- 著者
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井尻 直志
- 出版者
- 日本イスパニヤ学会
- 雑誌
- HISPANICA / HISPÁNICA (ISSN:09107789)
- 巻号頁・発行日
- vol.2014, no.58, pp.61-83, 2014
ベネディクト・アンダーソンは、マリオ・バルガス=リョサ(Mario Vargas Llosa)の小説『密林の語り部』(El hablador, 1987) について論じた評論「不幸な国」で、「『密林の語り部』がナショナリズム小説であることは疑う余地がない」と述べている。それを受けて、本稿では、『密林の語り部』はアンダーソンのいうような意味におけるナショナリズム小説なのか、という点について論じた。以下がその結論である。『密林の語り部』の語りの構造には複数の解釈が可能であり、それに応じて作品とナショナリズムとの関係も変わってくる。語り部の語る章は小説家〈私〉の書いたものではないと看做す場合、ジョナサン・カラーのように「すべてを包括する語り手はいない」として、「統一性なき共同体を想像しようとする試み」であると解釈することもできるし、アンダーソンのいうように、ネーションへの統合が内包する野蛮の不可避性をパフォーマティヴに表現している「いまの時代のネーションの小説」であると解釈することもできる。また、語り部の語る章を小説家〈私〉の書いたものであると看做した場合も、「超越的視点」が存在しない以上、「旧来型のナショナリズム小説」であると解釈することはできない。とはいえ、『密林の語り部』の語りの構造を入れ子構造と看做した場合、小説家〈私〉は最終的に小説家バルガス=リョサに包摂される、という解釈が可能になる。その場合、『密林の語り部』は、語りの形式において、「均質な空間」の内にネーションを調和的に統合しようとする「旧来型のナショナリズム小説」である、という解釈が可能である。