、日本の社会状況を分析するときにも有効である。2002年ワールドカップにおけるナショナルチームを表象するメディアは自己や他者に対するステレオタイプ化されたイメージを流通させたが、この視点にしたがえば、それによって身体的・人種的に特定化され固定化された「日本人であること」の集合的イマジナリーが構築され、ある特定の身体図式が「日本人であること」としてファン (日本国民) の文化的アイデンティティ形成に関与したのではないかと考えられる。
著者
レス バック 有元 健
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.24, no.1, pp.7-18, 2016-03-25 (Released:2017-03-24)
参考文献数
23
著者
有元 健
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.45-60, 2015-10-15 (Released:2016-10-07)
参考文献数
53

本論は、2020年東京オリンピック・パラリンピック開催を契機として新自由主義的な国策と都市形成が結びつきヘゲモニーを構築するあり方を、東京大会招致から決定後の諸言説・表象を素材として分析し批判するものである。本論はまず、「今、ニッポンにはこの夢の力が必要だ。」という招致スローガン及びポスターを記号論的に分析する。そこでは領土的な意味合いを視覚的に連想させる「日本」ではなく音声化された「ニッポン」という記号が用いられることによって情緒的なナショナリズムが喚起されると同時に、東京という個別的な都市が「ニッポン」に置き換えられることによって、個別の利益が全体の利益を代表=表象するというヘゲモニー構造が自然化される。本論は次に、東京大会開催決定後のエコノミストや都市政策専門家の新自由主義的言説の中で2020年東京大会がグローバル・シティとしての東京の都市開発戦略にどのように奪用されているかを分析する。そこではオリンピック開催を契機とした都市開発をめぐるユーフォリアがたきつけられながら、アベノミクスの経済政策と東京一極集中化が肯定されていく。だがそうした都市開発や経済政策の受益者は階級的に選択されたものとなる。本論は最後に、そこで語られるオリンピック・パラリンピック開催の「夢の力」が、現実にはどのような結果を導きうるのかを2012年ロンドン大会の事例を参照しながら批判的に捉えていく。レガシー公約とは反対に、ロンドン大会が生み出した都市のジェントリフィケーションは貧困層を圧迫し、またスポーツ普及は全体として進まず、参加者の階級的格差が広がっている。「夢の力」を当然のように期待し、それが良きものだと前提することは、オリンピック・パラリンピックというスポーツ文化を奪用しようとする限られた一部の特権的な受益者を批判する視点を失うことになる。

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著者
有元 健
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.26, no.1, pp.3-4, 2018-03-30 (Released:2019-03-30)