著者
安藤 哲郎
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.19, 2005

本発表では、平安京における「成長」の概念について、日記や物語などの歴史的資料(史料)を基に、都のモチーフや動静を理解して考察を試みた。<BR> 都市の場合には人口や経済から成長の探求が行われるが、都は生産性と別次元にある。そこで、都と必要十分の関係にある天皇家や官人がどう考えていたか、という面から考えることとした。都が「宮処」である観点も大きく、また彼らの考え方を知る術もあるからである。<BR> 都は天皇が常に位置していることが求められたが、時折京外へ出かけた。その行幸(上皇の場合は御幸)から理解を試みるため、「京外空間」を糸口として考えた。まず、平安遷都前後における天皇遊猟の目的地から、遷都行動(遊猟)が平城・長岡・平安3京を相互に結び付けた可能性がみられた。また、白河上皇時代の行幸・御幸状況から、前期は成人天皇と共に鳥羽を王家の地として人々に認識させ、後期は幼主のために摂関家に由緒のある白河を王家の地になすことで王権伸張に役立てたとみられた。<BR> 天皇は次第に遠出をしなくなり、京周辺の神社などから日帰りするようになった。一方で王家の地となった鳥羽や白河などは日帰りしなくてもとくに指摘されない。そういう意味では、都人は自由になる京外空間が広がっている。<BR> ただし、平安京が外を好まない傾向は残っていた。比べてみれば、「都会」と表現されていた太(大)宰府は御笠下流の博多に鴻臚館を設け、そこと一体となったまちであった。一方平安京は交流施設を近くに持たなかった。京に近いところが都とは違うことも表現されている。<BR> 平安京は限られた空間の中で完結する都であり、他との接触を好まない都であることは続いていたが、その周辺部が平安京の意味付けのために使われ、自由に訪問できる空間として整備されることがあった。都人の活動空間が広がったと意識される意味では「成長」と言える可能性がある。<BR>

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