著者
山崎 孝史
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.412, 2008

地政学の「魅力」と地政言説<BR>言葉による表現が、特定の空間や場所をめぐる想像や表象を意味し、歴史的・政治的な文脈の中である種の真実性を持つものとして扱われることがある。その政治的に重要な例が「地政言説」である。オトゥーホール(O' Tuathail)によれば、地政学は「国家間の競争と権力の地理的な側面を強調した世界政治に関する言説」である。オトゥーホールは、現代において地政学がジャーナリスト、政治家、戦略思想家などにとって魅力であるという。ジャーナリストや政治家は地政学をとおして、混沌とした日常的な出来事を超えた、本質化された差異にもとづく永続的な対立や根源的な闘争を見出そうとする。そこで地政学を言説としてとらえるならば、特定の政治家や戦略思想家が「現実」として示す世界が、実は特定の時間と空間の文脈から描き出されていることや、多様で複雑な現実を特定の視点から単純化されていることに気づくことができる。<BR><BR>地政言説の構成と物質的基礎<BR>言説は単に書かれたものとして主体の位置、実生活、あるいは社会の諸制度から遊離しているわけではなく、それらの中に埋め込まれている。地政言説を例にとれば、世界政治の表象は特定の国家の物質的な要素(人口・資源・産業・資本など)と無関係ではなく、それを基礎としてつくり出される。オトゥーホールは地政学の概念的構成を図解している。図の上部におかれるのが三つのタイプの地政言説とその具体的な形態であり、これらの言説は地政的想像力によってつくり出される特定の地政的伝統から派生している。地政的伝統とは、特定の国家の構造を基礎としている。こうした図式は国際関係の分野での言説構成の理解には有効であるが、それ以外のスケールではどうだろうか。<BR><BR>スケールと言説<BR>政治地理学的にみると、地理的スケールは重要な政治的意味を持つ。個人または集団による政治行動は特定の場所において展開し、一定の空間的広がりを持つ。スミス(Smith)が分類する身体からグローバルにいたる7つのスケールは、政治行動が展開される空間的広がりの程度を示している。特定の政治問題や政治行動は特定のスケールを基盤に発生・展開し、またそのスケールの操作をめぐって政治的な駆け引きが起こる。これを「スケールの政治」と呼ぶが、問題のスケールが重層的な場合「スケールのジャンプ」と呼ばれる現象が起こる。こうしたスケールの政治にも地政言説が関係する。それを「スケール言説」と呼び、政治行動の理念的部分において重要な役割を果たす。政治問題や政治運動は単一のスケールで展開するものではなく、多様なスケールの間を往復する。故にスケール言説の分析についてもマルチスケールの視角が求められる。<BR><BR>言説分析の方法<BR>では言説はどのように分析されるのであろうか。社会運動における主体と場所や空間との関係とを明らかにするために、フレーム分析の手法を用いることができる。フレーム分析は、社会運動を「枠づける=フレーミング」言説に着目する。社会運動は特定の信念、価値観、あるいは世界観のもとに組織され、運動組織は自らの活動を正当化し、敵対する立場や組織の考え方を否定する。フレーミングとは、そうした運動の理念を言語的に表現する行為である。フレーミングに着目することで、特定の組織の活動理念の形成過程のみならず、組織内あるいは組織間での異なった理念の同調や対立を検討することができる。こうしたフレーミングは複雑な現実を言説的に単純化することで人々の支持を得ようとする。この点では地政言説と同様の働きをもっている。<BR><BR>地政言説から政治を読む<BR>地政言説と政治との関係を理解することは、地理学という観点から政治を分析する上で有効となる。また、特定の個人や集団が空間や場所を表象する行為から政治的な意図や権力関係を読み取ることは、政治という営みに対する感受性や批判的思考力を高めることにもつながる。そして、私たちがより賢明な市民や有権者であるためには、地政言説の作用に敏感であるばかりでなく、そうした言説の基礎をなすもっと複雑で錯綜した世界や社会の物質的構成(人口・権力・その他資源の配分、すなわち地理そのもの)を理解せねばなるまい。
著者
由井 義通 宮内 久光
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.59-59, 2010

沖縄県における情報通信関連産業は,1990年代後半から始まる日本政府と沖縄県の産業振興政策の誘導などにより,飛躍的な成長を遂げた。特にコールセンターは,沖縄県観光商工部が把握しているだけでも2000~2009年度までの10年間で48社が県内に拠点を開設し,12,031人の新規雇用を創出した。このことから、常に深刻な雇用問題に悩む沖縄県にとって,コールセンターは新たな中核的産業と位置付けられつつある。『平成15年特定サービス産業実態調査報告書テレマーケティング業編』によると,全国のコールセンター従業者の79.1%が女性であることから推察するに,沖縄県におけるコールセンターの集積は,特に女性の就業機会の確保にも大きく貢献しているといえるだろう。 今日,経済のサービス化に伴い,総労働力人口に占める女性労働力人口の割合が高くなる「労働力の女性化」が著しい。なかでもコールセンター業務は,仕事量が多く,マニュアル化された単純な作業,精神的なストレスの多い職場(林,2005)であることに加えて,低賃金の非正規雇用が中心で離職率の高さに特徴づけられる「女性の仕事」であるともいえよう。 沖縄県におけるコールセンターに関するこれまでの研究は,コールセンターの集積地としての動向が注目され,もっぱら産業振興策の紹介と現状把握の側面が強かった(鍬塚,2005)。すなわち,立地論的なアプローチが中心であったといえよう。一方,コールセンターで働く従業者,特にその多くを占める女性従業者の就業に焦点を当てた研究は乏しい。女性従業者の中には,仕事と家事・育児・介護との両立を求められている者も多く,コールセンターにおける雇用の実態とあわせて,生産と再生産の調和を検討することは,「労働力の女性化」が著しい現代において,女性就業を理解する上で重要なアプローチであると考えられる。そこで,本研究の目的は,沖縄県を事例としてコールセンターの雇用特性を把握するとともに,女性の就業と生活の状況を把握することである。研究資料を得るため,本研究ではコールセンター事業所および女性従業者へのアンケート調査および聞き取りを実施した。 結果は学会発表時に報告する。
著者
太田 孝
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.22-22, 2011

(はじめに) 「修学旅行」という言葉は,ほとんどの日本人の心に思い出として残っている言葉であり,長年にわたって学校教育の中で大きな役割をになってきた。白幡1)は,昭和の日本人の「旅行」を「昭和が生んだ庶民の新文化」とする。この「庶民の新文化」がどのように形成され,日本人の特徴としての「団体型周遊旅行」という旅行行動が生まれてきたのかを明らかにすることが本稿の目的である。その際,特に着目したのが修学旅行である。 修学旅行は,日本の特徴的な文化の一つとして定着しており,日本人の旅行を考える上で,決して欠かすことのできないテーマである。昭和時代には国家体制と社会環境の影響を受けながらも,太平洋戦時下を除き息長く継続されてきている。「なんとか子どもたちを修学旅行にいかせたい」。それは父兄のそしてムラ・マチの大人たちの,戦前・戦後を通じての熱い思いであった。昭和戦前期また戦後の荒廃下でも,わが国の地域社会において,都市と農村や生活の格差を越えて幅広い層にわたって組織的に「旅行」を経験し,「外の世界」に触れたのは子どもたちであり,修学旅行にはひとりでも多くの生徒の参加がめざされていた。自分たちが「日頃行動できる範囲=日常生活圏」から離れ,見聞きしたことを家族やムラ・マチの人々に話す。この子どもたちの体験と情報は地域社会に大きな影響を及ぼしたと考えられる。このような問題意識を持ったとき,戦後における日本のツーリズムの画期性を考察するには,その土壌が出来上がる前段の,戦前における人々の「旅行行動の意識形成」の過程をとらえて論じる必要があることに気がつく。本稿のめざすところは,日本人の旅行行動の意識形成を明らかにすることであるが,それに影響を与える大きな役割をになった一つが,幅広い層にわたって誰もが経験した修学旅行であったと考えられる。日本人の旅のスタイルの特徴を形づくってきた淵源のひとつは修学旅行にあるのではないか。このような仮説と問題意識のもとに,戦前において「参宮旅行」と称して全国から修学旅行が訪れた「伊勢」をフィールドとして,筆者が発見した資料(1929~1940年の間に全国から伊勢神宮を修学旅行で訪れた学校の顧客カード3,379校分・予約カード657校分ほかが内宮前の土産物店に存在した)をもとに考察した。(得られた知見) まず第1に,「伊勢修学旅行の栞」による旅行目的と行程の詳細分析から,目的である皇国史観・天皇制教化としての「参宮」を建前としながらも,子どもたちにたくさんのものを見せ,体験させたいという「送り出し側(学校・父兄・地域)」の思いが修学旅行に色濃く反映していることが実証された。その結果としての,短時間での盛りだくさんな見学箇所と時間の取り方や駆け足旅行という特徴は,子どもたちに,『旅行とはこういうものだ』という観念を植えつけ,団体型周遊旅行の基礎を作り上げるとともに,『見るということに対するどん欲さ』を身につけさせた。第2に,夜行も厭わない長時間の移動と,食事・宿泊も一緒という実施形態により,団体型の行動や旅行に慣れていった。この形態が戦後の団体臨時列車,引き回し臨時列車,修学旅行専用列車,バスによる団体旅行等の旅行形態と,それを歓迎する(好む)旅行行動の意識形成につながった。第3に,現代の日本の団体旅行の誘致手法は,江戸時代の伊勢御師の檀家管理手法や講による団体組成方式にルーツがあり,その思想を受け継いだ伊勢の旅館や土産物店の修学旅行誘致・獲得策が,戦後の旅行業の団体営業型のモデルになった。ツーリズムは需要側と供給側の相互作用によって醸成されていくものである。この供給側の需要側に対する活動が日本人の団体型旅行行動意識形成の重要な部分を担ってきたことが検証された。第4に,旅行における『本音と建て前』の旅行行動の意識を明らかにした。すでに江戸時代から存在したものであるが,特に満州事変以降の戦時体制下において,子どもたちの修学旅行を実現するためにその考え方が強く現れている点を指摘した。この『本音と建て前の旅行文化』は,戦時体制下という事情とともに,日本人の余暇観・労働観が旅行行動の意識の根底にあるものである。このように,従来の研究ではとらえられていなかった,戦前の修学旅行が旅行の形態と旅行行動に関する意識形成に与えた影響を明らかにした。そして第5に,この影響は,「都市と農村」や「生活面での格差の階層」を越えた幅広い層の子どもたち本人と,その日常生活圏の人びとに対するものであったことも,戦後の日本のツーリズム形成の要因として見逃すことはできない。1)白幡洋三郎『旅行のススメ 昭和が生んだ庶民の「新文化」』1996.中公新書
著者
土居 浩 西 訓寿
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.P04-P04, 2008

ライトノベルは《どこを》描写しているのか,ライトノベルは《どこに》存在しているのか.文化現象に対してむしろ「場所・空間フェティシズム」(参照:森正人『大衆音楽史』中公新書,2008)をより徹底化させることで,場所・空間研究の立場から,ライトノベル研究ひいてはポピュラーカルチャー研究に寄与することができないか.この目論見を素描することが,本発表の目的である. ライトノベルは《どこを》描写しているのか,との問いで注目するのは,安藤哲郎(「説話文学における舞台と内容の関連性」人文地理60-1,2008)が「舞台」と呼ぶ対象とほぼ同義である.安藤は「舞台」を「登場人物などに何らかの行動がある場所,由緒や出身地としての説明がある場所」として,院政期に編纂された説話集からその「舞台」を抽出した上でさらに分析軸を加える.本発表も安藤と同様に,登場人物の行動を追いかけることで作品の「舞台」を抽出するが,分析軸については安藤の方法をとらない.それは対象とする作品群の違いに拠る.つまり安藤における説話集と異なり,本発表におけるライトノベルが文学研究の対象としてようやくみなされつつある現状を前提としている. 文学作品を対象とする地理学研究に対して小田匡保は,「地理学研究者が文学を扱う際に,文学研究者の研究史を踏まえ,それに(地理学的観点から)何か新しいことを付け加えるのでなければ,文学の人には相手にされないだろう」(「文学地理学のゆくえ」『駒澤地理』33,1997)と指摘している.すでに10年以上経過した現在においてもなお有効な指摘であることを認め,本発表ではライトノベル研究を踏まえつつ,まずは「文学の人」に相手にされる研究を試みた. ライトノベル研究の現状については,大島丈志(「ライトノベル研究会の現在」日本近代文学78,2008)の整理が参考になる.大島は「ライトノベル市場が拡大し影響力を増す一方で,ライトノベルに関する研究は文学研究の落とし穴のような状況になっている」と指摘した上で,ライトノベル研究会で蓄積された知見を紹介する.そのひとつとして,ライトノベルの成立期におけるTRPG(テーブルトーク・ロールプレイングゲーム)の影響がある.この点に関連し発表者はライトノベル研究会に参加し,ライトノベルが描写する「舞台」について直接に研究会参加者たちと意見交換する中で,「舞台」の時期的変遷が参加者たちにある程度共有されつつも,いまだ実証的検討が試みられていないことに気がついた. ライトノベル研究に場所・空間研究の立場から寄与すべく,本発表ではアスキー・メディアワークス(旧メディアワークス)主宰の小説賞である電撃小説大賞を対象とし,その大賞・金賞受賞作品は《どこを》描写しているのか,作品の「舞台」を抽出し整理を試みた.その結果,90年代の受賞作品と,00年代の受賞作品とでは,その「舞台」の明確な差異が指摘できた.ライトノベルはより《学校を》描写するようになってきており,端的に述べればライトノベルの「舞台」は《学校化》しているのである. 以上は作品内部の分析である.では作品外部はどうか.これに対応する問いが,ライトノベルは《どこに》存在しているのか,である.森前掲書の「重要なキーワード」である「聴衆,音楽産業,商品化,物質化,アイデンティティ,政治,歴史,地理(移動,場所,空間)」は,冒頭の二語を「読者,出版産業」等に置換すればそのままライトノベルの語り口としても適用可能かつ重要なキーワードとなる.とはいえこれらキーワードが示すメタ次元の問いを発する前に,本発表ではベタな実地踏査を試みた結果を報告する.その意味では断片的報告であり,トポグラフィならぬトポグラフィティを名乗る所以でもある.
著者
西山 弘泰 小泉 諒 川口 太郎
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.35-35, 2009

本発表では,1970年以降東京都心から25~30km圏に立地するアパートに着目し,その居住者の実態を明らかにすることを目的としている.本研究の対象地域は東京都心から25km,埼玉県南西部に位置する東武東上線鶴瀬駅半径1kmを範囲とした住宅地である(図2).当地域は埼玉県富士見市,三芳町の一部で,小規模な戸建住宅や共同住宅,商店などが混在している.都市計画法による用途地域は,第1種中高層住居専用地域(建蔽率60%,容積率200%)が主ある.東武東上線鶴瀬駅から池袋駅までの所要時間は約30分と比較的都心へのアクセスは良い.鶴瀬駅周辺の住宅地開発は,1957年の公団鶴瀬第一団地,1962年の公団鶴瀬第二団地の開発に端を発し,その後地元や東武東上線沿線の中小ディベロッパーを中心とした小規模な戸建住宅地開発,農家や地主のアパート建設が中心である.アパートの建設は1970年以降増加し,1980年代から1990年代前半にかけて増加が著しい.これは鶴瀬駅の南隣にあるみずほ台駅の土地区画整理事業が完了し,そこに地権者がアパートを建設したことや,農家や地主が地価の上昇によって不動産収入が必要になったこと,共同住宅建設に住宅金融公庫の融資を受けられるようになったことなどが要因と考えられる.2005年の国勢調査によると対象地域においてアパートに居住する世帯は3,266世帯である.本研究では2009年3月,対象地域に立地するアパート3,000戸にポスティングによるアンケート調査を実施し,135票(回収率4.5%)の郵送回答を得た.対象者の世帯の種類は,単身世帯が72世帯,夫婦のみの世帯17世帯,夫婦と子からなる世帯が26世帯,片親と子からなる世帯が13世帯,その他の世帯が7世であった.単身世帯が半数以上を占めているものの,世帯構成以外に,年齢,職業,学歴,出身地などは多様で一括りにすることは困難である.単身者は40歳未満が40世帯,40歳以上が32世帯で平均年齢41.8歳であった.住居の間取りは1Kや1DKで,一戸当たりの平均延べ床面積は27.0_m2_であった.また築年数は10~19年,駅から徒歩10分のアパートを4万円以上6万円未満で居住するというのが平均的である.単身者の仕事は,37人が正規の職に就いており,17人がアルバイト・パート,派遣・嘱託といった非正規労働に従事している.その他,学生が6人,無職・家事が12人であった.40歳未満の若年単身者の居住期間が約3年と短いのに対して,40歳以上の単身者は7年と永い.夫婦のみの世帯は,40歳未満の比較的若い層が17世帯中11世帯と多かった.住居の間取りは,2DKや2LDKで,一戸当たりの平均延べ床面積は46.5_m2_,家賃は6万円以上8万円未満が最も多かった.転居の意向をみてみると,40歳未満の世帯で転居予定の世帯が多かったのに対して,40歳以上の世帯で不明確な回答が多かった.夫婦と子からなる世帯も夫婦のみの世帯同様40歳未満の比較的若い世帯が大半を占めていて,第一子も小学校就学前が多くなっている.間取りや延べ床面積,家賃については,夫婦のみの世帯と類似している.40歳以下の世帯では転居志向が強く,転居先は近隣の戸建住宅を購入することを希望している.一方,夫が40歳以上の世帯では居住年数が平均12年と長くなっていて,転居意思が低いのが特徴である.最後に,片親と子からなる世帯では,1世帯を除いた12世帯が母子世帯であった.家賃は6万円以上8万円未満と6万円未満が同数であった.築年数をみてみると他のグループと比べ築年数が経過しているアパートに居住する世帯が多いのも特徴である.明確な転居意思を持った世帯は皆無であり,滞留傾向が強くなっている.以上のように,若年の単身者やファミリー世帯においては,転居意思や居住年などから従来のようにアパートが仮の住まいとして認識されていることがわかる.一方で,比較的年齢の高い層や片親世帯などはアパートに滞留する傾向がみられることが指摘できる.
著者
成瀬 厚
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.19-19, 2011

1970年代の人文主義地理学によってキーワードとされた「場所place」は概念そのものの検討も含んでいたが,その没歴史的で,本質主義的な立場などが1980年代に各方面から批判された。1990年代にはplaceを書名に冠した著書や論文集が多数出版されたが,そこでは場所概念そのものの検討はさほどなされなかったといえる。本報告では議論を拡散させないためにも,検討するテクストをプラトンの『ティマイオス』および,そのなかのコーラ=場概念を検討したデリダの『コーラ』を,そしてアリストテレスの『自然学』および,そのなかのトポス=場所概念を検討したイリガライの「場,間隔」に限定する。プラトン『ティマイオス』におけるコーラとは,基本的な二元論に対するオルタナティヴな第三項だといえる。コーラは岩波書店全集では「場」と翻訳されるものの,地理的なものとして登場するわけではない。『ティマイオス』は対話篇であり,「ティマイオス」とは宇宙論を展開する登場人物の名前である。ティマイオスの話は宇宙創世から始まるが,基本的な種別として「存在」と「生成」とを挙げる。「存在」とは常に同一であるもので,理性(知性)や言論によって把握される。これは後に「形相」とも呼び変えられる。「生成」とは常に変化し,あるという状態のないものであり,思わくや感覚によって捉えられる。創世によって生成した万物は物体性を具えたもので,後者に属する。そのどちらでもない「第三の種族」として登場するのが「場=コーラ」である。コーラとは「およそ生成する限りのすべてのものにその座を提供し,しかし自分自身は,一種のまがいの推理とでもいうようなものによって,感覚には頼らずに捉えられるもの」とされる。その後の真実の把握を巡る議論は難解だが,ここにコーラ概念の含意が隠れているのかもしれない。いや,そう考えてしまう私たちの真理感覚を問い直してくれるのかもしれない。デリダはコーラ概念を,その捉えがたさが故に検討するのだ。「解釈学的諸類型がコーラに情報=形をもたらすことができるのは,つまり,形を与えることができるのは,ただ,接近不可能で,平然としており,「不定形」で,つねに手つかず=処女的,それも擬人論的に根源的に反抗するような諸女性をそなえているそれ[彼女=コーラ]が,それらの類型を受け取り,それらに場を与えるようにみえるかぎりにおいてのみである」。『ティマイオス』では,51項にも3つの種族に関する記述があり,それらは母と父と子になぞらえられる。そして,コーラにあたるものが母であり,受容者であり,それは次のイリガライのアリストテレス解釈にもつながる論点である。このコーラの女性的存在はデリダの論点でもあり,またこの捉えがたきものを「コーラ」と名付けたこの語自体の固有名詞性を論じていくことになる。アリストテレスのトポス概念は,『自然学』の第四巻の冒頭〔三 場所について〕で5章にわたって論じられる。トポスは,物体の運動についての重要概念として比較的理解しやすいものとして,岩波書店全集では「場所」と翻訳されて登場する。アリストテレスにおける運動とは物質の性質の変化も含むため,運動の一種としての移動は場所の変化ということになる。ティマイオスはコーラ概念を宙づりにしたまま,宇宙論をその後も続けたが,アリストテレスは「トポス=場所」を物体の主要な性質である形相でも質料でもないものとして,その捉えがたさを認めながらも論理的に確定しようとする。トポスには多くの場合「容器」という代替語で説明されるが,そこに包含される事物と不可分でありながらその事物の一部でも性質でもない。イリガライはこの容器としてのトポスの性質を,プラトンとも関連付けながら,女性としての容器,女性器と子宮になぞらえる。内に含まれる事物の伸縮に従って拡張する容器として,男性器の伸縮と往復運動,そして胎児の成長に伴う子宮の拡張,出産に伴う収縮。まさに,男性と女性の性関係と母と子の関係を論じる。この要旨では,デリダとイリガライの議論のさわりしか説明できていないし,これらの議論をいかに地理学的場所概念へと展開していくかについては,当日報告することとしたい。
著者
豊田 哲也
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.312-312, 2007

<B>1.問題の所在</B><BR> 「都市と地方の格差問題」は今日わが国における最も重要な政策テーマとなったが、その事実認識について論争はつきない。現象としての所得格差には2つの意味がある。一つは「都市-地方」という空間的な関係であり、もう一つは「富裕層-貧困層」という階層的な関係である。ところが多くの場合、前者の分析は1人あたり県民所得など平均値の差のみに注目し、格差の階層的構造についての視点を欠く。一方、後者の分析は所得再分配調査など全国一律のデータをもとにおこなわれ、地域間の比較については関心がない。しかし、地域と地域の間に格差があるのと同様、どの地域もその内部に階層的な格差を抱えていることは自明の事実である。例えば、高級マンションとホームレスが併存する大都市と、過疎化・高齢化が進む中山間地域を含む地方とでは、いずれの地域で格差がより大きいであろうか。また、地域間・地域内の格差はどの程度拡大しているのか。本研究では、世帯所得の地域格差を空間的・階層的かつ時系列的に分析し、こうした格差を生み出す要因として人口や雇用など地域の社会経済条件との関連を検討することを目的とする。<BR><B>2.所得の地域格差</B><BR> 使用するデータは「住宅・土地統計調査(都道府県編)」である。「世帯の年間収入」の階級別世帯分布から、線形補完法でメジアン(中位値)、第1五分位値(下位値)、第4五分位値(上位値)を推定するとともに、ジニ係数を求める。なお、実質所得は世帯人員の規模の影響を受けるため、SQRT等価尺度を用いて調整を加えた。1998年から2003年にかけて、等価年間収入の中位値は全国平均で286万円から267万円に約9%低下している。都道県別に見ると、神奈川、東京、千葉など首都圏と愛知で高く、沖縄、鹿児島、宮崎、高知など九州・四国と青森など東北で低い(図1)。<BR> 次に、年間収入の中位値を横軸に、ジニ係数を縦軸にとって各都道府県の散布図を描く(図2)。おおむね年間収入が高いほどジニ係数は低いという逆相関を示す。東京は両者とも高いのに対し、大阪や京都では所得水準が中程度でありながらジニ係数は高い。地方でジニ係数が目立って低いのは富山、新潟、長野、山形など北陸・信越地方で、高いのは徳島・高知など南四国と和歌山である。5年間の変化を見ると、縦軸方向で示される地域内格差はやや拡大しているが(ジニ係数の平均値:0.294→0.299)、横軸方向のばらつきで示される地域間格差は、予想に反してむしろ縮小していることがわかる(中位値の変動係数:0.126→0.109)。平均対数偏差(MLD)を用いた要因分解によっても、この結果は支持される。<BR><B>3.地域格差の要因</B><BR> 空間的な地域間格差と階層的な地域内格差をもたらす要因を探るため、人口や雇用などの地域の変数と所得およびジニ係数との間で相関係数を算出した(表1)。人口構成に関しては、生産年齢人口が多く老年人口が少ない地域ほど所得水準は高い。一方、女性就業率の高さは地域内格差の縮小に貢献している。また、労働力需要が弱い高失業率地域では、所得の下位値が低下しジニ係数が高まる傾向にある。職業別就業構造との関係を見ると、農林漁業が多いほど所得水準は全般的に低く、事務職が多いほど所得水準は高いが、両者ともジニ係数への影響は中立的である。これに対し、専門技術職は上位値を引き上げ、サービス業は下位値を引き下げるよう作用し、両者が相まって格差を拡大する要因となっている。対照的に、ブルーカラー就業者の多い地域では格差が抑制されている。さらに、このような地域間の所得格差は人口移動と強い正の相関を示すことから、地方から都市への人口集中をより促進するよう作用していると考えられる。<BR><B>4.今後の課題</B><BR> 世帯所得の格差に関する今回の分析から、問題は地域間格差の拡大ではなく、むしろ地域内格差の拡大にあると言える。結果についてさらに解釈を深めるには、推計方法や地域区分を再検討する余地がある。これ以外に都道府県別の世帯所得データが得られる「全国消費実態調査」や「就業構造基本調査」を用いた場合と、結果を比較検証する必要もあろう。今後、地域格差の要因を究明していくには、論理的な因果関係を組み込んだ説明モデルの構築が求めらる。<BR>
著者
川西 孝男
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.17, 2011

ドイツの劇作家リヒャルト・ヴァーグナー(1813-83)は晩年,バイロイトに終の棲家を得て,ここに自らのオペラ専用たるバイロイト祝祭劇場を建造し,舞台神聖祝祭劇「パルジファルParsifal」(1882)を完成させた。本論は,この「パルジファル」の主題となったヨーロッパの聖杯騎士伝説とバイロイトとの関わりについて歴史地理学的視点から論じたものである。
著者
安藤 哲郎
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.19, 2005

本発表では、平安京における「成長」の概念について、日記や物語などの歴史的資料(史料)を基に、都のモチーフや動静を理解して考察を試みた。<BR> 都市の場合には人口や経済から成長の探求が行われるが、都は生産性と別次元にある。そこで、都と必要十分の関係にある天皇家や官人がどう考えていたか、という面から考えることとした。都が「宮処」である観点も大きく、また彼らの考え方を知る術もあるからである。<BR> 都は天皇が常に位置していることが求められたが、時折京外へ出かけた。その行幸(上皇の場合は御幸)から理解を試みるため、「京外空間」を糸口として考えた。まず、平安遷都前後における天皇遊猟の目的地から、遷都行動(遊猟)が平城・長岡・平安3京を相互に結び付けた可能性がみられた。また、白河上皇時代の行幸・御幸状況から、前期は成人天皇と共に鳥羽を王家の地として人々に認識させ、後期は幼主のために摂関家に由緒のある白河を王家の地になすことで王権伸張に役立てたとみられた。<BR> 天皇は次第に遠出をしなくなり、京周辺の神社などから日帰りするようになった。一方で王家の地となった鳥羽や白河などは日帰りしなくてもとくに指摘されない。そういう意味では、都人は自由になる京外空間が広がっている。<BR> ただし、平安京が外を好まない傾向は残っていた。比べてみれば、「都会」と表現されていた太(大)宰府は御笠下流の博多に鴻臚館を設け、そこと一体となったまちであった。一方平安京は交流施設を近くに持たなかった。京に近いところが都とは違うことも表現されている。<BR> 平安京は限られた空間の中で完結する都であり、他との接触を好まない都であることは続いていたが、その周辺部が平安京の意味付けのために使われ、自由に訪問できる空間として整備されることがあった。都人の活動空間が広がったと意識される意味では「成長」と言える可能性がある。<BR>
著者
冨永 哲雄
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2013, pp.144-145, 2013

大阪市西成区北部において展開される生活保護市場に注目して、社会資源の動向及び、地域のリノベーション過程を明らかにする。
著者
小田 匡保
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2013, pp.52-53, 2013

小田(2002)に引き続き、『地理学文献目録』第11~12集を利用して、2000年代の宗教地理学の動向を検討する。
著者
山下 清海 尹 秀一 松村 公明 杜 国慶
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.503, 2008

1.問題の所在<BR> 1970年代末以降の改革開放政策の進展に伴い,中国では,海外への留学や出稼ぎなどの出国ブームが起こり,これは現在でも継続している。今日,世界の華人社会は,ダイナミックに膨張と拡散を続けており,従来の伝統的な「華僑像」ではとらえきれない新しい局面を迎えている。日本においても,1980年に52,896人であった在留中国人(中国籍保有者)は,2007年には606,889人となり,韓国・朝鮮人(593,489人)を抜いて,国籍別で初めて第1位となった。<BR> 本報告は,中国の改革開放政策実施後,日本において急増した華人ニューカマー(いわゆる「新華僑」)の日本への送出プロセスの解明を目的に進めている研究プロジェクトの中間報告である。今回の発表では,中国東北地方,特に吉林省延辺朝鮮族自治州での現地調査の成果を中心に発表する。現地調査は,遼寧省の瀋陽・大連,黒龍江省のハルビン,吉林省の長春・延辺朝鮮族自治州(州都は延吉)で,2006~2008年の毎年夏に実施し,特に延辺朝鮮族自治州での調査に重点を置いた。各調査地では,日本語学校,大学の日本語教育機関,海外留学・労務斡旋会社,日本渡航経験者,日本在留者の留守家族,日系企業などを対象に聞き取り調査,資料収集を行った。また,並行して,日本国内の華人ニューカマーからの聞き取り調査も実施した。<BR><BR>2.日本における東北出身者の増加<BR> 在留外国人統計に基づいて,日本在留中国人人口の推移をみると,華人ニューカマーが増加したのは,1978年末の中国の改革開放政策実施後,とりわけ1980年代後半以降である。在日中国人人口が増加する過程で,非常に興味深い特色は,出身地(本籍地)の変化である。<BR> 日本政府は1983年に「留学生10万人計画」を打ち出し,就学生の入国手続きを簡素化した。一方,中国政府は1986年,公民出境管理法を施行し,私的理由による出国も認めるようになった。このような日中両国の規制緩和により,中国から就学ビザや留学ビザで来日する者が急増した。<BR> 当時の中国人就学・留学生の多くは,上海市と福建省の出身であった。しかし,2007年には在日中国人(606,889人)のうち,_丸1_遼寧省16.1%,_丸2_黒龍江省10.3%,_丸3_上海市9.5%,_丸4_吉林省8.5%の順となり,遼寧・黒龍江・吉林の東北3省(東北地方)を合計すると全体の34.9%(211,951人)を占めるまでになった。<BR><BR>3.東北地方出身ニューカマーの中国における送出プロセス<BR> 2000年の中国の人口センサスによれば,中国の55の少数民族のうち,朝鮮族は人口順で13位(1,923,842人)であり,その大多数は東北地方に居住している。朝鮮語は文法や発音などで日本語と類似しており,朝鮮族にとって日本語は,外国語の中で最も学び易く,大学入学の外国語科目の試験では得点が取り易い外国語であった。1980年代後半から,就学ビザを取得して日本へ渡航できるようになると,東北地方では,特に日本語能力の高い朝鮮族の間で,日本への留学ブームが起こった。朝鮮族にとっては,最も身近な外国は韓国であるが,韓国より多くの収入が得られ,子どもの時から学校では,英語でなく日本語を外国語として学んできた朝鮮族にとって,日本は渡航希望先として第1の国であった。先に日本へ行った親類や友人を頼り,チェーン・マイグレーションにより日本へ渡航する朝鮮族が増加していった。東京の池袋駅や新大久保駅周辺には,朝鮮族が開業した中国東北料理店や中国朝鮮料理店などが集中している。延辺朝鮮族自治州の延吉郊外の朝鮮族の村では,若者の多く(男女とも)が,日本や韓国に渡航したまま帰国せず,海外からの送金によって高齢者ばかりが生活している村がみられる。<BR> 東北地方における外国企業では,韓国企業の進出が最も目覚ましいが,日本企業も韓国に次いで重要な地位を占めている。特に大連には日本企業のコールセンターやソフト関連施設が多数設けられ,日本語能力が高い人材が求められている。東北地方は,中国国内でも日本語学習者や日本留学希望者が多い地域である。日本語を習得して大連,さらには上海,深圳などの沿海地域の大都市に進出した日系企業への就職を志望する者が多い。<BR> 近年の中国国内の留学ブームを反映して,大連,瀋陽,ハルビン,長春,延吉など東北地方の主要な都市には多数の外国語学校・留学斡旋会社がある。2003年に発生した福岡一家4人殺害事件(犯人の3人の中国人留学生のうち2名は吉林省出身)以後,日本留学のビザ申請に対する日本側の審査が厳格化したため,外国語学校や留学斡旋会社では,主要な渡航先であった日本から,重点を韓国への留学や出稼ぎに切り替えている
著者
三上 絢子
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.304-304, 2008

奄美諸島は第2次世界大戦後(以下、戦後)の1945年から1953年まで、日本本土から行政的・社会的・経済的に分離され、米軍統治下に置かれた。このような状況下の奄美諸島では日本本土との正規の交易は断絶したが、一方で盛んに密貿易が行われて、島の人々の生活を支える重要な役割を果たした。本研究の目的は奄美における密貿易の成り立ちを明らかにすることである。<BR> 奄美諸島は東経128度~130度、北緯27度~29度に位置し、鹿児島から台湾までおよそ1200キロに及ぶ南西諸島のほぼ中央に位置し、鹿児島の南南西約380Km、沖縄から280Kmに主島である奄美大島があり、他に喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島、加計呂麻島、請島、与路島の有人8つの島々から成り立っていて、戦前までは日本本土との交流も海上交通によって、経済活動が行われていた。<BR> 1946年(昭和21年)2月2日、奄美諸島は連合軍最高司令部の覚書「若干の外郭地域を政治上、行政上日本から分離することに関する」によって、北緯30度線以南の南西諸島は日本政府から行政分離される事が明らかにされ、アメリカ海軍軍政府の直轄支配下におかれることになる。鹿児島と奄美大島の海上200海里の海上が国境線で閉ざされ「海上封鎖」で自由渡航も禁止となり、戦前には日本本土の消費を目的に生産されていた黒糖は、販路を閉ざされて市場を失った。<BR> 戦前には生活必需品から学用品に及ぶ物資は日本本土から流入していたが、戦後は極度の物資不足におちいる。一方、日本本土においても黒糖は貴重品で奄美諸島が分離されて入手できず、黒糖不足の状況下にあった。このように日本本土の黒糖、奄美の生活物資といった品物の需要と供給で発生したのが密貿易である。米軍政府は「密航に関する件」によって、取締まり対象と適用範囲を北緯27度20分より北緯30度に至る水域を出入りする特別渡航許可書を持たない船舶は密航とみなすと発令し、厳重な取締り対策をとった。密貿易は鹿児島、奄美間の2百海里の海上をわずか5~6トンのポンポン船と呼ばれる焼玉エンジンの小型船で、巡視船や警備船の目をかいくぐって、トカラ列島の口之島を拠点として、本土商人と取引が盛んに行われた。また台湾、沖縄、朝鮮からの50~60トンの大型船が、本土商人と海上での沖取引をしているケースもある。船賃は黒糖や米軍配給衣料の羅紗生地等でバーター方式がとられ、奄美の商人達は戦略商品に本土側の需要の高い黒糖を運び出し、本土側からは学用品、日用雑貨品、瀬戸物、鍋、化粧品等の生活必需品を流入して、物資不足のトカラ列島、奄美、沖縄の島民の生活を支えてきた。人々は密航船を「ヤミブネ」、「タカラブネ」と呼び密貿易を「ヤミトリヒキ」、「ヤミ商売」と呼んでいた。<BR> 奄美諸島の密貿易船の主な出航地は、宇検村の名柄港・平田港、大和村の津名久港・浦内港、瀬戸内の久慈港・古志港旧三方村の大熊港、龍郷村の芦徳・瀬留・久場の各港、喜界島の小野津港、徳之島の秋津港、亀徳港、与論島の赤崎海岸・大金久海岸が主な出航地である。<BR>『徳之島町誌』によると、1946年徳之島では、生活物資が島に持ち込まれなく行政的な封鎖が経済的封鎖となり、島の経済が崩壊する危機感で密貿易に目を向け、島の特産品の黒糖を持ち出す手段をとったと記述されている。戦前奄美で経済活動をしていた島外出身の寄留商人は戦争によって撤退し、入れ代わって島の商人達が命がけで封鎖された海上を越えて、生活物資をつなぐ役目を自らの責任で、密貿易が行われている。密貿易が行われるのは、そこには需要と供給があるからである。米軍政府の厳しい取締りと摘発の中で、行われてきた密貿易は、人々の生活を支える重要な役割を果たしたとともに奄美経済の原動力となった側面もあった。密貿易が展開されたのは、戦前に奄美を撤退した寄留商人が関わったからこそ成立したのであり、その結果、奄美出身者の多くの商店主を誕生させている。このように米軍統治下での統治政策が島の経済に及ぼしたものはマイナスだが、闇市を起点の「市場」や密貿易による「商店街」を中心とした自立への興隆が奄美の暮らしに及ぼしたプラスの側面を見逃すわけにはいかない。奄美社会の足元を固めることとなったといえるだろう。
著者
麻生 将
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.15-15, 2006

新聞をはじめとするマス・メディアがある特定の空間スケールをもって報道をし、その結果様々な社会的・地理的現象が生じるという事例は、近代社会におけるひとつの特徴とも言える。そして近代の、宗教集団と地域社会との諸関係の中で生じる諸現象においてもマス・メディア、特に地域メディアが一定の役割を果たしている事例が少なからず見られる。 こうしたことを踏まえ、本研究は1930年代に起こった美濃ミッション事件という一宗教集団と地域社会との間に生じた事件の中で、美濃ミッションをめぐる様々な言説がせめぎ合う状況、すなわち美濃ミッションをめぐる言説空間の生成に地域メディアがどのような役割を果たしたのかを考察することを目的とする。そして美濃ミッションに対する空間的排除の論理の正当化に地域メディアがどのような役割を果たしたかを考察することを目的とする。 美濃ミッションとは、アメリカ人宣教師セディ・リー・ワイドナー(以下、ワイドナーと呼ぶ)によって1918年に大垣市郭町に設立されたプロテスタントの教団である。ワイドナーは大垣市を中心とする西美濃に教会を設立し、布教活動を展開した。その中で大垣市の美濃ミッション本部での幼稚園経営の他、在日朝鮮人や寡婦、母子家庭の親子、孤児、紡績工場の女性労働者らを積極的に保護し、布教を行った。こうした社会的に排除される傾向、要素を相対的に多く持つ人々、集団と積極的に関わりを持つことで次第に美濃ミッションという教会が周囲から「異質な」存在と見なされるようになっていったと考えられる。それは美濃ミッション事件における周辺住民や様々な社会集団の行動からそのように分析されるが、詳細は別稿に譲る。 次に美濃ミッション事件について概要を述べる。1933年6月、大垣市の市立小学校に通う美濃ミッション所属の児童らが、修学旅行の恒例行事であった伊勢神宮への参拝を信仰上の理由で拒否し、修学旅行への不参加を申し出た。これに対し学校側は児童とその母親、そしてワイドナーに対して神社参拝についての「教育的指導」を行った。しかし彼らは信仰上の理由で参拝拒否を貫いた。その結果、同年6月下旬から10月まで複数の新聞社がこれを大々的に報道した。大垣市教育委員会は8月、児童らに対して小学校令第38条に基づく性行不良を理由に出席停止、停学の処分を下し、彼らはそれぞれ市外の私立学校に転校した。 この事件において美濃ミッション排撃を主題とする講演会がたびたび開催された。また暴力的な市民が美濃ミッション本部の敷地へ押しかけて罵声を浴びせ、投石を行うなど日常的な暴力行為を行った。そして大垣市内および周辺の各界関係者らは新聞紙上で美濃ミッションへの批判を展開していった。6月から9月にかけて暴徒による美濃ミッションへの焼き討ち計画があり、実行される寸前で警官がこれを止めさせたという。事件そのものは、同年9月に入ってから新聞報道も自然に減少し、次第に終息していった。 今回使用する新聞は1933年6月から10月頃の美濃大正、岐阜日報、朝日、毎日そして読売の各紙である。 報道の焦点は当初、神社参拝を拒否した信者個人に当てられていた。それが6月22日から7月6日の投書記事が連日掲載される前後から、次第に美濃ミッションそのものに報道の焦点が移っていった。ここではいくつかの記事を挙げ、そこに現れている空間スケールを読み解く。 例えば1933年7月18日の大阪朝日新聞岐阜県版と同年8月6日の美濃大正新聞にはそれぞれ「…幼稚園閉館を断行を以て帝国の版図より悪思想を駆逐せんことを期す」「…更に全国的に経過報告をして神社参拝を拒否するような思想を国内から撲滅すると同時に此際愛国的観念を強調することが最も緊要だと思う。」とある。美濃ミッションの児童そして関係者の態度はナショナルなスケールで「異質な」ものであるという報道がなされた。特に後者の記事は岐阜県選出の衆議院議員大野伴睦のインタビューであるが、このような地元出身の有力者の発言がナショナルな文脈の言説と同時にローカルな文脈での親近感や美濃ミッション排撃の信念、確信を市民に与えたと考えられる。そして美濃ミッションをめぐるナショナルスケールの「異質さ」という言説がより強固に生成されていったと考えられる。 他方、大垣市民は身近な存在であった美濃ミッションに対する恐怖や怒りといった言説を抱き、日常的暴力を繰り返していた。そしてこのことは地域メディアでたびたび報道された。 美濃ミッション事件は大垣市でのローカルな事件であったが、美濃ミッションを巡る言説はナショナルな文脈であるとともに身近な存在への恐怖、怒りといった言説であった。こうした異なる文脈の言説を地域メディアが報道することで、美濃ミッションに対する空間的排除の論理が正当化されたのである。
著者
山本 匡毅
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.4-4, 2006

第三セクター鉄道は,地域公共交通の維持・発展を目的として作られた制度である.この第三セクター鉄道という方式は,臨海鉄道などの貨物輸送を除けば,初めに岩手県にある三陸鉄道に導入され,赤字ローカル線の黒字経営を実現した.それによって第三セクター鉄道が評価されこととなった.ところがポストバブル期には第三セクター鉄道の経営に厳しさを増した.その結果,鉄道経営における第三セクター方式への疑問も出されたが,整備新幹線の建設に伴う並行在来線の維持のために第三セクター方式が活用されることとなり,このたび再び見直されることになった.本発表では,長野新幹線の開業によって開業したしなの鉄道を事例としながら並行在来線の第三セクター化を取り上げ,地域社会の持続的発展における影響について考察していくことにする.
著者
阪野 祐介
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.10-10, 2006

_I_ はじめに 第二次世界大戦敗戦から約4年後の1949年6月,日本において,キリスト教の聖人の一人であり,日本にキリスト教を伝来させた人物として知られる聖フランシスコ・ザビエルの渡来400年を記念する行事が行なわれた。<BR> 1949年当時の日本は,言うまでもなくGHQによる占領期であった。カトリックはGHQ統治という社会的状況のもと,宗教界のおいて非常に優位な立場にあったことが推測される。そして,1949年にザビエル渡来400年祭が全国的規模で催行され,世界各国からの巡礼団の来日や,皇室関係者の参列などもみられ,当時の日本の宗教的・社会的背景の一端を垣間見ることができる。<BR> こうした文脈において,本発表では,戦後日本という時間・空間の中で,カトリックの社会的位置づけの変容や,この宗教的行事が持つ意味を検討することが目的となる。また,このザビエル渡来400年祭を通して,非継続的・一時的な宗教行事と場所の関係に注目し,宗教儀礼の場という非日常的空間が,日常の空間において現れたことが当時の社会の中にあっていかなる意味を持ち,人々の間で捉えられたかを明らかにしたい。特に,この一連の行事のなかでも,西宮で行なわれた荘厳ミサを中心として考察を進める。<BR><BR>_II_ ザビエル渡来400年祭の概要 ザビエル渡来400年祭は, 1949年5月29日~6月12日までの二週間にわたり、日本各地で公式式典が執り行われた。この式典に際し,世界各国のカトリック教会から司教レベルの聖職者等からなる巡礼団が来日した。巡礼団の内訳は,オーストラリア・シドニー大司教ノーマン・ギルローイ枢機卿をローマ教皇特使として任命し,巡礼団の団長とした。スペインからは,33名の使節団が,聖フランシスコ・ザビエルの聖腕とともに来日したほか,米国やフィリピン,インドからも使節団が日本に集結した。<BR> 公式式典にともなう巡礼団の行程は,長崎浦上天主堂廃墟前での荘厳ミサを皮切りに,鹿児島,大分,山口,広島,西宮(荘厳ミサ),高槻,名古屋,横浜,東京・麹町イグナチオ教会とめぐり,6月12日の明治神宮外苑での荘厳ミサで日程を終えた。ただし,公式式典終了後も,聖フランシスコ・ザビエルの聖腕は,「六月二四日…札幌で崇敬され、函館、青森、盛岡、仙台、福島、山形、秋田、鶴岡、新潟、金沢の各市を三週間にわたって歴訪」し,「訪問することのできなかった町においても信者は駅へ来て列車の中の聖腕を崇敬したこともあった。そして七月下旬に…静岡、岡山、松江、米子、高松、高知、姫路などで聖腕を数多くの信者に顕示し、各地で熱心な祈りの集まりが行なわれた」ことが記されている。<BR><BR>_III_ 西宮球場とメディア・イベント ザビエル渡来400年祭は,以上のように日本各地をめぐり,なかでも,長崎,西宮,東京においては荘厳ミサが行なわれた。そのなかで,西宮で行われた荘厳ミサに注目すると,会場となった西宮球場では,1937年に球場が完成して以来,様々なイベントが開催されていた。<BR> ザビエル渡来400年祭が行なわれた翌年の1950年には,アメリカ博覧会が大々的に開かれた。この博覧会は,朝日新聞社主催,外務省,通産省,建設省,文部省,日本国有鉄道,西宮後援となっているが,事実上は,GHQの全面的なバックアップによって開催された。そして,200万人という大衆動員を成功させたとされている。そこで,重要な役割を果たしたのが,朝日新聞社の積極的宣伝であったことも見逃せない。その前年に催されたザビエル渡来400年祭も同様に,メディア・イベントとして捉えることができる。ザビエル渡来400年祭は,カトリックの聖人を記念する宗教的行事であるが,先述のとおり,GHQが深く関わっており,まさに,「国家や国際機関が主催の場合にも,それが受容されていく過程では,メディアが決定的な役割を果たしていくイベント」として捉えることができよう。<BR><BR>_IV_ おわりに 以上のように,日本の社会状況が敗戦後の連合軍統治下,日本各地を尋ねた巡礼団の足跡をも含めると、当時の統治者であるGHQの政治的思惑としてのキリスト教化とカトリックの宣教・布教の欲求の合致がみられる。それは,この宗教的行事が,聖フランシスコ・ザビエルの功績を讃える意味とは別に,「平和・復興の祈り」という意味がこめられている点にも読み取ることができよう。
著者
三原 昌巳
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.21-21, 2010

「予防医学の時代」に健康増進や疾病予防を目的にした旅行(ヘルスツーリズム・医療ツーリズム)に関心が集まっている。その一つである、ここ数年で急成長した検診ツアーは、医療施設(主に病院)・旅行会社・宿泊施設(旅館やホテル)が提携することによって積極的な広報活動を行い、顧客を呼び込もうとする新しい試みである。このような動きは地理学的な観点からみると、患者の居住する地域つまり受療圏が非常に広範囲であることに加え、都市部の患者が地方へ受診に向かうという行動は従来の受療行動からすれば一般的ではないといえる。これまでの地理学では居住地と医療施設間の物理的移動に着目しながら地域医療における患者のアクセシビリティについて検討がなされてきたが、患者にとって地理的障壁はもはや存立しないのだろうか。予防医学の推進によって、医療施設までの距離や移動時間といった地理的要素は重要視されなくなったのか。こうした問題意識を踏まえ、本発表では福島県郡山市内の医療施設で実施されているPET(ペット)検診ツアーを事例にし、PET検診ツアー成立までの過程、検診ツアー参加者の特徴を述べると同時にその地理的特性を明らかにしたい。具体的な調査方法としては、現地調査を2010年6月~8月にかけて実施した。クリニック、受入れ旅館・観光協会、旅行会社3社などを対象に聞取り調査や資料収集を行った。PETは、ポジトロン・エミッション・トモグラフィー(Positron Emission Tomography/陽電子放射断層撮影装置)の略語で、日本人の3大死因のトップを占めるがんの早期発見の切り札として、近年注目される検査方法の一つである。しかし、1台数億円と言われる高額なPET(またはPET-CT)機器に加え、検査薬の製造室や空調設備までを兼備しようとすると、大規模な医療施設でさえPETの導入はしづらいものであった。このため当初は全国的にもPETを導入する医療施設はわずかで、とくに人口の多い都市部において受診予約がとりにくい状況が続いていた。検診ツアーは、このような状況を察知した旅行会社によって企画された。廉価なツアー価格設定が可能な飛行機での移動が専らで、名古屋、羽田、大阪などの空港から出発し、目的地は北海道、九州・沖縄などであった。20万円前後の価格にもかかわらず、異例のヒット商品となったと言われる。しかし2006年以降、人気は下火になり、PETを導入した医療施設には倒産する所もみられた。郡山市内の対象クリニックでは、2004年4月からPET(PET-CTを含む)を導入し、保険適用診療と自由診療のがん検査を開始した。クリニック開設以来、PET検診の周知のため、県内外各地での市民公開講座による住民向けの啓蒙活動と、PET講習会による医療提供者側への普及活動を継続的に実施している。同時に、2005年から同県二本松市岳温泉の旅館・首都圏各地の旅行会社と提携し、検診パックツアーを提供している。岳温泉は、「湯治場」の歴史を持ち温泉地として繁栄してきたが、バブル崩壊後の宿泊客減少に歯止めがかからず2004年ごろから健康保養型温泉地への転換を図った。起伏に富む安達太良山系の自然環境を活かし、主に50代以上の中高年層を対象にしたヘルスツーリズムの取組みによって地域づくりを実施している。検診ツアー受入れ旅館では、地域のこのような取組みもツアー参加者に提供しており、旅行の付加価値を高めている。申込み窓口である旅行会社は首都圏を中心に数社あり、各顧客層に応じて商品の告知と勧誘を行っている。対象クリニックではPET検診ブームが終焉した後も自由診療による患者が多く来院しており、PET機器は高い稼働率を維持している。このうち、検診ツアー参加者をみると、東京・群馬を中心に埼玉・千葉・神奈川など首都圏に居住する50~70代が多いことが分かった。検診ツアー普及初期は遠方の医療施設も選択されたが、PET導入の医療施設が増加するに従って都市部でも受診しやすくなり、交通至便な医療施設が選択されるようになった。一方、郡山市は県内で交通の要所、また首都圏からのアクセスの良さを背景に、検診時・宿泊旅館での付加サービスや検診後のケアを充実させ顧客の定着を図った。検診後のケアでは、何らかの異常が発見された場合には再検査や治療などの再診を、異常が発見されなかった場合でも健康管理のために定期的な検診を行う。このため、旅行商品として売り出されたものの、継続的な通院を必然的に伴う医療サービスの特質ゆえ居住地近郊の医療施設での受診が選択されやすいことが分かった。
著者
李 小妹
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.501-501, 2008

本研究は,中国・シンセンにある「錦繍中華」,「中国民俗文化村」と「世界之窓」という三つのテーマパークにおいて,新しい都市空間がいかなる過程で作りあげられているのかについて考察する。これらのテーマパークは,中国国内で初めて作られた同類の観光施設として,中国の文化観光開発事業をリードし,経済開発の産物と見本であると同時に政治文化の発信地でもある。テーマパークがもつこのような経済的,政治文化的特性は,シンセンの都市空間のそれを反映している。そのうえ,市場経済化とグローバル化の中で成長したシンセンは,グローバル時代における中国都市の都市空間の変容と,都市空間を生きる人々とのかかわりのダイナミックな変容実態を,他のどの都市よりも先見的に,よりよく反映している。本研究において,これらのテーマパークの建設経緯,展示内容および展示手法について検討し,「見せ物の場所」と「生きられる空間」といった二つの視座から,開発側である中国政府と華僑資本家および「ユーザー」である観光客や少数民族の若い労働者による「空間の生産」がいかなるものかを明らかにした。 まず,「見せ物の場所」としてこれらのテーマパークは,中国および世界の歴史文化といった大きなテーマの下で,「社会主義的国民国家」と「市場経済の発展ぶりおよび生活の向上」を見せ,経済発展を正当化する手段であると同時に,愛国主義教育といったような政治宣伝の場でもある。 また,アンリ・ルフェーブルの「表象の空間」とエドワード・ソジャの「第三空間」の概念を用いて,これらのテーマパークが「見せ物の場所」であると同時に「生きられる空間」でもあると確認した。具体的に三つの場面を挙げながら論じる。場面_丸1_:「錦繍中華」において,観光客であるシンセン住民がテーマパークを自らの所有物でもあるように他の町から来た観光客に紹介する時の,彼らの表情や振る舞い型や使った言葉と話す口調から,彼らがこの空間に付与された意味を自分たちの住民としてのシンセン・アイデンティティとも言うべき主体性の発揮が見られる;場面_丸2_:「中国民俗文化村」に百人以上の少数民族の若者が働いている。彼らはテーマパークのすぐ近くにある社員寮に住み,テーマパークを中心に生活している。テーマパークの中での活動と言えば,観客にパフォーマンスしたり民族文化を紹介したりするような労働だけでなく,売店やレストランで自ら消費者になって見せる身から見る身に変身するのである。こうした「生産」と「消費」の間に移行する身体は,見せ物の場所を生きられる空間へと変えている。場面_丸3_:「世界之窓」で80歳の闇ガイドに出会った。彼は「75歳以上の老人が入場無料」という規則で毎日テーマパークに来ている。目的は観光ではなく,観光客にテーマパークを案内することで案内費を稼いでいるのだ。彼のようなテーマパークに雇われていないガイドをここにおいて「闇ガイド」と名付け,彼らによって「世界之窓」という空間が一種の抵抗空間として生産されている。つまり,シンセンのテーマパークは,観光客や少数民族の若者や闇ガイドのおじいさんのような住民や「ユーザー」の空間であって,彼らの諸活動によって抵抗の空間,または「生きられる空間」に練り上げられている。 国民国家のアイデンティティと民族文化は,常に変化しており,確立される必要性に迫られている。従って,それらが空間と時間の枠組みのなかで再生産され,再確認されるプロセスは,わたしたちの周りに絶えず展開されている。万里の長城が5000年の中国歴史文化を象徴するように,シンセンは経済発展がもたらした現代性を象徴する。シンセンの都市空間は,いわばひとつのテーマパークのような存在であって,そのテーマというのが,「グローバル化」であり,中国の改革開放の成功(「社会主義体制」と「市場経済様式」との接合)である。中国が社会主義の政治体制と資本の自由化との間に,その矛盾と戦いながら自らの発展の道を探りつつあると同様に,中国の人びとは,矛盾に満ちた都市に放り出された身をもって,都市を自分たちの需要に合わせながら作り変えている。こうした表象され,実践され生きられる空間には経済発展に巻き込まれている社会的諸主体間の関係性が生き生きと作られ,また現されてもいる。わたしたちが今日及び近未来の中国の都市空間と中国社会を理解するのに,こうした関係性としての空間を第三空間的想像力で考察することはきわめて有意義であろう。
著者
山下 清海
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.42-42, 2004

今日、世界の華人社会は、ダイナミックに膨張と拡散を続けている。中国では、1970年代末以降の改革開放政策の進展に伴い、新たに海外へ移住する者、すなわち「新移民」が急増した。香港では、1997年の香港の中国返還を前に、海外移住ブームとなり、多数の香港人が移住した。台湾でもアメリカを中心に海外移住の流れが続いている。 東南アジアでは、1970年代半ばからベトナム戦争やインドシナの社会主義化で、ボートピープルなどの難民(華人が多く含まれる)が流出した。いったん東南アジアや南アメリカなどへ移住した華人が、さらに北アメリカやヨーロッパなど他の地域へ移住して行く現象を、中国では「再移民」と呼んでいる。 従来の伝統的な華人社会は、「新移民」や「再移民」の増加によって、大きな変容を迫られている。 本研究は、このような最近におけるアメリカ華人社会の変容を、ロサンゼルス大都市圏を対象に考察するものである。考察に際しては、ダウンタウンのオールドチャイナタウンと、新しく郊外に形成されたニューチャイナタウン(モントレーパーク、ローランドハイツ)を比較しながら進めていく。なお、現地調査は、2003年8月と2004年7月に実施した。
著者
高崎 章裕
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.14-14, 2011

I はじめに 本研究では、沖縄県北部の名護市辺野古区への移設が計画されている普天間飛行場代替施設の建設問題と沖縄県国頭郡東村高江のヘリパッド移設問題をめぐる環境運動を取り上げる。これまでの沖縄における基地移設問題は、日本とアメリカが形成する安保体制に基づく、そして時には安保を越えた米国主導の世界国際システムを維持するための要としての米軍基地の存続が、沖縄に厳しくのしかかってきた。そのため、政治学や国際関係論の議論が必要不可欠であった。他方で、基地収入などによる外部依存経済体制の沖縄の地域構造を、沖縄の自治や内発的な発展の模索を目指した研究がおこなわれてきた。 しかしながら、基地問題を含めた沖縄の環境問題研究については、多くの場合、保護・保全という側面ばかりが強調されてきた。それは、沖縄の豊かな環境や生物多様性が乱開発や基地建設に脅かされることで、「現場」における緊急な保護・保全の対応が求められたからである。言い換えれば、市民が「現場」での対応に追われたことで、環境と地域住民のローカルな関係性が評価されることは少なく、グローバルで普遍的な価値を見出す視点が重要視されてきた。 そこで、本研究では、辺野古と高江の座り込み運動を事例とし、空間スケールの視点から分析を行うことで、運動の展開過程とそれらの環境運動がそれぞれの地域とどのような関係性を持っているかを明らかにすることを目的とする。II 辺野古をめぐる反対運動の展開 1996年の「沖縄に関する特別行動委員会」の最終報告で宜野湾市の普天間飛行場の全面返還が発表されたことで、辺野古沖への移設問題に対する反対運動が展開されることとなる。翌97年1月には、辺野古区民を中心に27名が参加して、「ヘリポート建設阻止協議会」が結成され、この協議会は後に、通称「命を守る会」としての役割を担うこととなる。それ以降、地元集落だけではなく、名護市民の動きが急速に活発化し、4月には「ヘリポート基地を許さないみんなの会」、5月には「ヘリポートはいらない名護市民の会」が結成され、市民投票推進協議会結成への足がかりとなる。 1997年12月21日の市民投票結果は、条件付き反対を含めて過半数が反対、無条件反対のみで過半数を占めた。反対派の市民グループとしては、「命を守る会」の他に、旧久志村北部の「二見以北十区の会」、名護市西部とくに市街地女性を中心とした「ヤルキーズ」(命どう宝ウーマンパワーズ)、名護市東部を中心に活動した「ジャンヌの会」などが中心となって活動を行った。中でも「ジャンヌの会」の呼びかけで沖縄をつなぐ全国的なネットワークが形成され、5月8日から10日に、東京大行動を行った。県内20団体、124人の沖縄女性が参加した。市民投票の1年後には、「新たな基地はいらないやんばる女性ネット」が形成された。 2000年以降になると、ジュゴン保護関係団体や世界自然保護基金日本委員会(WWFジャパン)などによる自然保護運動が沖縄の反基地運動・平和運動において無視できない大きなうねりを生み出した。III 高江をめぐる反対運動の展開 沖縄本島北部の山や森林など自然が多く残っている地域は、やんばると呼ばれ、東村高江はそのやんばるの中に存在する。人口は150名、そのうち中学生以下が約2割を占めている。先述の1997年のSACO合意により、北部訓練場の約半分を返還する条件として、返還される国頭村に存在するヘリパッドを、東村高江へ移設することが計画されている。現在でも東村には15か所のヘリパッドが存在しており、そこへ新たに6か所のヘリパッドの建設が予定されている。 高江の住民は2006年にヘリパッド反対の決議を行い、計画の見直しを要請してきた。2007年7月2日、防衛局は工事を着工したことで、その日から高江住民は座り込みによる工事阻止行動を続けている。2007年8月24日に、「ヘリパッドはいらない住民の会」が設立されているが、高江集落の規模から考えてみても、その中心となっている住民はわずか数世帯である。しかも、2008年11月、国は座り込みが工事の妨げになっているとして、住民ら15名に対し、通行妨害禁止の仮処分を那覇地裁に申し立てるなど、座り込みを維持するためには、支援団体によるサポートが不可欠である。その中心を担っているのは、奥間川流域保護基金のメンバーを中心とした沖縄・生物多様性市民ネットワーク、沖縄平和運動センターなどが、現地での座り込みのサポートを行ったり、防衛局への異議申し立てなどを行っている。 報告では、辺野古・高江をめぐる座り込み運動の空間スケールおよび、運動主体の関係性について比較をおこなうことで、現在運動の置かれている状況の分析をおこない、運動が抱えている課題について検討していく。