著者
山崎 孝史
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.412, 2008

地政学の「魅力」と地政言説<BR>言葉による表現が、特定の空間や場所をめぐる想像や表象を意味し、歴史的・政治的な文脈の中である種の真実性を持つものとして扱われることがある。その政治的に重要な例が「地政言説」である。オトゥーホール(O' Tuathail)によれば、地政学は「国家間の競争と権力の地理的な側面を強調した世界政治に関する言説」である。オトゥーホールは、現代において地政学がジャーナリスト、政治家、戦略思想家などにとって魅力であるという。ジャーナリストや政治家は地政学をとおして、混沌とした日常的な出来事を超えた、本質化された差異にもとづく永続的な対立や根源的な闘争を見出そうとする。そこで地政学を言説としてとらえるならば、特定の政治家や戦略思想家が「現実」として示す世界が、実は特定の時間と空間の文脈から描き出されていることや、多様で複雑な現実を特定の視点から単純化されていることに気づくことができる。<BR><BR>地政言説の構成と物質的基礎<BR>言説は単に書かれたものとして主体の位置、実生活、あるいは社会の諸制度から遊離しているわけではなく、それらの中に埋め込まれている。地政言説を例にとれば、世界政治の表象は特定の国家の物質的な要素(人口・資源・産業・資本など)と無関係ではなく、それを基礎としてつくり出される。オトゥーホールは地政学の概念的構成を図解している。図の上部におかれるのが三つのタイプの地政言説とその具体的な形態であり、これらの言説は地政的想像力によってつくり出される特定の地政的伝統から派生している。地政的伝統とは、特定の国家の構造を基礎としている。こうした図式は国際関係の分野での言説構成の理解には有効であるが、それ以外のスケールではどうだろうか。<BR><BR>スケールと言説<BR>政治地理学的にみると、地理的スケールは重要な政治的意味を持つ。個人または集団による政治行動は特定の場所において展開し、一定の空間的広がりを持つ。スミス(Smith)が分類する身体からグローバルにいたる7つのスケールは、政治行動が展開される空間的広がりの程度を示している。特定の政治問題や政治行動は特定のスケールを基盤に発生・展開し、またそのスケールの操作をめぐって政治的な駆け引きが起こる。これを「スケールの政治」と呼ぶが、問題のスケールが重層的な場合「スケールのジャンプ」と呼ばれる現象が起こる。こうしたスケールの政治にも地政言説が関係する。それを「スケール言説」と呼び、政治行動の理念的部分において重要な役割を果たす。政治問題や政治運動は単一のスケールで展開するものではなく、多様なスケールの間を往復する。故にスケール言説の分析についてもマルチスケールの視角が求められる。<BR><BR>言説分析の方法<BR>では言説はどのように分析されるのであろうか。社会運動における主体と場所や空間との関係とを明らかにするために、フレーム分析の手法を用いることができる。フレーム分析は、社会運動を「枠づける=フレーミング」言説に着目する。社会運動は特定の信念、価値観、あるいは世界観のもとに組織され、運動組織は自らの活動を正当化し、敵対する立場や組織の考え方を否定する。フレーミングとは、そうした運動の理念を言語的に表現する行為である。フレーミングに着目することで、特定の組織の活動理念の形成過程のみならず、組織内あるいは組織間での異なった理念の同調や対立を検討することができる。こうしたフレーミングは複雑な現実を言説的に単純化することで人々の支持を得ようとする。この点では地政言説と同様の働きをもっている。<BR><BR>地政言説から政治を読む<BR>地政言説と政治との関係を理解することは、地理学という観点から政治を分析する上で有効となる。また、特定の個人や集団が空間や場所を表象する行為から政治的な意図や権力関係を読み取ることは、政治という営みに対する感受性や批判的思考力を高めることにもつながる。そして、私たちがより賢明な市民や有権者であるためには、地政言説の作用に敏感であるばかりでなく、そうした言説の基礎をなすもっと複雑で錯綜した世界や社会の物質的構成(人口・権力・その他資源の配分、すなわち地理そのもの)を理解せねばなるまい。
著者
波江 彰彦 廣川 和花
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.12, 2010 (Released:2011-02-01)

1.はじめに 日本では,1899年から1926年にかけて断続的にペストが流行した。特に大阪は,最も多くの患者(死者)がみられた地域である。大阪では2回の流行が起こり,第一次流行(1899~1900年)には161名の患者(死者146名,致死率90.7%)を,第二次流行(1905~1910年)には958名の患者(死者860名,致死率89.8%)を数えた。本報告では,このうち第一次流行を取り上げる。後述する患者データベースを用いて,近代大阪における第一次ペスト流行の特徴について検討したい。 なお,廣川(2010)は,第一次流行に対する防疫行政などについて検討している。第二次流行については,坂口(2005)やSakaguchi et al.(2005)が分析を行っている。 2.分析に用いた資料 大阪におけるペスト流行に関しては,第一次・第二次ともに詳細な記録が刊行されている。そのうち,第一次流行のものは,大阪府臨時ペスト予防事務局(1902)『明治三二、三三年大阪府ペスト流行記事』(以下,『流行記事』とする)であり,また,ほぼ同内容のものとして臨時ペスト予防事務局蔵版(1902)『百斯篤殷鑑』がある。報告者らは,後者の資料を用いて患者データベースを作成した。このデータベースには,患者の氏名,性別,年齢,住所,職業,発病年月日,症状,死亡(全治)年月日などが含まれている。 3.第一次流行の概要 大阪の第一次ペスト流行は,3期に分けることができる。第1期は1899年11月~1900年1月で41名の患者,第2期は1900年4~6月で50名の患者,第3期は1900年9~12月で70名の患者がみられた。 患者が示すペストの症状は,ペスト菌の感染の仕方によっていくつかのタイプに分かれる。リンパ腺ペスト(腺ペスト)は最も一般的な症状であり,ペストに感染した齧歯類から吸血したノミに噛まれた付近のリンパ腺が腫れる。ペスト菌が肺に回ると肺ペストを発病する。肺ペストは人から人へと感染する。ペスト菌が直接血液に入ると敗血症ペストとなり,最も致死的である。皮膚ペストは,皮膚にペスト菌が感染し膿疱や腫瘍ができるものである。 こうしたことをふまえて,患者データベースを集計した結果をいくつか提示する。流行期別・患者住所別の患者数をみると,流行全体では西区の患者数が最も多いが,期別でみると,第1・2期で最多だった西区に代わり,第3期では南区の患者数が最多となっている。 次に,流行期別・生死別・症状別の患者数をみると,3期を通じて腺ペスト患者が最も多いが,特徴的なのは,第1期における肺ペスト患者の多さと,第3期における敗血症ペストの多さである。このうち前者については,短期間に人から人への感染が生じた結果である。このことについては,次節で説明する。また,生死別にみると,全治した患者がみられるのは腺ペストのみであり,それ以外の症状の患者はすべて死亡している。 4.流行第1期における患者分布とペスト感染経路 次に,第一次ペスト流行における3つの波のうち,流行第1期における患者分布とペスト感染経路について検討する。 ペスト患者とペスト斃鼠の分布図から読み取れるホットスポットは大まかに2箇所あり,第1は初発付近の西区堀江川下流両岸,第2は西区川北四貫島の金巾紡績会社周辺である。 『流行記事』では,ペストの感染経路について詳細な分析を行っている。それによれば,第1のホットスポットについては,患者1が出入りしていた住宅付近で多くのペスト有菌鼠が発見されたことと関連づけている。他方,第2のホットスポットは,人から人への感染と推定されている。金巾紡績会社の従業員だった女性から始まり,1か月あまりのあいだに,彼女の家族,この家の患者を診察した医師とその家族,この医師を診察した医師とその家族,そのほか最初の女性と接触のあった同居人や従業員などが次々と肺ペストや腺ペストで死亡した。 5.おわりに 今回用いた患者データベースからは,患者の居住地・発見地の位置関係やペスト感染経路のかなり詳細な把握が可能である。今後は,「大阪地籍地図」上に各患者をプロットする作業を考えているが,第一次流行の患者住所は「屋敷番制度」で記載されており,「大阪地籍地図」の地番とリンクしない。この点については検討中である。また,GISを用いて,ペスト患者やペスト感染経路に関する空間分析を行うことも考えている。
著者
上杉 和央
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2002年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.000012, 2002 (Released:2002-11-15)

本居宣長(1730年から1801年)は国学者として著名である.彼は,まだ学問世界に身を置く23歳よりも以前から,多くの書物を読んでいるが,同じ頃,地図とも戯れていたことはほとんど知られていない.宣長は,15歳から23歳にかけて,6枚の地図を作製しているが,それらは既存図の単なる模写ではなく,彼独自の地理認識が表現されたものとなっている.その中でも,特に異彩を放っているのが「端原氏城下絵図」(本居宣長記念館蔵)と称される作品である. この図には端原氏の治める城下町が描かれている.端原氏とは何者か.実は本居宣長が創りあげた架空の氏族である.地図とは別に,宣長は (架空の)神代に端を発する端原氏の系図,および端原氏15代当主宣政時代の家臣256氏の略系図が記載された「端原氏系図」(本居宣長記念館蔵)と呼ばれている系図も作成しており,この宣政の治める城下町が描かれているのが「端原氏城下絵図」である.法量は51.7cm×72.0cm.裏面に「延享五ノ三ノ廿七書ハジム」とあり,19歳の頃,作製されたことが分かる.彩色は全体には施されていないが,端原氏に関する建造物の一部には朱が用いられている.街路や屋敷割,周辺部に至るまで精緻に描かれ,また系図中の人物がその住所どおりにほぼ矛盾なく記載されるといった芸の細かさである.部分的に空白もあり,もしかすると未完成であったのかもしれないが,全体としてこの地図の凝った趣向には圧倒させられるものがある. 構図をみてみると,一見して「京都図」に似ていることがわかる.当時,すでに京都図は林吉永を始めとする諸版元から売り出されていたが,その構図ははほぼ一定であった.これらの刊行図は北が上として描かれているが,東を上にして見た場合,「端原氏城下絵図」と京都図の構図は非常に類似したものとなる.系図についても王朝時代が意識されたものとなっており,京都という舞台が意識されていたことは明らかである.この頃の宣長は,京都に関する記事をあちこちから抜書した書物や,洛外図などを作成/作製しており,京都に対して強い憧憬の念を抱いていた.実際,京都に赴いたこともあり,これらを勘案すると京都図を見ていた可能性は極めて高い. 次に,「端原氏城下絵図」の都市と近世の実際の都市とを比較するため,矢守氏の提示された「城下町プラン」をもとに検討していく.矢守氏がパターンの析出に用いた,城内・侍屋敷地区・下士の組屋敷地区・町屋敷地区・囲郭といった指標をもとに,「端原氏城下絵図」を分析すると,この都市は「郭内専士型」に分類することができる.ここから,宣長の都市形態の理解のひとつに,このような「郭内専士型」という形態があったことが理解される.近世城下町は,それぞれの城主の意図にもとづいて都市が形成されたものである.その意味で,矢守らの分析する「城下町プラン」は支配者側の都市理念ないし都市認識の抽出であろう.しかし,それが市井の町人にどのように認識されていたのかは,あまり明確ではない.この意味で,町人である宣長が空想の都市を「郭内専士型」に描いたことは興味深い. 「郭内専士型」は近世城下町に広く見られる形態のひとつとされるが,当時の宣長がそのような一般的状況を理解して描いたとは考えにくい(第一,この分類は近代の所産である).それでは,宣長は何をもとに,この形態を思いついたのか.京都や江戸の旅行中に赴いた都市である可能性もあるが,やはり,矢守が「郭内専士型」の代表として挙げた都市,そして宣長が生活していた都市,松坂の影響であろう.宣長は日常生活を営む中で,武士と町人の住居地が区別されていることを,自然に受け止めていた.架空の都市を描く際,この日常経験にもとづく都市形態の認識が反映したと考えられる.「端原氏城下絵図」に描かれているのは,架空の都市である.しかし,宣長がまったくのゼロから創りあげたわけではない.彼の京都への憧れ,そして日常生活における都市空間の認識といったものが基礎となっている.さらに,宣長は「郭内専士型」といった支配者側の理念を(おそらく無意識のうちに)受け止めていることも重要であり,個人的な体験や志向性とともに,近世という時代的なコンテクスト,そして空間的なコンテクストの中で,「端原氏城下絵図」は想像/創造されたのである.
著者
高崎 章裕
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2009年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.25, 2009 (Released:2009-12-16)

本報告は、熊本県球磨川流域を事例に、環境運動がどのように展開してきたか、川辺川ダム計画との関係に注目しながら、地域や政策決定に与えた影響について明らかにすることを目的とする。
著者
由井 義通 宮内 久光
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.59-59, 2010

沖縄県における情報通信関連産業は,1990年代後半から始まる日本政府と沖縄県の産業振興政策の誘導などにより,飛躍的な成長を遂げた。特にコールセンターは,沖縄県観光商工部が把握しているだけでも2000~2009年度までの10年間で48社が県内に拠点を開設し,12,031人の新規雇用を創出した。このことから、常に深刻な雇用問題に悩む沖縄県にとって,コールセンターは新たな中核的産業と位置付けられつつある。『平成15年特定サービス産業実態調査報告書テレマーケティング業編』によると,全国のコールセンター従業者の79.1%が女性であることから推察するに,沖縄県におけるコールセンターの集積は,特に女性の就業機会の確保にも大きく貢献しているといえるだろう。 今日,経済のサービス化に伴い,総労働力人口に占める女性労働力人口の割合が高くなる「労働力の女性化」が著しい。なかでもコールセンター業務は,仕事量が多く,マニュアル化された単純な作業,精神的なストレスの多い職場(林,2005)であることに加えて,低賃金の非正規雇用が中心で離職率の高さに特徴づけられる「女性の仕事」であるともいえよう。 沖縄県におけるコールセンターに関するこれまでの研究は,コールセンターの集積地としての動向が注目され,もっぱら産業振興策の紹介と現状把握の側面が強かった(鍬塚,2005)。すなわち,立地論的なアプローチが中心であったといえよう。一方,コールセンターで働く従業者,特にその多くを占める女性従業者の就業に焦点を当てた研究は乏しい。女性従業者の中には,仕事と家事・育児・介護との両立を求められている者も多く,コールセンターにおける雇用の実態とあわせて,生産と再生産の調和を検討することは,「労働力の女性化」が著しい現代において,女性就業を理解する上で重要なアプローチであると考えられる。そこで,本研究の目的は,沖縄県を事例としてコールセンターの雇用特性を把握するとともに,女性の就業と生活の状況を把握することである。研究資料を得るため,本研究ではコールセンター事業所および女性従業者へのアンケート調査および聞き取りを実施した。 結果は学会発表時に報告する。
著者
卯田 卓矢
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2012年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.50-51, 2012 (Released:2013-12-17)

本研究では叡山文庫所蔵資料を基に、戦後比叡山の観光化に伴う維持・管理の過程について検討を行う。
著者
藤塚 吉浩
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2011年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.6, 2011 (Released:2012-03-23)

ジェントリフィケーションは、1980年代に比べると現象が大きく変質してきた。ジェントリフィケーションは、もはや住宅市場の狭い非現実的な特異さに関するものではなく、よりもっと大きなものを得ようとする居住の最先端、すなわち、中心部の都市景観に関する階級の再建となっている。 現象の変化として近年注目されている研究テーマは、新築のジェントリフィケーション(new-build gentrification)である。新築のジェントリフィケーションは、工場跡地や放棄された土地、建物が取り壊されたところに新たに建設されたものである。新築のジェントリフィケーションとは、再投資と高所得者による地域の社会的上向化、景観の変化、低所得の周辺住民の直接的・間接的な立ち退きを伴うものである。本報告では、このような現象が東京特別区部において発現しているのか考察する。 21世紀に入りジェントリフィケーションの多発する要因のひとつに、政府の積極的な支援がある。ニューヨーク市の事例では、工業地域から住宅建設を可能にする用途地域への変更により、大規模なコンドミニアムの建設が可能となった。本報告ではまた、住宅に関する施策の変化が、ジェントリフィケーションの発現に影響するのか検討する。 1990年代のジェントリフィケーションの発現は、京都市の事例では都心周辺地区にみられた。ニューヨーク市の事例では、イーストリバーを挟んだ都心の対岸地区でジェントリフィケーションがみられた。本報告では、2000年代の発現地区と都心との位置関係について検討する。 ジェントリフィケーションの発現を示す指標として、2000年代前半の専門的技術的・管理的職業従事者の動向について検討した。中央区の増加率は30%を超えて最も高く、江東区と千代田区の増加率は10%を超えた。地区で起こるジェントリフィケーションの特性を考えると、区の範囲でジェントリフィケーションが起こっているか判断することは困難なので、本報告では専門的技術的・管理的職業従事者が最も増加した中央区を事例として詳細に検討する。 中央区の住宅関連施策の実施に関しては、1980年代の投機的土地売買による居住人口の減少が背景にある。中央区は居住人口を確保するために、1985年に中央区市街地開発指導要綱を制定し、大規模な開発には住宅附置を義務づけた。住宅の確保に効果はあったが、新築された共同住宅の家賃が高く、従前の借家人は入居できず立ち退きとなる問題があった。住宅附置義務により増加した共同住宅の多くは、単身者用であった。住宅附置義務制度は、規制緩和された建物の高さに関する建築紛争の多発により2003年に廃止されたが、ジェントリフィケーションの発現に影響を及ぼしたのである。 ジェントリフィケーションの発現地区については、町丁別に専門的技術的・管理的職業従事者の変化を検討する。首都高速道路の都心環状線と上野線の西側が都心の業務地区であるが、専門的技術的・管理的職業従事者は、都心周辺地区で増加するとともに、隅田川の東岸の地区においても増加した。日本橋の問屋街や築地市場では卸売業が集積し、入船から湊にかけての地区では印刷工場や倉庫などがみられる。都心の業務機能はこれらの地域には拡大せず、再投資による共同住宅の建設があり、社会的上向化が起こった。新築のジェントリフィケーションに関連する景観の変化と立ち退きについては、地区ごとに詳しく検討する。 東日本橋から人形町にかけての地区では、繊維・衣服等卸売業が集積しており、近年ではそれらの店舗の跡地に共同住宅が多数建設されている。1階に店舗を設置しない共同住宅の建設計画には、問屋街の連続性が失われるとした建築紛争があった。 入船から湊にかけての地区では、1980年代の地価高騰期の投機的土地売買のために、住民は立ち退きとなり、住宅や工場、倉庫の建物は取り壊された。1990年代には、景気後退の影響からそれらの跡地は利用されず放置された。2002年には都市再生特別措置法が施行され、都市再生特別地区として超高層共同住宅の建設計画がある。 隅田川より東の佃や月島、勝どきでは、大規模な高層共同住宅開発が進められた。佃では、造船所と倉庫などの跡地に、1980年代半ばより超高層共同住宅が建設され、景観は大きく変化した。佃や月島は、路地空間に特徴のある下町である。近隣への中高層共同住宅の建設に際しては、既存の高層住宅の住民から反対されるなど、新たな建築紛争が起こっている。
著者
河角 龍典 佐古 愛己
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2004年 人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
pp.13, 2004 (Released:2004-11-12)

歴史的空間情報へのGIS(地理情報システム)の適用が、過去数年の間に急速に発展しつつある。古代都市に関する歴史GIS研究もその例外ではなく、考古学の分野からすでにいくつかの研究が実施されている。しかしながら、埋蔵文化財の発掘調査や文献史学から得られる膨大な古代都市にかかわる歴史的空間情報については、そのデータベースが十分に整備されていないために、古代都市研究へのGISの適用が遅れている。 本報告では、平安京に関連する歴史的空間情報のデジタルデータベースの構築とそれらへのGISの適用から様々な歴史地図を作成し、平安京の地形景観、土地利用景観の復原を試みた。京都に関する歴史学的、地理学的、考古学的な研究成果には、膨大な蓄積がある。これらの大量かつ精緻な研究成果は現在活字媒体で提供されているが、これをデジタル媒体でデータベース化することにより、さらに容易かつ有効な検索・利用が可能となる。本研究では、『兵範記』を記主平信範が存命した12世紀の京都を中心に、GISに利用可能なデータベースの構築を行った。本研究では、『平安京提要』1) や『平凡社日本歴史地名大系 京都市の地名』2) などから作成したデータベースの構築と、12世紀の中級貴族・実務官僚である平信範(たいらののぶのり、1112~87)の日記『兵範記』(『人車記』ともいう)のデータベースの構築を通して、具体的な検討を進めた。本研究では、古記録に表れる歴史的空間情報にGISを適用することにより歴史地図を作成し、平安京の景観復原を試みた。その結果以下のことが明らかになった。1)過去の景観について議論するためには、過去の地表面の復原が必要である。2)平安京の土地利用データベースとGISの結合によって、平安時代の土地利用の視覚化が可能になった。
著者
山野 正彦
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2013年人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.56-57, 2013 (Released:2014-02-24)

本報告は、リオタールの「風景(paysage)の離郷depaysement」という発想を起点とした、景観と場所、場所/非場所の両義性、定着と移動についての省察である。グローバル化、メディアの膨張、技術支配による主体の危機、合理性の貫徹、時間の節約(リオタールがdevelopmentと言い表すものの要求)の思想に対応するための方策として、他者、他文化との包摂を目ざしたコミュニケーションの遂行のために、風景の離郷の発想が有効であることを提起する。これはクレスウェルのいう、モビリティをめぐる議論――定着主義者と移動主義者の場所概念の議論に関係する。この新しい発想に伴い、場所や故郷についてのこれまでの概念は再検討を余儀なくされる。グローバル化時代における、選べない恣意的条件としての「場所」や「故郷」からの脱出が企図される。レルフが「場所のセンス」として挙げた第3のものの敷衍、すなわち狭いローカリズムを脱して、地球規模での差異と相互作用に目を向けることが転換点となる。
著者
太田 孝
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.22-22, 2011

(はじめに) 「修学旅行」という言葉は,ほとんどの日本人の心に思い出として残っている言葉であり,長年にわたって学校教育の中で大きな役割をになってきた。白幡1)は,昭和の日本人の「旅行」を「昭和が生んだ庶民の新文化」とする。この「庶民の新文化」がどのように形成され,日本人の特徴としての「団体型周遊旅行」という旅行行動が生まれてきたのかを明らかにすることが本稿の目的である。その際,特に着目したのが修学旅行である。 修学旅行は,日本の特徴的な文化の一つとして定着しており,日本人の旅行を考える上で,決して欠かすことのできないテーマである。昭和時代には国家体制と社会環境の影響を受けながらも,太平洋戦時下を除き息長く継続されてきている。「なんとか子どもたちを修学旅行にいかせたい」。それは父兄のそしてムラ・マチの大人たちの,戦前・戦後を通じての熱い思いであった。昭和戦前期また戦後の荒廃下でも,わが国の地域社会において,都市と農村や生活の格差を越えて幅広い層にわたって組織的に「旅行」を経験し,「外の世界」に触れたのは子どもたちであり,修学旅行にはひとりでも多くの生徒の参加がめざされていた。自分たちが「日頃行動できる範囲=日常生活圏」から離れ,見聞きしたことを家族やムラ・マチの人々に話す。この子どもたちの体験と情報は地域社会に大きな影響を及ぼしたと考えられる。このような問題意識を持ったとき,戦後における日本のツーリズムの画期性を考察するには,その土壌が出来上がる前段の,戦前における人々の「旅行行動の意識形成」の過程をとらえて論じる必要があることに気がつく。本稿のめざすところは,日本人の旅行行動の意識形成を明らかにすることであるが,それに影響を与える大きな役割をになった一つが,幅広い層にわたって誰もが経験した修学旅行であったと考えられる。日本人の旅のスタイルの特徴を形づくってきた淵源のひとつは修学旅行にあるのではないか。このような仮説と問題意識のもとに,戦前において「参宮旅行」と称して全国から修学旅行が訪れた「伊勢」をフィールドとして,筆者が発見した資料(1929~1940年の間に全国から伊勢神宮を修学旅行で訪れた学校の顧客カード3,379校分・予約カード657校分ほかが内宮前の土産物店に存在した)をもとに考察した。(得られた知見) まず第1に,「伊勢修学旅行の栞」による旅行目的と行程の詳細分析から,目的である皇国史観・天皇制教化としての「参宮」を建前としながらも,子どもたちにたくさんのものを見せ,体験させたいという「送り出し側(学校・父兄・地域)」の思いが修学旅行に色濃く反映していることが実証された。その結果としての,短時間での盛りだくさんな見学箇所と時間の取り方や駆け足旅行という特徴は,子どもたちに,『旅行とはこういうものだ』という観念を植えつけ,団体型周遊旅行の基礎を作り上げるとともに,『見るということに対するどん欲さ』を身につけさせた。第2に,夜行も厭わない長時間の移動と,食事・宿泊も一緒という実施形態により,団体型の行動や旅行に慣れていった。この形態が戦後の団体臨時列車,引き回し臨時列車,修学旅行専用列車,バスによる団体旅行等の旅行形態と,それを歓迎する(好む)旅行行動の意識形成につながった。第3に,現代の日本の団体旅行の誘致手法は,江戸時代の伊勢御師の檀家管理手法や講による団体組成方式にルーツがあり,その思想を受け継いだ伊勢の旅館や土産物店の修学旅行誘致・獲得策が,戦後の旅行業の団体営業型のモデルになった。ツーリズムは需要側と供給側の相互作用によって醸成されていくものである。この供給側の需要側に対する活動が日本人の団体型旅行行動意識形成の重要な部分を担ってきたことが検証された。第4に,旅行における『本音と建て前』の旅行行動の意識を明らかにした。すでに江戸時代から存在したものであるが,特に満州事変以降の戦時体制下において,子どもたちの修学旅行を実現するためにその考え方が強く現れている点を指摘した。この『本音と建て前の旅行文化』は,戦時体制下という事情とともに,日本人の余暇観・労働観が旅行行動の意識の根底にあるものである。このように,従来の研究ではとらえられていなかった,戦前の修学旅行が旅行の形態と旅行行動に関する意識形成に与えた影響を明らかにした。そして第5に,この影響は,「都市と農村」や「生活面での格差の階層」を越えた幅広い層の子どもたち本人と,その日常生活圏の人びとに対するものであったことも,戦後の日本のツーリズム形成の要因として見逃すことはできない。1)白幡洋三郎『旅行のススメ 昭和が生んだ庶民の「新文化」』1996.中公新書
著者
井上 孝 森本 健弘
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.43, no.5, pp.479-492, 1991

This study examined how population density and agricultural land productivity in a metropolitan area varied spatially by discussing the case of the Kanto district. A mathematical model was presented for describing the relationship of these two values. Population density values were calculated from grid-cell data of the population census of 1980. Values of agricultural land productivity were represented by agricultural income per hectare estimated from grid-cell data of the agricultural census of 1980. Figure 3 shows distribution of these values.We attempted to find the complicated spatial patterns of these values by analyzing the covariation of them in two aspects: the covariation with distance from the city center (Fig. 4) and with azimuth angle in distance belts (Fig. 5).The facts that we found are summarized as follows:The covariation with distance showed a tendency to correlate positively in the inside range of 35km and showed a tendency to correlate negatively in the outside range of 35km, except the non-agricultural city core and the mountainous area beyond 95km.The variation with azimuth angle, both of density and of productivity, consisted of long waves and short waves. The long waves of density and productivity showed similar curves. By contrast, the short waves of them showed inverse curves. This inverse relationship was weaker in the outside range of 35km than the inside.A mathematical model was then presented on the basis of these facts. This model consists of the following two parts:1) The covariation with distanceThe following formulation describes the covariation of population density fP and agricultural land productivity fA with distance. Equation (1) shows the productivity fA (r, p) at a place where distance from the edge of the city center is r and deviation of density is p. Variables fA (r, p), gA (r), and hA (p) in (1) correspond to curves FA, G, and H in Figure 6 respectively. The variable gA (r) is a component declining exponentially with distance r; gA (r)>0 and (d/dr) gA (r)<0 for r>0. The variable hA (r) is a component increasing with decreasing deviation p; (d/dp) hA (p)<0; hA (p)≈0 at p=0. Let fP(r) be the population density at distance r and fP be the mean value of fP(r) with respect to overall r, we get p=fP(r)-fP and (d/dr)fP(r)<0. Thus hA (p) becomes a function of r and (d/dr)hA(p(r)) becomes positive. Let r0 be a constant distance, the relationship between gA (r) and hA (p) is given by inequalities (2) and (3).2) The covariation with azimuth angleThe following formulation describes the covariation of population density up and agricultural land productivity uA, with azimuth angle in a specific distance belt Both uP and uA are standardized values with respect to overall angle in the distance belt. The density uP(θ) at angle θ can be written in equation (4). Variables uP(θ) and vP(θ) in (4) correspond to curves UP and VP in Figure 7 respectively. The variable vP(θ) is a component representing long periodic variation; vP(θ+λ1)=vP(θ) for a constant λ1(>0)
著者
佐藤 英人
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.53, no.4, pp.353-368, 2001
被引用文献数
6 2

In recent years, the understanding of the processes of the suburbanization of office location has long been a major foci of discussion in urban geography. However, few studies have analyzed why large, high status office buildings have developed in the metropolitan suburbs.The purpose of this study is to investigate the supply and management of large office buildings in the Tokyo metropolitan suburbs. The analysis is based on a questionnaire survey of tenant offices in Omiya Sonic City, one of the earliest large office buildings in the suburbs.The paper can be summarized as follows:Office workers and office space stocks have steadily increased since 1990 in suburban core cities. However, there are regional differences in the temporal fluctuation of the rental ratio of office space. In particular, there has been a tendency for an improvement in the rental ratio of office space following the prominence of the bubble economy in Omiya city, one of the suburban core cities.Omiya Sonic City is a 'smart-building', which was developed by a joint enterprise of private office developers and the public sector. As this building has attracted many tenants, the rental ratio has kept to a high average since it opened in 1988. The building maintains this high rental ratio by attracting many branch offices of headquarters located in central Tokyo. These branch offices have played an important role in the regional business base of the northern Tokyo metropolitan region.The reasons why these tenant offices rent their spaces in this building are not only due to its good location and easy access to both the northern region and central business district in the Tokyo metropolitan region, but also to the fact that Omiya Sonic City is the highest status building in the suburbs.As the building's owners invited many tenant offices, they surveyed office market trends in suburban areas in detail. Based on this survey, they decided to invite branch offices of headquarters located mainly in central Tokyo. As a result, Omiya Sonic City succeeded in inviting many superior tenant offices.Recent studies have already pointed out that various 'back offices' carrying programmed works using telecommunications have moved from downtown to the suburbs because they do not need face-to-face contact in downtown. However, this study shows that the suburbanization of office locations is caused not by decentralized back-offices but by new suburban branch office locations.To comprehend the processes of the suburbanization of office location in more detail, future studies must consider examples of large office buildings at other suburban core cities.
著者
寄藤 晶子
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.57, no.2, pp.131-152, 2005
被引用文献数
1

In this paper, the author argues that gambling businesses managed by public authorities face issues regarding monopolization, regulation of space and socio-spatial exclusion.Since the end of the 19th century, informal private gambling has been strictly outlawed in Japan, while both the national and local governments have resorted to investing in the gambling business to secure revenue. At present, with the exception of lotteries, 120 gambling facilities such as keiba (horse race), keirin (bicycle race on a short track), autorace (motorcycle race on a short track), and kyotei (motorboat race on a square pond) are offered by 21 prefectures and 443 municipalities. These are called "public gambling".In his book The Production of Space, Henri Lefevre notes that non-productive expenses are made according to the neocapitalist's interest. Therefore, the author refers to the three elements that constitute space according to Lefevre: spatial practices, representations of space and space of representations. The author conducted field work in and around the motorboat gambling facility operated in Tokoname City, Aichi Prefecture, and the highlighted the "gambling space" using Lefevre's scheme mentioned above.From 1997-2000, the author interviewed: Tokoname motorboat officers, residents from the areas (sinkai-cho) around the motorboat facility, police officers, members of the "koie-sinkai crime prevention association", a security guard and ticket sales women employed at the motorboat office, shop managers in and around the motorboat facility, and the motorboat gambling fans. The author also conducted participant observation studies of more than 400 motorboat gambling fans. The author's findings are as follows:Firstly, while the public authority, the Tokoname motorboat office, adopts several measures to draw visitors to the motorboat facility and thus ensure income, this practice includes spatial separation, i.e., separating the Tokoname motorboat gambling fans from the public. This is partly because the nature of gambling itself threatens social order, therefore, the public authorities control and enclose gambling fans. These practices of exclusion are observed in their spatial practices.Secondly, shops and restaurants are located on the route taken by visitors from the Tokoname railway station to the motorboat facility. These shops and restaurants sell alcohol, low-priced light meals and magazines or newspapers regarding gambling. Fans regularly take the route from the Tokoname railway station to the motorboat facility and purchase these goods from these shops. Loitering fans and torn blank tickets visibly distinguish the "gambling space" from the rest of the city. Japanese public gambling fans are largely men over 60 years of age. However, in Tokoname motorboat facility, 60-70% of motorboat gambling fans are men, who are 60 years and over. Therefore, the "gambling space" is occupied by middle and old-aged men is littered with blank tickets.Thirdly, measures adopted by the local community, the "koie-sinkai crime prevention association", neighborhood residents and the police to regulate the behavior of visitors' create negative representations of Tokoname motorboat gambling facility and its fans. In 1970, as the number of visitors increased, a few residents living around the motorboat facility founded a crime prevention association in order to put a burglar alarm to their house. At this time, the Tokoname motorboat office began sending presents, such as handkerchiefs, rice, pans and soaps as compensation to residents. The activities of "koie-sinkai crime prevention association" provided subsidies by Tokoname City, although they are not strictly monitored. They unfairly claimed and represented the undesirable behavior of visitors in order to protect their interests.
著者
柴田 陽一
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.1-19, 2006-02

The purpose of this paper is to examine the ideological establishment of the geopolitics of Saneshige Komaki (1898-1990), who was a Professor of Geography at Kyoto Imperial University, and a well-known advocate of "Japanese Geopolitics" during World War 2, and accordingly a remarkable figure in the history of Japanese geography. Approaching this subject biobibliographically, I focus on the personal background of Komaki. Using his own bibliography, and through an analysis of his written works, I trace the development of his thought. To begin with, I demonstrate the ideological background of Komaki's geopolitics. Komaki had a great antipathy toward Western imperialism. In addition, immigration issues closely related to racial discrimination were his great concern. He held the view that geography in those days had lost its social relevance, and that the nature and culture of each land should be maintained under an indigenous order. Next, I examine the ideological composition of Komaki's geopolitics. His geopolitics began before the outbreak of the Sino-Japanese War in July 1937. He asserted that "Japanese Geopolitics" was indigenous and one which attaches importance to the autonomy of Japan, after he had criticized the history of Western exploration, conventional geography, and Geopolitik. His geopolitics tried to clarify what was destroyed by Western colonization and had an historico-geographical and irrational character. Lastly, I point out some of the positive and negative aspects of his geopolitics. The social relevance of geography, his criticism of Western colonialism and the issue of positionality in research can be seen the light of Japan at that time. On the other hand, the lack of an attitude to relativize Japan and the subjective/intuitive judgement in the reasoning process were negative aspects. However, the positive and negative are not clearly divided. "Japanese Geopolitics" has suggested important issues in connection with the political nature and the social relevance of geography and geographical knowledge, although it served to justify the aggressive wars of the Japanese Empire.
著者
土居 浩 西 訓寿
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.P04-P04, 2008

ライトノベルは《どこを》描写しているのか,ライトノベルは《どこに》存在しているのか.文化現象に対してむしろ「場所・空間フェティシズム」(参照:森正人『大衆音楽史』中公新書,2008)をより徹底化させることで,場所・空間研究の立場から,ライトノベル研究ひいてはポピュラーカルチャー研究に寄与することができないか.この目論見を素描することが,本発表の目的である. ライトノベルは《どこを》描写しているのか,との問いで注目するのは,安藤哲郎(「説話文学における舞台と内容の関連性」人文地理60-1,2008)が「舞台」と呼ぶ対象とほぼ同義である.安藤は「舞台」を「登場人物などに何らかの行動がある場所,由緒や出身地としての説明がある場所」として,院政期に編纂された説話集からその「舞台」を抽出した上でさらに分析軸を加える.本発表も安藤と同様に,登場人物の行動を追いかけることで作品の「舞台」を抽出するが,分析軸については安藤の方法をとらない.それは対象とする作品群の違いに拠る.つまり安藤における説話集と異なり,本発表におけるライトノベルが文学研究の対象としてようやくみなされつつある現状を前提としている. 文学作品を対象とする地理学研究に対して小田匡保は,「地理学研究者が文学を扱う際に,文学研究者の研究史を踏まえ,それに(地理学的観点から)何か新しいことを付け加えるのでなければ,文学の人には相手にされないだろう」(「文学地理学のゆくえ」『駒澤地理』33,1997)と指摘している.すでに10年以上経過した現在においてもなお有効な指摘であることを認め,本発表ではライトノベル研究を踏まえつつ,まずは「文学の人」に相手にされる研究を試みた. ライトノベル研究の現状については,大島丈志(「ライトノベル研究会の現在」日本近代文学78,2008)の整理が参考になる.大島は「ライトノベル市場が拡大し影響力を増す一方で,ライトノベルに関する研究は文学研究の落とし穴のような状況になっている」と指摘した上で,ライトノベル研究会で蓄積された知見を紹介する.そのひとつとして,ライトノベルの成立期におけるTRPG(テーブルトーク・ロールプレイングゲーム)の影響がある.この点に関連し発表者はライトノベル研究会に参加し,ライトノベルが描写する「舞台」について直接に研究会参加者たちと意見交換する中で,「舞台」の時期的変遷が参加者たちにある程度共有されつつも,いまだ実証的検討が試みられていないことに気がついた. ライトノベル研究に場所・空間研究の立場から寄与すべく,本発表ではアスキー・メディアワークス(旧メディアワークス)主宰の小説賞である電撃小説大賞を対象とし,その大賞・金賞受賞作品は《どこを》描写しているのか,作品の「舞台」を抽出し整理を試みた.その結果,90年代の受賞作品と,00年代の受賞作品とでは,その「舞台」の明確な差異が指摘できた.ライトノベルはより《学校を》描写するようになってきており,端的に述べればライトノベルの「舞台」は《学校化》しているのである. 以上は作品内部の分析である.では作品外部はどうか.これに対応する問いが,ライトノベルは《どこに》存在しているのか,である.森前掲書の「重要なキーワード」である「聴衆,音楽産業,商品化,物質化,アイデンティティ,政治,歴史,地理(移動,場所,空間)」は,冒頭の二語を「読者,出版産業」等に置換すればそのままライトノベルの語り口としても適用可能かつ重要なキーワードとなる.とはいえこれらキーワードが示すメタ次元の問いを発する前に,本発表ではベタな実地踏査を試みた結果を報告する.その意味では断片的報告であり,トポグラフィならぬトポグラフィティを名乗る所以でもある.
著者
大平 晃久
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2011年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.20, 2011 (Released:2012-03-23)

文化地理 岐阜県内の文学碑の事例を中心に、記念碑と場所の関係を比喩として読み解き、記憶-場所論に新たな視点を提示する。
著者
李 小妹
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2008年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.501, 2008 (Released:2008-12-25)

本研究は,中国・シンセンにある「錦繍中華」,「中国民俗文化村」と「世界之窓」という三つのテーマパークにおいて,新しい都市空間がいかなる過程で作りあげられているのかについて考察する。これらのテーマパークは,中国国内で初めて作られた同類の観光施設として,中国の文化観光開発事業をリードし,経済開発の産物と見本であると同時に政治文化の発信地でもある。テーマパークがもつこのような経済的,政治文化的特性は,シンセンの都市空間のそれを反映している。そのうえ,市場経済化とグローバル化の中で成長したシンセンは,グローバル時代における中国都市の都市空間の変容と,都市空間を生きる人々とのかかわりのダイナミックな変容実態を,他のどの都市よりも先見的に,よりよく反映している。本研究において,これらのテーマパークの建設経緯,展示内容および展示手法について検討し,「見せ物の場所」と「生きられる空間」といった二つの視座から,開発側である中国政府と華僑資本家および「ユーザー」である観光客や少数民族の若い労働者による「空間の生産」がいかなるものかを明らかにした。 まず,「見せ物の場所」としてこれらのテーマパークは,中国および世界の歴史文化といった大きなテーマの下で,「社会主義的国民国家」と「市場経済の発展ぶりおよび生活の向上」を見せ,経済発展を正当化する手段であると同時に,愛国主義教育といったような政治宣伝の場でもある。 また,アンリ・ルフェーブルの「表象の空間」とエドワード・ソジャの「第三空間」の概念を用いて,これらのテーマパークが「見せ物の場所」であると同時に「生きられる空間」でもあると確認した。具体的に三つの場面を挙げながら論じる。場面_丸1_:「錦繍中華」において,観光客であるシンセン住民がテーマパークを自らの所有物でもあるように他の町から来た観光客に紹介する時の,彼らの表情や振る舞い型や使った言葉と話す口調から,彼らがこの空間に付与された意味を自分たちの住民としてのシンセン・アイデンティティとも言うべき主体性の発揮が見られる;場面_丸2_:「中国民俗文化村」に百人以上の少数民族の若者が働いている。彼らはテーマパークのすぐ近くにある社員寮に住み,テーマパークを中心に生活している。テーマパークの中での活動と言えば,観客にパフォーマンスしたり民族文化を紹介したりするような労働だけでなく,売店やレストランで自ら消費者になって見せる身から見る身に変身するのである。こうした「生産」と「消費」の間に移行する身体は,見せ物の場所を生きられる空間へと変えている。場面_丸3_:「世界之窓」で80歳の闇ガイドに出会った。彼は「75歳以上の老人が入場無料」という規則で毎日テーマパークに来ている。目的は観光ではなく,観光客にテーマパークを案内することで案内費を稼いでいるのだ。彼のようなテーマパークに雇われていないガイドをここにおいて「闇ガイド」と名付け,彼らによって「世界之窓」という空間が一種の抵抗空間として生産されている。つまり,シンセンのテーマパークは,観光客や少数民族の若者や闇ガイドのおじいさんのような住民や「ユーザー」の空間であって,彼らの諸活動によって抵抗の空間,または「生きられる空間」に練り上げられている。 国民国家のアイデンティティと民族文化は,常に変化しており,確立される必要性に迫られている。従って,それらが空間と時間の枠組みのなかで再生産され,再確認されるプロセスは,わたしたちの周りに絶えず展開されている。万里の長城が5000年の中国歴史文化を象徴するように,シンセンは経済発展がもたらした現代性を象徴する。シンセンの都市空間は,いわばひとつのテーマパークのような存在であって,そのテーマというのが,「グローバル化」であり,中国の改革開放の成功(「社会主義体制」と「市場経済様式」との接合)である。中国が社会主義の政治体制と資本の自由化との間に,その矛盾と戦いながら自らの発展の道を探りつつあると同様に,中国の人びとは,矛盾に満ちた都市に放り出された身をもって,都市を自分たちの需要に合わせながら作り変えている。こうした表象され,実践され生きられる空間には経済発展に巻き込まれている社会的諸主体間の関係性が生き生きと作られ,また現されてもいる。わたしたちが今日及び近未来の中国の都市空間と中国社会を理解するのに,こうした関係性としての空間を第三空間的想像力で考察することはきわめて有意義であろう。
著者
西山 弘泰 小泉 諒 川口 太郎
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.35-35, 2009

本発表では,1970年以降東京都心から25~30km圏に立地するアパートに着目し,その居住者の実態を明らかにすることを目的としている.本研究の対象地域は東京都心から25km,埼玉県南西部に位置する東武東上線鶴瀬駅半径1kmを範囲とした住宅地である(図2).当地域は埼玉県富士見市,三芳町の一部で,小規模な戸建住宅や共同住宅,商店などが混在している.都市計画法による用途地域は,第1種中高層住居専用地域(建蔽率60%,容積率200%)が主ある.東武東上線鶴瀬駅から池袋駅までの所要時間は約30分と比較的都心へのアクセスは良い.鶴瀬駅周辺の住宅地開発は,1957年の公団鶴瀬第一団地,1962年の公団鶴瀬第二団地の開発に端を発し,その後地元や東武東上線沿線の中小ディベロッパーを中心とした小規模な戸建住宅地開発,農家や地主のアパート建設が中心である.アパートの建設は1970年以降増加し,1980年代から1990年代前半にかけて増加が著しい.これは鶴瀬駅の南隣にあるみずほ台駅の土地区画整理事業が完了し,そこに地権者がアパートを建設したことや,農家や地主が地価の上昇によって不動産収入が必要になったこと,共同住宅建設に住宅金融公庫の融資を受けられるようになったことなどが要因と考えられる.2005年の国勢調査によると対象地域においてアパートに居住する世帯は3,266世帯である.本研究では2009年3月,対象地域に立地するアパート3,000戸にポスティングによるアンケート調査を実施し,135票(回収率4.5%)の郵送回答を得た.対象者の世帯の種類は,単身世帯が72世帯,夫婦のみの世帯17世帯,夫婦と子からなる世帯が26世帯,片親と子からなる世帯が13世帯,その他の世帯が7世であった.単身世帯が半数以上を占めているものの,世帯構成以外に,年齢,職業,学歴,出身地などは多様で一括りにすることは困難である.単身者は40歳未満が40世帯,40歳以上が32世帯で平均年齢41.8歳であった.住居の間取りは1Kや1DKで,一戸当たりの平均延べ床面積は27.0_m2_であった.また築年数は10~19年,駅から徒歩10分のアパートを4万円以上6万円未満で居住するというのが平均的である.単身者の仕事は,37人が正規の職に就いており,17人がアルバイト・パート,派遣・嘱託といった非正規労働に従事している.その他,学生が6人,無職・家事が12人であった.40歳未満の若年単身者の居住期間が約3年と短いのに対して,40歳以上の単身者は7年と永い.夫婦のみの世帯は,40歳未満の比較的若い層が17世帯中11世帯と多かった.住居の間取りは,2DKや2LDKで,一戸当たりの平均延べ床面積は46.5_m2_,家賃は6万円以上8万円未満が最も多かった.転居の意向をみてみると,40歳未満の世帯で転居予定の世帯が多かったのに対して,40歳以上の世帯で不明確な回答が多かった.夫婦と子からなる世帯も夫婦のみの世帯同様40歳未満の比較的若い世帯が大半を占めていて,第一子も小学校就学前が多くなっている.間取りや延べ床面積,家賃については,夫婦のみの世帯と類似している.40歳以下の世帯では転居志向が強く,転居先は近隣の戸建住宅を購入することを希望している.一方,夫が40歳以上の世帯では居住年数が平均12年と長くなっていて,転居意思が低いのが特徴である.最後に,片親と子からなる世帯では,1世帯を除いた12世帯が母子世帯であった.家賃は6万円以上8万円未満と6万円未満が同数であった.築年数をみてみると他のグループと比べ築年数が経過しているアパートに居住する世帯が多いのも特徴である.明確な転居意思を持った世帯は皆無であり,滞留傾向が強くなっている.以上のように,若年の単身者やファミリー世帯においては,転居意思や居住年などから従来のようにアパートが仮の住まいとして認識されていることがわかる.一方で,比較的年齢の高い層や片親世帯などはアパートに滞留する傾向がみられることが指摘できる.