著者
荒又 美陽
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.26-26, 2006

パリのマレ地区は、1962年に制定されたマルロー法によって街区全体が保護の対象となっており、マルロー法後の変化と整備の手法に研究の焦点が当てられてきた。しかし、マレ地区の保存事業は1960年代に初めて手がけられたわけではない。地方行政レベルでは、1940年代から調査や整備案の策定が行われていた。国の事業は、地方行政の政策を引き上げる形で実施されたのである。では、フランスはなぜこの17世紀の街区を選び取ったのだろうか。本報告は、地方行政時代のマレ地区の保存事業に携わっていた建築家アルベール・ラプラドの足跡から、フランスという国家によるマレ地区保存の背後にある思想について考察する。<BR> ラプラドは、1883年に地方都市ビュザンセに生まれ、1907年にボーザールを卒業した。1915年に第一次大戦のなかで負傷して軍隊を離れ、建築家アンリ・プロストについてフランスの保護領であったモロッコの都市計画に携わった。伝説的な総督であるユベール・リオテの下、いくつかの都市の建築を設計したが、特にカサブランカの都市計画に関わったことは、ラプラドのその後のキャリアに大きな影響を与えた。<BR>当時のカサブランカは、近代化の波の中で、内陸部から多くの労働者が集まってきていた。彼らが住むためのニュータウンを設計するのがラプラドの仕事であった。彼は、ラバトやサレの町で「伝統的な」建造物をスケッチし、そのデザインをニュータウンの新しい建造物に採用した。建築家にとってはモロッコの伝統への最大限の敬意であったが、政治的には別の意味も持っていた。リオテはモロッコの「伝統的な」都市を保護しながら、その外側にヨーロッパ入植者用の「近代的」都市を建設する方針を取っていた。ニュータウンに伝統的なデザインを用いることによって、支配・被支配の関係は視覚的に明らかなものとなっていたのである。<BR>パリに戻ったラプラドがパリ中心部の保存を訴えるようになったのは1930年代のことである。当時のパリでは、不衛生な街区を取り壊して再建する政策が進められていた。このうちの一つ、第十六不衛生街区が現在のマレ地区の南部に位置していた。ラプラドをはじめとする一部の知識人はこの事業に反対し、1940年代に入って取り壊しの方針を撤回させた。その後、この街区は保存しながら再生することになり、ラプラドはその計画者のひとりとなった。<BR>ラプラドが担当したのは第十六不衛生街区の一番西側の一部分、サン・ジェルヴェ教会の周辺であった。彼は街区の内部の建造物を取り壊し、ファサードを修復して、古きパリを思わせる区画を作り上げることに成功した。ここから行政の信頼を得、ラプラドはマレ地区全体の調査・整備計画を任されることになった。<BR>彼はマレ地区についても膨大なスケッチを残している。そこにはファサードの形状やスケールだけではなく、階段やバルコニーなどの細かな意匠が描かれている。写真は、主に航空写真が使われている。それは、18世紀の古地図を下に、見えない部分まで含めて街区を修復するための手段であった。ラプラドは、貴族の時代に造られたマレをまさに再現しようとしたのである。<BR>1962年にマルロー法が採択されると、国はマレ地区の整備のために三人の建築家を指名し、行政に一方的に通知を行った。ラプラドは、その後も審議会などに呼ばれてはいるものの、実質的にはマレ地区の整備から離れることになった。しかし、国が指名した建築家は、70年代の半ばまではラプラドの方針をほぼ踏襲していた。彼の街区整備手法や考え方は、マレ地区に大きな影響を残したのである。<BR>ラプラドが手がけた二つの都市計画は、状況がかなり異なってはいるものの、いくつか共通点も見ることができる。それは、歴史性に重点がおかれており、周辺の「通常の」地区とは違うという認識に基づいて整備が行われており、そのなかで無名の職人が作り上げた「伝統的な」デザインに大きく配慮されていたことである。マルロー法の審議の中で、文化大臣アンドレ・マルローは、傑作のみではなく過去の事物全てが国民の遺産だという考えを示した。ここには、国民とその過去が一対一で結びついているという信念が見られる。それを象徴的に表すのが、無名の職人たちが作り上げた街区なのである。<BR>1960年代のフランスは、対アルジェリア戦争によって植民地支配を維持できなくなり、冷戦構造の中でアメリカの側に組み入れられていった。ド・ゴール率いる新政府は、フランスのアイデンティティを強く打ち出す政策を実施していた。ラプラドは、マレを保護するために、「アメリカ人が見たいというのはフランスの建築だ」といっている。カサブランカのニュータウンがフランス入植者地区と対比的な関係にあったように、時代の要請を受けて、パリのマレ地区はアメリカとの対比において「フランス」を示す場となったのである。

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