著者
猪股 泰広
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>1.はじめに<br></b> 近年,富士山の世界文化遺産登録や国民の祝日としての「山の日」制定など,山岳地域への関心が高まっている.観光対象としての山岳地域は,自然・文化の多様性や非日常性といった多くの魅力を有する一方で,人間活動の影響に対して実に脆弱である(Nepal and Chipeniuk 2005).人間による利用が進むこと,およびそれに伴い必要となる保全施策が進むことで,本来的に山岳地域が有する魅力を享受できなくなる,すなわち利用体験の破壊が生じるため(八巻 2008),利用目的や環境に応じた地域づくりが必要とされている.これについて,レクリエーション機会多様性(ROS)概念を用いた検討は多数なされているが,あくまで現況の指標に基づくものであり,地域的文脈はあまり考慮されていない.そこで本研究では,近代登山発祥以降の観光利用の進展が顕著な北アルプス槍ヶ岳周辺地域を対象に,山小屋の機能や周辺環境の変化に着目することで,登山観光地域の変容過程を明らかにし,今後の地域づくりの指針を得ることを目的とする.<br><b>2.対象地域<br></b> 槍ヶ岳(標高3180 m)は,長野県,岐阜県の境界に位置する北アルプス南部・槍穂高連峰の主要ピークである.東側に連なる常念山脈の存在や梓川沿いの地形の急峻さにより,近代登山発祥(1900年頃)以前は信仰登山目的などで僅かな人が立入るのみであった.1916年に営林署による島々~徳本峠,明神~槍ヶ岳の登山道が整備されて以降,要衝における山小屋開業とともに,槍ヶ岳周辺地域は登山観光地としての性格を表し始めた.槍穂高連峰や常念山脈は一帯が国有林であり,また中部山岳国立公園に指定されている.<br><b>3.登山の大衆化と地域の変容<br></b> 1920年前後,槍ヶ岳をめぐる登山道整備の進展に伴い山小屋の開業が相次いだ.当時は登山者の宿泊・休憩だけでなく,より高所にある山小屋への物資補給のための歩(ぼっ)荷(か)の中継施設としての機能を担う山小屋が多かった.1927年の釜トンネル開通,1929年のバス運行開始により,登山の起点が上高地に移ると,小屋の収容能力を超えるほどの登山者が訪れるようになった.高度経済成長を迎える頃には,収容人数増を目的とした小屋の増築が進んだことと,物資運搬手段としてのヘリコプター導入により,歩荷では不可能であった重い建材や新鮮な食料の供給が可能になったことが,設備充実や美味しい食事の提供をもたらし,登山者の利用体験の向上につながり,登山の大衆化を推し進めた. <br> 1970年代になると環境問題が顕在化し,1975年には国立公園で初となる上高地マイカー規制が実施された.こうしたことによる登山停滞期を経て,1990年頃から中高年,とくにレートビギナー層による登山が卓越するようになった.これを受けて,定員数百人の大規模な山小屋では,調理用コンベクションオーブンやビールサーバーを導入するなど,更なるサービスの向上を図っていた.一方で,増加する登山者の環境影響やそれに伴う利用体験の悪化を最小限に抑えるため,無放流水洗トイレの導入や官民連携での登山道整備の取り組みなどが行われている.今後の登山者の質的変化により,地域に求められるものも変化するであろう.

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