著者
鈴木 晃志郎 于 燕楠
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<b>研究目的</b><br><br> 本発表は,地理学が得意とする空間的可視化の手法を用いて,富山県内の心霊スポットの分布が現代と100年前とでどう異なるかを空間解析し,その違いをもたらす要因について考察することを目的とする.本発表はエミックに扱われがちな事象をエティックに捉える試みであり,民俗学を中心に行われてきた妖怪変化の分類学を志向するものでもなければ,超常現象そのものの有無を論ずるオカルティズム的な関心も有しない.<br> 超常現象が何であるにせよ,それらが超常現象となり得るには,人目に触れ認知されなければならない.ゆえに超常現象は高度に文化的であり,その舞台として共有される心霊スポットは,組織化され商業化された一般的な娯楽からは逸脱した非日常体験を提供する「疎外された娯楽(Alienated leisure)」(McCannell 1976: 57)の1つとして社会の文化的機能のなかに組み込まれているとみなしうる.その機能に対して社会が与える価値づけや役割期待の反映として心霊スポットの布置を捉え,その時代変化を通じて霊的なものに対する社会の側の変容を観察することは,文化地理学的にも意義があると考えられる.<br><br><b>研究方法・分析対象</b><br><br> 2015年,桂書房から復刻された『越中怪談紀行』は,高岡新報社が1914(大正3)年に連載した「越中怪談」に,関係記事を加えたものである.県内の主要な怪談が新聞社によって連載記事として集められている上,復刻の際に桂書房の編集部によって当時の絵地図や旧版地形図を用いた位置情報の調査が加えられている.情報伝達手段の限られていた当時,恐らく最も網羅的な心霊スポットの情報源として,代表性があるものと判断した.この中から,位置情報の特定が困難なものを除いた49地点をジオリファレンスしてGISに取り込み,100年前グループとした.比較対象として,2018年12月にインターネット上で富山県の心霊スポットに関する記述を可能な限り収集し,個人的記述に過ぎないもの(社会で共有されているとは判断できないもの)を除いた57の心霊スポットを現代グループとした.次にGIS上でデュアル・カーネル密度推定(検索半径10km,出力セルサイズ300m)による解析を行い,二者の相対的な分布傾向の差異を可視化した.このほか,民俗学的な知見に基づきながら,それらの地点に出現する霊的事象(幽霊,妖怪など)をタイプ分けし,霊的事象と観察者の側とのコミュニケーションについても,相互作用の有無を分類した.<br><br><b>結 果</b><br><br> 心霊スポットの密度分布の差分を検討したところ,最も顕著な違いとして現れたのは,市街地からの心霊スポットの撤退であった.同様に,大正時代は多様であった霊的事象も,ほぼ幽霊(人間と同じ外形のもの)に画一化され,それら霊的事象との相互作用も減少していることが分かった.霊的なものの果たしていた機能が他に代替され,都市的生活の中から捨象されていった結果と考えられる.<br><br><b>文 献</b>:<br>MacCannell, D. 1976. <i>The Tourist: A new theory of the leisure class</i>. New York: Schocken Books.
著者
水上 崇
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.73, 2003 (Released:2004-04-01)

1.はじめに 日本の沖積平野における洪水災害は、第二次大戦後の治水工事の進展により堤防を溢流するタイプは減ってきているが、その一方で、農地や森林の宅地化に代表される土地利用の変化によって内水氾濫型の洪水はむしろ増加している。そして、この傾向は三大都市圏のみならず、地方都市でも顕著になってきているものと考えられる。 本報告ではそのような観点から、高梁川とその最大の支流である小田川との合流点に位置し、古くから頻繁に水害を被ってきたことに加え、岡山市と倉敷市に近接していることから近年ベットタウン化が著しい岡山県吉備郡真備町をフィールドに取り上げ、洪水のタイプの変化による新たな水害の可能性について考察する。また、併せて町が近年作成したハザードマップの有効性についても言及を試みたい。2.真備町の地形 真備町は小田川の下流部に位置し、小田川と高梁川によって形成された氾濫原と背後の花崗岩質からなる丘陵より構成されている。小田川は、町の東端で高梁川と合流している。 空中写真判読による地形分類図作成結果から、真備町の氾濫原は次のように特徴づけられた。_丸1_自然堤防は極めて少なく、氾濫原のほとんどが後背湿地である。_丸2_小田川の旧河道は左岸の後背湿地に広く分布し、小田川の流路が右岸の丘陵寄りに移動し続けている。_丸3_左岸支流から末政川、高馬川という2本の顕著な天井川が流入しているが、いずれも扇状地を形成しておらず、上流からの土砂供給が少ないものと考えられる。3.洪水タイプの変化 続いて、過去の真備町に関する水害及び治水事業の記録からこの地域の洪水のタイプの変化について検討した。 真備町は、鎌倉時代の高梁川の南遷事業を契機として、小田川に加えて高梁川からの溢流による水害にも見舞われるようになった。加えて、小田川と合流した高梁川は、そのすぐ下流で倉敷平野へ抜ける狭窄部を通るため、大雨の際にはしばしば増水した河川水が小田川へと逆流し、真備町の氾濫原に水害をもたらすことが多くなった。この両タイプの水害は第二次世界大戦前まで頻繁に起こった。 第二次大戦後は高梁川、小田川のそれぞれ上流にダムが完成したことと、高水化工事が行われたこともあり、溢流するタイプの洪水は起こらなくなった。しかし、1960年代以降はそれに代わって、宅地化に伴う水田面積の減少によって、降った雨水が排水されず後背湿地に湛水し続ける内水氾濫タイプの水害が多く起こるようになってきている。なお、これには河床が高いために排水機能を果たせない天井川が氾濫原に存在していることも背景にあるものと考えられる。4.ハザードマップの有効性 真備町では、2000年に洪水避難地図(洪水ハザードマップ)を作成し、既往最大の水害時の浸水域内に居住する全ての世帯に配布を行っている。 このハザードマップの記載内容には以下の問題点を指摘したい。_丸1_氾濫原一面を同じ高さまで浸水するように示しており、微地形の違いによる湛水高が判別できない。_丸2_避難経路として最も湛水深の深い後背湿地(特に旧河道)を通るように示しているケースもあり、安全な避難を行えるか疑問である。 この他の問題点等については分析中につき、当日報告する。
著者
水野 勝成
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.174, 2003 (Released:2004-04-01)

国土地理院2万5千分1地形図(以下「地形図」)を眺めると、都道府県や市区町村の行政境界線付近にいわゆる飛地と呼ばれる断片的な領域がいくつか点在していることがわかる。この飛地(とびち)とは、「同一支配下に属する行政区域が地理的に連続せず、離れて他の行政区域に囲まれて存在する」(『地理学事典 改訂版』日本地誌研究所編、二宮書店、1989年)とされている。渡部(1990)は、この地形図にて飛地を所有する地方自治体として109町村を示したが、日本全国にどのような飛地が存在し、その形成理由や消滅理由等を総括した研究は少なかった。 そこで、インターネットGISの代表格である国土地理院「地形図閲覧システム」を活用し、地形図上に記載されている「行政区+飛地」(例、弘前市飛地)の地名表記を検索する。複数の地形図に同一の飛地が認識される場合があるため、各地形図を目視しながら確認することで、全国に232カ所の飛地が地形図に表記されていることが判明した。これらの飛地は鹿児島から青森まで日本全国に広く分布しているものの、北海道や愛知県にはみられず、他方、山形県、千葉県、新潟県、大阪府、鹿児島県には多くみられ、さらに、いくつかの自治体に集中している状況を明らかにした。 この232カ所の飛地情報を本研究のプラットホームとし、まず、史実資料などをもとに、これらの飛地の形成理由を調査した。これらを大まかに分類すると、江戸時代の知行地によるもの、新田開発等の人為的なもの、寺院をはじめとする宗教的なもの、隣接しない自治体の合併によるものの、4種類に類型化できる。これらの事由は単一に作用するものばかりではなく、複数の要因によるものも多い。飛地が多くみられた山形県、千葉県、新潟県、大阪府、鹿児島県における面積の小さな飛地は知行地によるものが主流であり、面積が大きく、その飛地内に学校などの公的設備が存在する場合の多くは、隣接しない地方自治体の合併によるものであった。飛地の境界線が幾何学的(例、長方形)は新田開発等の人為的なものである可能性が高いことも分かってきた。 この飛地の類型化をさらに正確なものにするため、飛地が認識された自治体へ調査票を送付し、歴史的背景を含めて、飛地の形成理由を現在調査中である。さらに、飛地の面積、人口、主要な建物、道路などの交通路、ゴミ回収をはじめとする住民サービスの状況等をGISなどの方法も併用して調査することも計画している。現在、いわゆる平成の大合併により多くの市町村合併が進行中である。多くの飛地がこの合併により消滅し、一方で、隣接しない地方自治体の合併によりさらに飛地が生成されるのではないかと考えられている。これを良い事例とし、飛地の生成・消滅事由を現実に即して類型しつつ、明らかにしたいと考える。【参考文献】長井 政太郎(1960):「飛地の問題」『人文地理』pp.21-31、21-1、人文地理学会渡部 斎(1985):「近世における飛地」『地理誌叢』pp.58-64、26-1/2、日本大学地理学会渡部 斎(1987):「地方行政境界に見られる飛地について ―広島県大竹市の場合―」『地理誌叢』pp.78-84、28-2、日本大学地理学会渡部 斎(1990):「地方行政境界にみられる飛地の現状」「道都大学紀要―教養部―」No.9、pp.45-54、道都大学
著者
小室 隆 山室 真澄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

日本全国のの平野部の湖沼では戦後の1950年代からの高度経済成長期を通じて、周辺田畑での除草剤使用や(山室ほか 2014)、人口増加や産業の近代化に伴いう、富栄養化がの進行しにより、湖沼水質や植生が劇的に変化をした。2003年には「自然再生推進法」が制定され、日本全国の湖沼においてもNPOや地方自治体によって自然再生活動が実施されている。しかしながら、それらの活動の多くは再生目標の時代設定や対象種の選定が、必ずしも科学的根拠に基づいて行われておらず、人々の主観的な考えに基づき実施されている例が散見されるいるとは言えない状況にある。即ち、本来ならば、湖沼環境が激変する高度経済成長期以前の状況を定量的に把握した上で、産・官・学の協働で再生目標などを設定すべきであるが、。しかし当時の状況が容易に再現できないことから、本来その水域に無かったり、環境悪化後に一時的に繁茂した植物が再生の名の下に植栽される例が散見される。必ずしもそのような状況ではない。 本研究では関東平野で最も水域面積が広く、自然再生アサザの保全・再生活動が行われている霞ヶ浦(西浦)を対象とした。霞ヶ浦は水域面積200km<sup>2</sup>、平均水深4mと浅く、富栄養化の進行した平野部湖沼である。霞ヶ浦も他の平野部湖沼と同様に戦後から高度経済成長期を通じて水生植物が激減した湖沼である(山室・淺枝 2007)。 浮葉植物(Floating-leaved plant)に分類されるのアサザ(<i>Nymphoides peltata</i>)の霞ヶ浦での植栽・保全活動による影響について加茂川・山室(2016)によりは、アサザ植栽を行った消波施設陸側では、底質の細粒化と有機物濃度と全粒化物硫化物の濃度の増加がを確認されておりし、環境への影響環境が悪化していると指摘しているが懸念される。本研究ではこのアサザの生育状況について、霞ヶ浦湖岸全域を対象に調査することで、植栽・保全事業による効果を検討することを目的とした。<br> 本研究では2010年と2015年の2度に渡り、霞ヶ浦湖岸全周を対象に踏査を行い、アサザが生育している地点を地図に落とし、写真撮影を行った。その際、生育している地点の座標、アサザの状態も同時に記録した。2度の調査でアサザの生育地点の変化傾向、そしてと繁茂面積を求めた。面積の計算にはArcGISを用い、踏査の際に撮影した写真から基準長(生育場所で距離がわかる対象物を同じ画角内に収まるように撮影し、Google Earthや地形図から長さを求めた求めた長さ)を求め算出し、アサザの繁茂面積を求める際にスケールとして用いた。この手法によりアサザ植栽による湖岸環境の変化を検討した。また、2009年に国土交通省関東地方整備局霞ヶ浦河川事務所が行ったアサザ分布調査結果を用い比較検討を行った。<br> 2015年にでは155地点でアサザの繁茂が確認された。植栽事業は右岸の鳩崎、古渡、中岸の石田、根田、左岸の永山の計5地点で行われた。これら植栽地のうちアサザを確認できたのは根田と永山の2地点分布は右岸2地点、中岸2地点、左岸11地点で左岸側に集中していた。2のみで、残りの13地点の大部分は自然に進入したと判断された。2015年に2009年から2015年にかけて4地点で生育は確認できず、それらはいずれも右岸側の鳩崎に集中していた。生息繁茂が確認された地点のはは舟溜りや波消堤消波堤の内側のなど、波や風の影響を受けない地点に集中していた。 &nbsp;<br> 霞ヶ浦では2000年に緊急対策として消波工が設置され、アサザの植栽・保護を行った。このことからも分かるように、アサザは本来、波が高い霞ヶ浦で広く分布できる植物ではなく、高度経済成長期以前に生息が確認された地点は全て入り江や湾の最奥部に限定されていた(西廣ほか 2001)。現在アサザが繁茂している場所が人工的に消波された場所や水路であることからも、アサザは霞ヶ浦本来の自然環境に適応した植物ではないと言える。緊急対策が行われた理由として、アサザは霞ヶ浦でしか種子生産できないとの主張があった。これは霞ヶ浦ではサンプル数が多く他では少なかったことが原因で、霞ヶ浦以外でも種子生産されていることが報告されていることからも(藤井ほか 2015)、霞ヶ浦で事業を行う科学的根拠は無かったと考えられる。 &nbsp; &nbsp;&nbsp;
著者
荒木 一視
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

&nbsp;戦前の日本の米が国内で自給されていたわけではない。少なからぬ量の米が植民地であった台湾や朝鮮半島から供給され,国内の需要を賄ってきた。その一方で,少なからぬ穀物(米,小麦,粟など)がこれらの地域に輸移入されていた。本発表では朝鮮半島の主要港湾のデータに基づき,これらの主要食用の輸移出入の動向を把握する。これを通じて,戦前期の日本(内地)の食料(米)需要を支えた植民地からの移入米を巡る動向と,1939~1940年にそのような仕組みが破綻したことの背景を明らかにしたい。 <br>&nbsp;第一次大戦と1918年の米騒動を期に,日本は東南アジアに対する米依存を減らし,それにかわって朝鮮半島と台湾に対する依存を高める。円ブロック内での安定的な米自給体系を確立しようとするもので,1920年代から30年代にかけて,朝鮮半島と台湾からの安定した米の供給が実現していた。しかし,1939年の朝鮮半島の干ばつを期にこの食料供給体系は破綻し,再び東南アジアへの依存を高め,戦争に突入していく。以下では朝鮮半島の干ばつまでの時期を取り上げ,朝鮮半島の主要港の食料貿易の状況を把握する。 この時期の貿易総額は1914(大正3)年の97.6百万円から1924(大正13)年には639百万円,1934(昭和9)年には985百万円,1939年(昭和14)年には2,395百万円と大きく拡大する。貿易額の最も多いのが釜山港で期間を通じて全体の15~20%を占める。これに次ぐのが仁川港で,新南浦や群山港,新義州港がそれに続く。また,清津,雄基,羅津の北鮮三港も一定の貿易額を持っている。 <br>&nbsp;釜山:最大の貿易港であるが,1939年の動向の貿易総額734百万円のうち外国貿易額は35百万円,内国貿易が697百万円となり,内地との貿易が中心である。釜山港の移出額260万円のうち米及び籾が46百万円,水産物が14百万円を占め,食料貿易の多くの部分を占める。なお,1926年では輸移出額計124万円のうち玄米と精米で50百万円と,時代をさかのぼると米の比率は大きくなる。1939年の釜山港の移入額では,菓子(4百万円)や生果(8百万円)が大きく,米及び籾と裸麦がそれぞれ3百万円程度となる。1926年(輸移入額104百万円)においても輸移入される食料のうち最大のものは米(主に台湾米)で,5百万円程度にのぼる。これに次ぐのが小麦粉の2百万円,菓子の百万円などである。 <br>仁川:釜山港同様に1939年の総額367百万円のうち外国貿易は67百万円と内地との貿易が主となる。1920年代から1930年代にかけて,米が移出の中心で,1925年の輸移出額64百万円のうち,玄米と精米で47百万円を占め,1933年では同様に43百万円中の28百万円,1939年では106百万円のうち32百万円を占める。なお仕向け先は東京,大阪,名古屋,神戸が中心である。輸移入食料では米及び籾,小麦粉が中心となる。 <br>鎮南浦:平壌の外港となる同港も総額213百万円(1939)のうち,外国貿易は29百万円にとどまる。同年の移出額89百万円のうち玄米と精米で15百万円を占め,主に吉浦(呉)や東京,大阪に仕向けられる。移入では内地からの菓子や小麦,台湾からの切干藷が認められる。 <br>新義州:総額135百万円のうち外国貿易が120百万円を占め,朝鮮半島では外国貿易に特化した港湾である。1926年の主要輸出品は久留米産の綿糸,新義州周辺でとれた木材,朝鮮半島各地からの魚類などで,1939年には金属等,薬剤等,木材が中心となる。いずれも対岸の安東や営口,撫順,大連などに仕向けられる。輸入品は粟が中心で,1926年の輸入総額52百万円中17百万円,1930年には35百万円中,15百万円,1939年には46百万円中12百万円を占める。移出は他と比べて大きくはないが,米及び籾を東京や大阪に仕向けている。 <br>清津:日本海経由で満州と連結する北鮮三港のひとつで,1939年の総額158百万円中35百万円が外国貿易である。1932年の主要移出品は大豆で,移出額7百万円中3百万円を占める。ほかに魚肥や魚油がある。移入品では工業製品のほか小麦粉,米及び籾,輸入品では大豆と粟が中心である。&nbsp;
著者
小島 泰雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

1.問題の所在<br><br> 深圳は中国南部、珠江デルタの先端に位置し、香港に隣接して国策として建設された都市である。1979年に宝安県から深圳市が析出され、翌年には経済特区として指定をうけ、以後、30年あまりの間に人口1000万の都市に成長するという、類い無き都市化が展開した。<br><br> 深圳は中国ではじめて農村が無くなったことでも知られる。ここで農村が無くなったといわれるのは、制度的に"無農村建制"(農村制度が無くなった)、"無農民戸口"(農民戸籍が無くなった)ことを差すが、同時に農村都市化の一般的な過程を経験したことを示す。<br><br> 本報告は、2017年夏季に行われたフィールド調査と地方誌に依りつつ、いかに深圳が農村を失っていったのかについて検討し、深圳の地域像を更新することと、珠江デルタの農村の一つの極地の形成過程を確認することを目的とする。<br> <br><br>2.万豊村の経験<br><br> 万豊村は深圳市の西北部、宝安区沙井街道に属しており、現在は万豊社区となっている。祠堂の残る旧来の集落を囲んで多様な建築群からなる住宅区と工業地区という2種の景観地域で構成されている。《万豊村史》(2001年)に描かれる万豊村の景観変化は、概略以下のようなものである。<br><br> 農地は水田より畑が多く、西の浜で牡蠣の養殖を行っていた万豊村は、1978年の香港への密航ブームに巻き込まれ、村民の半分近くが香港へ行ってしまった。万豊村の改革開放はこうした負の出発点に始まり、生産請負制の導入による専業戸が牽引する農業活性化が進められた。1982年に最初の香港資本の工場として香港フラワーの工場が進出、続いて金属加工、玩具工場の誘致に成功する。経済特区に隣接し、用地と労働力が安く得られることが立地要因となっていた。その後、"三来一補"と称される加工貿易の工場が毎年10近く増えていった。工業化は農地の転用を必要とし、一時的に外来人口の増加(1990年代末には6万人)の需要を満たす養殖業が盛んになったが、農業は急速に後退していった。<br><br> 万豊村はこの過程で新たな共有制のシステムを立ち上げ、農村開発の一つのモデルとして全国に知られるものとなった。1984年に設立された万豊股份公司は、農民が共同で投資して工場棟を建て、それを外資企業に貸し出すことで賃貸収入を得るという機構をもつ。当初は投資する村民は一部に限られたが、配当の大きさから多くの村民が参加するようになり、1988年には広東省の優秀企業の一つに数えられるまで成長し、村民は生活、福祉の両面で豊かさを享受することとなった。<br><br>3.坂田村の経験<br><br> 坂田村は龍崗区坂田街道に属し、かつて関内と呼ばれた初期の経済特区の北に隣接している。世界有数の情報機器企業に成長したHUAWEIの本部が集落の北にひろがり、丘陵斜面に並ぶ客家集落は旧来の風貌を残すが、二重三重に住宅地区に囲まれ、整備された街路を走っていると、その存在に気づくこともなくなっている。<br><br>《輝煌坂田》(2010年)によると、丘陵地帯に位置する坂田村はかつては交通条件が悪く、近くの市場町の布吉鎮まで自転車で1時間かかっていた。1980年には早くもセーター工場が進出したが、1985年にはすべての工場が撤退し、農民は特区や布吉の工場に流出していった。本格的な開発は1980年代末に始まる都市計画の実施を待つこととなった。1994年には坂田実業股份有限公司が設立され、工場建物の管理を行っていたが、2007年に坂田実業集団に改制される頃には不動産開発と管理が主たる事業となっていた。2004年には、それまでの鎮-村の農村行政制度が街道-社区の都市行政制度に編成替えされ、翌2005年には農地の国有化が終了した。<br><br>4.おわりに<br><br> 経済特区の設定は香港企業を中心とする多くの工場を深圳の農村にも進出させ、その結果、農地の転用が進み、農村の都市化が進展していった。近年、住宅建設が都市化の重要な要素となり、さらに行政制度が農村のそれから都市のものへと転換されたことで、深圳は名実ともに農村を失うことになったと整理されよう。
著者
長谷川 直子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b><u>1. </u></b><b><u>はじめに/目的</u></b><b><u></u></b> 演者は総合学としての地理の視点を広く社会に広める一環として、大学で実施した1授業の成果を2016年3月に出版した(お茶の水女子大学ガイドブック編集委員会編2016).この雑誌の出版をきっかけとして様々なメディアに露出する機会があった。今後のアウトリーチ活動の参考とするために、これまでに対応したメディアとのやりとりや学生主体の社会発信について報告・総括したい。 &nbsp; <br> <u>2.</u><u> メディアからの問い合わせと対応</u>&nbsp;学生によるTwitterの書き込みを日本地理学会がRetweetした。タモリ倶楽部のプロデューサーが日本地理学会のツイートをフォローしており、地理女子の書き込みを見つけた。地理に女子という存在がいるという発見と、そのフォロー数が少ないことからまだメジャーでないと認識され(メジャーなものは取り上げない主義)、タモリ倶楽部の出演の依頼があった。 タモリ倶楽部の担当者からお茶の水女子大学広報宛に2016年2月2日に出演の依頼があった。その時点で収録日は2月20日と予定しているのことだった。学生の希望を募り、出演希望の学生と制作会社とで打ち合わせが約2週間かけて行われた。雑誌の発売後3月20日頃に文京経済新聞から取材の依頼があった。販売後の反響や作成側の思い等について、演者と学生2名が取材対応され、記事は約1週間後に掲載された。 4月1日にタモリ倶楽部が放送された。放送は神回と評され、そのツイッターをまとめたサイトtogetterは放送直後に60万ビュー、(2017年1月現在70万ビュー)を越えた。その反響の大きさから、aol.news やlivedoor.newsの記事になった。「地理女子という新たなジャンルの誕生」というtogetterのまとめサイトも作られた。 5月12日に大学広報経由で東京新聞記者から取材の依頼があった。東京新聞の最終面TOKYO発に掲載する記事で、地理女子の実態を知りたいとのことだった。記者さんからの依頼で学生5名が記者さんをまちあるき案内しながら、地理の魅力等の質問に答えるという形で取材が行われ、6月23日に記事が掲載された。 6月25日、雑誌版元経由で東京FMの放送作家から取材の依頼があった。内容は学生に朝の番組クロノスへ生出演し、地理の魅力について語ってほしいというものだった。学生2名が7月15日に生放送に出演した。 &nbsp;7月21日、大学広報経由でJ-waveの放送作家から取材の依頼があった。東京の今を切り取るtokyo dictionaryというコーナーで紹介するため、演者が電話録音での取材に答え、7月28日に放送された。 9月28日、日経MJの記者から取材の依頼があった。日経MJ最終面の「トレンド」というコーナーで、最近ブームになりつつある地理女の実態やその広がりを取材したいということだった。10月22日に行われるひらめき☆ときめきサイエンスで地理女子が女子中高生をまちあるき案内するというイベントが地理女子の活動の広がりにあたるということで取材をしたいということだった。そのためこのイベントに参加する中高生と同伴者全員に許可を取り(日本学術振興会のルールによる)、取材が行われた。日経MJの記事が好評だったことを理由に、日経新聞(全国版)11月26日に縮小記事が再掲された。 なお、文京経済新聞を除くラジオと新聞の取材はすべて、タモリ倶楽部の出演がきっかけとなっていた。 &nbsp; <br> <b><u>3</u></b><b><u>.まとめ</u></b><b></b> 雑誌を出版してもタモリ倶楽部の出演がなければその後のマスコミ取材はなかったと思われる。がタモリ倶楽部の視点が(番組の性質上)出演学生の一部にとっては違和感を感じるものであったことも事実である(真面目な「地理学」を語りたかったのにステレオタイプな「女子」の面が強調された)。そのようなことがかえって、一部の学生内に「女子」と言われることへの違和感やアレルギーを引き起こしていることも事実である。しかしこれをきっかけに、(自分が考える、社会が考える)「地理」や「女子」とはなんなのか、といった議論が学生内で起こり、それについて真剣に考えていることは、ある意味での教育にもなっていると考える。 関わった教員としては、「発信の結果起こったことを教員のせいにするのではなく、学生自身が考えて結論を出し、その結果起こったものは自らでその責任を負う」という自立性を学んでもらうところまでもって行く必要があると考えているが、その部分がまだできていないことが課題である。 &nbsp; (本研究はJSPS科研費(課題番号26560154)の成果の一部である。 &nbsp; <br> <b><u>参考文献:</u></b>お茶の水女子大学ガイドブック編集委員会編(2016)「地理&times;女子=新しいまちあるき」古今書院.128p
著者
杉本 昌宏 秋山 祐樹 碓井 照子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100266, 2012 (Released:2013-03-08)

本稿では、現在サブカルチャーのまちとして知られる大阪日本橋地域を主な研究フィールドとして、創造都市の考え方を主軸にGISを用いた解析を行った。GIS解析は、秋山祐樹(東京大学空間情報科学研究センター)の研究である「日本全土の商業集積地域ポリゴンデータの開発」の商業集積ポリゴンを利用して商業集積の分析を行った。また、大阪日本橋と類似する地域(東京秋葉原や埼玉県鷲宮町など)との比較を行い、類型区分を行った。 これらの調査より、アニメの作品の舞台となり「萌え」と「地域」を売りにした「聖地巡礼「萌」型」、映画やイラストなどメディアを通じて地域のよいところを掘り起こし観光につなげる「地域資源発掘展開型」、サブカルチャーのメディアを扱う専門ショップの揃う大阪日本橋のような「総合メディア型」の3つに分類できた。しかし、サブカルチャーのまちづくりには、地域資源としてのその地域が伝統的に持っている地域資源とおたく文化(サブカルチャー)の融合が必要であることがわかった。
著者
一ノ瀬 俊明
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100073, 2012 (Released:2013-03-08)

2011年8月の晴天日に茨城県つくば市の(独)国立環境研究所敷地において、日中屋外(建物等による日影のかからない場所)で色彩以外が同一規格の衣料(U社製、同一素材・デザインのポロシャツ、色違いの9色)を用い、表面温度の経時変化を観測(赤外線サーモグラフィで最高温度を読み取る)した。色には明度という概念があり、標準的な原色(教育用折り紙)で比較した場合、白(明度1.0)、黄(1.0)、赤(0.8)、紫(0.7)、青(0.7)、緑(0.6)、黒(0.0)という数値が得られるが、この明度が可視光の反射率を代表していると考えられる。ポロシャツを使った実試験に先立ち、教育用折り紙で同様の試験(2011年7月6日午後:快晴)を行ったところ、ほぼこの順番(14時に白44℃、黄49℃、赤54℃、紫57℃、青59℃、緑62℃、黒71℃)で低温から高温に並ぶ結果が得られたため、折り紙の場合は可視光の反射率が表面温度を決める支配的要因の一つであると考えられる。 U社製品の結果でも色彩による温度差は明瞭であった。白、黄がとりわけ低く、灰、赤がほぼ同じレベルで、紫、青がさらに高めで拮抗し、緑、濃緑、黒が最も高温のグループを形成した。また、一般に日射が強まるとこの差は顕著となった。このように、明色側の結果はほぼ折り紙の場合と同じであったが、暗色側で若干順序が入れ替わっており、とりわけ濃緑や緑が黒よりも高温となるケースも多く観測された。黒など一部の色については、表面にUVカットのための特殊加工が強く施されている可能性もあり、明度の序列どおりの温度の序列にならなかったものと考えられる。 2011年3月の震災・原発事故後、夏季の空調における節電の必要性が強調されている。演者は衣服の色彩にも注目すべきであると考え、今回の実験を行った。この分野は家政学・被服学の領域であるが、従来ほとんど関心が向けられていなかったようで、データも少ない。屋外を徒歩で通勤する場合、夏服の色彩は、熱中症の予防など、健康維持の視点からも重要であるが、職場などに到着した際の空調に対する要求に関して有意な差をもたらしうるかどうかの検討が必要であると思われる。
著者
本岡 拓哉
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100305, 2014 (Released:2014-03-31)

第二次世界大戦の終戦直後からおよそ1970年代終わりまでの間、都市部の河川敷の中には居住の場として存在していたところも多かった。すなわち、戦災都市の河川敷にはセルフビルドのバラックが建ち並び、「不法占用/不法占拠」「スラム」というレッテルを受けながらも、河川敷は居住の場としての機能を有していたのである。とりわけ住宅差別を受けた在日コリアンなどの社会的周縁層、経済的社会的弱者たちもそうした河川敷に留まることとなったが、その一方で、都市部の河川敷は養豚業や廃品回収業などにも適した環境であったため、かれらはこうしたインフォーマルな労働によって賃金を獲得することも可能であった。しかし、戦災復興による都市化、さらには1964年の「新河川法」制定を契機に、河川敷の整備は進み、その景観は大きく変容し、河川敷居住は消滅していくことになった。本報告では、戦後期に最も大規模な形で河川敷居住が見られた熊本・白川(一級河川、流域面積480km²)を事例に取り上げ、戦後の「河川敷」居住に対する行政(熊本市、熊本県、建設省)の対応を辿り、1970年代までそれが存続した要因について明らかにする。
著者
阿部 智恵子 若林 芳樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

平成の大合併をめぐって地理学では,その地域的傾向や様々な問題点が検討されてきた(森川, 2012;神谷ほか, 2012)。とくに住民生活に直結する公共サービスへの影響に対して強い関心が向けられ,高齢者福祉を対象とした研究が進められている(畠山, 2007; 杉浦, 2009)。こうした高齢者福祉サービスは,市町村を越えた広域的運営がみられる(杉浦, 2007)のに対し,保育サービスは基礎自治体が担っているため,市町村間の多様性も大きい。しかしながら,市町村合併による保育サービスへの影響を取り上げた地理学的研究はみられない。本研究は,石川県かほく市を対象として,市町村合併に伴う保育サービスの調整過程を明らかにし,合併後の変化について検討することを目的とする。 かほく市は,2004年3月に河北郡の3町(高松町,宇ノ気町,七塚町)が対等合併して成立した。合併の動きが本格化したのは,地方分権一括法が施行された翌年の2001年からで,旧3町による合併協議会は2002年4月に発足した。2003年7月の合併協定書調印および町議会での議決を経て,2004年に平成の合併としては県内最初のケースとなった。合併に伴い,市庁舎を旧宇ノ気町役場に設置した。当初は旧高松町役場,旧七塚町役場にも一部の部署を分散させて支所として利用していたが,その後は宇ノ気の本庁舎に統合され,他の二つの旧庁舎はサービスセンターとして住民への窓口機能のみを担っている。合併前の職員は,新市でも継続して雇用されている。保育を担当する部署は子育て支援課で,保育所のほか,児童手当,子ども医療費助成,学童保育クラブ,児童館,ひとり親助成 などの業務を担当している。 合併協議会では,公共料金決定の基本方針を「住民の負担は軽い町に,サービス水準は高い町に合わせる」としており,保育サービスの水準もこれに基づいて定められている。表1のように,合併前の水準が相対的に高かった旧高松町に合わせてサービス水 準が設定されている。合併協議会においても保育料の設定をめぐる目立った議論はなく,また住民から特段の要望は出されていない。ただし,児童数の減少により定員充足率が低かった旧宇ノ気町では2つの保育所が休園している。 前述のように,保育所の定員充足率は合併前から低下しており,2004年当時は83.3%であった。その後も未就学児は減少が見込まれていたが,0歳及び1歳児の入園数の増加や,土・休日保育,延長保育のニーズの高まりに伴い,保育士を増やす必要性があった。当時市内にあった17箇所の保育所は,定員充足率に大きな差があり,また多くの施設が1970年代以前の老朽化した建物であったことから,効率的な運営のために保育所の統廃合が実施された。統廃合に当たっては,2005年に住民意向調査を実施し,保護者へのアンケート結果に基づいて立地やサービスに対する要望を把握している。これに基づいて統廃合の方針を定め,需要予測と通園圏を加味した上で,必要となる保育所数を高松地区3カ所,七塚地区3カ所,宇ノ気地区4カ所と割り出し,統合計画をたてている(図1)。また,かほく市の認可保育所はいずれも公設公営で,民間に比べて維持コストがかかるため,2014年度中には9カ所に統合されることになっている。
著者
小林 修悟 小寺 浩二
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

Ⅰ はじめに河川流域の流域管理や環境保全を行うためには、流域単位での水域環境の把握が必要となる。近年はGISの普及により、河川流域の空間把握が格段に簡便となり、気候や地形等の河川の多様な水質形成因子の表現が可能となった。2000年以降、「水環境の地理学」の研究グループでは「河川流域の水環境データベース」作成が試みられている。当研究室では天塩川(清水ほか2006)、北上川(平山ほか2009)などの一級河川や大規模支流(信濃川支流魚野川、森本ほか2008)にて流域特性把握の研究が成された。本研究は水環境データベースの一環として尻別水系流域の流域特性把握を行うものである。当地域における羊蹄山湧水や公共水質観測による報告はあるが、支流を含めた水系全体の水質分析が成された例はない。主要溶存成分による水質分析とGISを利用した流域特性解析を紹介する。Ⅱ 流域概要 尻別川は支笏湖西方に位置するフレ岳(1,046m)に起源し、西方に流れ羊蹄山(1,893m)北麓を迂回し、蘭越町磯谷で河口へと達する、流域面積1,640km2、幹線流路長126km2の河川である。源流から喜紋別にかけての上流部では1/60以上と急勾配となっており流量は少ない。中流部から下流部にかけ支流合流と羊蹄山を中心とした湧水供給を受け、蘭越からの下流部では1/500‐1/5000程度と緩勾配となり、流量も増加し大河川となり河口へと注ぐ。 当地域は北海道有数の酪農、農業地帯となっており、主な農産品には馬鈴薯やアスパラガス等となっており、下流部は水田地帯が形成されている。観光面では羊蹄山湧水やラフティングといった、水資源による地域振興が成されており、尻別川が当地域に与える影響は大きくなっている。Ⅲ 研究方法国土数値情報等の公共作成データ等をGISソフト用いた流域規模での空間把握による自然地誌作成を行った。また、尻別川水系の水質特性把握を行うために、2012年5、7、9月下旬にて、本流、2次流以上の支流下流、湧水及びそれに準ずる河川最上流部の50点程サンプリングを行い、現地観測(気温、水温、流量、EC、pH、RpH)を行った。サンプルを濾過後、研究室にてTOC、イオンクロマトグラフィーによる主要溶存成分分析を行い、GISソフトによる図化により流域特性の鮮明な把握を行った。Ⅳ 結果と考察流域にはイワヲヌプリ(1,116m)に起源するpH4.0前後の硫黄川・ニセコアンベツ川等の酸性河川や、pH8.0前後の真狩川などを含み、湧水供給の高い河川など多様な河川が存在する。流域の大半が森林となっており5月下旬の河口部のECは95μm/cmと人為的影響が少ないことを示している。しかし、酪農地帯や耕作地流辺の小規模河川においてはpH、ECが高く人為的な影響を受けている。Ⅴ おわりに 本研究により尻別川水系には多様な特性を持つ河川が存在することが判明した。今後も調査を継続し年変動を把握し、水系特性及び各河川の水質形成の解明を行いたい。
著者
荒木 一視
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.6, 2014 (Released:2014-10-01)

戦前の日本の米が国内で自給されていたわけではない。少なからぬ量の米が植民地であった台湾や朝鮮半島から供給され,国内の需要を賄ってきた。その一方で,少なからぬ穀物(米,小麦,粟など)がこれらの地域に輸移入されていた。本発表では朝鮮半島の主要港湾のデータに基づき,これらの主要食用の輸移出入の動向を把握する。これを通じて,戦前期の日本(内地)の食料(米)需要を支えた植民地からの移入米を巡る動向と,1939~1940年にそのような仕組みが破綻したことの背景を明らかにしたい。  第一次大戦と1918年の米騒動を期に,日本は東南アジアに対する米依存を減らし,それにかわって朝鮮半島と台湾に対する依存を高める。円ブロック内での安定的な米自給体系を確立しようとするもので,1920年代から30年代にかけて,朝鮮半島と台湾からの安定した米の供給が実現していた。しかし,1939年の朝鮮半島の干ばつを期にこの食料供給体系は破綻し,再び東南アジアへの依存を高め,戦争に突入していく。以下では朝鮮半島の干ばつまでの時期を取り上げ,朝鮮半島の主要港の食料貿易の状況を把握する。 この時期の貿易総額は1914(大正3)年の97.6百万円から1924(大正13)年には639百万円,1934(昭和9)年には985百万円,1939年(昭和14)年には2,395百万円と大きく拡大する。貿易額の最も多いのが釜山港で期間を通じて全体の15~20%を占める。これに次ぐのが仁川港で,新南浦や群山港,新義州港がそれに続く。また,清津,雄基,羅津の北鮮三港も一定の貿易額を持っている。  釜山:最大の貿易港であるが,1939年の動向の貿易総額734百万円のうち外国貿易額は35百万円,内国貿易が697百万円となり,内地との貿易が中心である。釜山港の移出額260万円のうち米及び籾が46百万円,水産物が14百万円を占め,食料貿易の多くの部分を占める。なお,1926年では輸移出額計124万円のうち玄米と精米で50百万円と,時代をさかのぼると米の比率は大きくなる。1939年の釜山港の移入額では,菓子(4百万円)や生果(8百万円)が大きく,米及び籾と裸麦がそれぞれ3百万円程度となる。1926年(輸移入額104百万円)においても輸移入される食料のうち最大のものは米(主に台湾米)で,5百万円程度にのぼる。これに次ぐのが小麦粉の2百万円,菓子の百万円などである。 仁川:釜山港同様に1939年の総額367百万円のうち外国貿易は67百万円と内地との貿易が主となる。1920年代から1930年代にかけて,米が移出の中心で,1925年の輸移出額64百万円のうち,玄米と精米で47百万円を占め,1933年では同様に43百万円中の28百万円,1939年では106百万円のうち32百万円を占める。なお仕向け先は東京,大阪,名古屋,神戸が中心である。輸移入食料では米及び籾,小麦粉が中心となる。 鎮南浦:平壌の外港となる同港も総額213百万円(1939)のうち,外国貿易は29百万円にとどまる。同年の移出額89百万円のうち玄米と精米で15百万円を占め,主に吉浦(呉)や東京,大阪に仕向けられる。移入では内地からの菓子や小麦,台湾からの切干藷が認められる。 新義州:総額135百万円のうち外国貿易が120百万円を占め,朝鮮半島では外国貿易に特化した港湾である。1926年の主要輸出品は久留米産の綿糸,新義州周辺でとれた木材,朝鮮半島各地からの魚類などで,1939年には金属等,薬剤等,木材が中心となる。いずれも対岸の安東や営口,撫順,大連などに仕向けられる。輸入品は粟が中心で,1926年の輸入総額52百万円中17百万円,1930年には35百万円中,15百万円,1939年には46百万円中12百万円を占める。移出は他と比べて大きくはないが,米及び籾を東京や大阪に仕向けている。 清津:日本海経由で満州と連結する北鮮三港のひとつで,1939年の総額158百万円中35百万円が外国貿易である。1932年の主要移出品は大豆で,移出額7百万円中3百万円を占める。ほかに魚肥や魚油がある。移入品では工業製品のほか小麦粉,米及び籾,輸入品では大豆と粟が中心である。
著者
長谷川 直子 横山 俊一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b><u>1. </u></b><b><u>はじめに</u></b> サイエンス・コミュニケーションとは一般的に、一般市民にわかりやすく科学の知識を伝えることとして認識されている。日本においては特に理科離れが叫ばれるようになって以降、理科教育の分野でサイエンス・コミュニケーターの重要性が叫ばれ,育成が活発化して来ている(例えばJSTによる科学コミュニケーションの推進など)。 ところで、最近日本史の必修化の検討の動きがあったり、社会の中で地理学の面白さや重要性が充分に認識されていないようにも思える。一方で一般市民に地理的な素養や視点が充分に備わっていないという問題が度々指摘される。それに対して、具体的な市民への啓蒙アプローチは充分に検討し尽くされているとは言いがたい。特に学校教育のみならず、社会人を含む一般人にも地理学者がアウトリーチ活動を積極的に行っていかないと、社会の地理に対する認識は変わっていかないと考える。 <b><u>2. </u></b><b><u>サブカルチャーの地理への地理学者のコミット</u></b> 一般社会の中でヒットしている地理的視点を含んだコンテンツは多くある。テレビ番組で言えばブラタモリ、秘密のケンミンSHOW、世界の果てまでイッテQ、路線バスの旅等の旅番組など、挙げればきりがない。また、書籍においても坂道をテーマにした本は1万部、青春出版社の「世界で一番○○な地図帳」シリーズは1シリーズで15万部や40万部売り上げている*1。これら以外にもご当地もののブームも地理に関係する。これらは少なくとも何らかの地理的エッセンスを含んでいるが、地理以外の人たちが仕掛けている。専門家から見ると物足りないと感じる部分があるかもしれないが、これだけ多くのものが世で展開されているということは,一般の人がそれらの中にある「地域に関する発見」に面白さを感じているという証といえる。 一方で地理に限ったことではないが、アカデミックな分野においては、活動が専門的な研究中心となり、アウトリーチも学会誌への公表や専門的な書籍の執筆等が多く、一般への直接的な活動が余り行われない。コンビニペーパーバックを出している出版社の編集者の話では、歴史では専門家がこの手の普及本を書くことはあるが地理では聞いたことがないそうである。そのような活動を地理でも積極的に行う余地がありそうだ。 以上のことから,サブカルチャーの中で、「地理」との認識なく「地理っぽいもの」を盛り上げている地理でない人たちと、地理をある程度わかっている地理学者とがうまくコラボして行くことで、ご当地グルメの迷走*2を改善したり、一般への地理の普及を効果的に行えるのではないかと考える。演者らはこのような活動を行う地理学者を、サイエンス・コミュニケーターをもじってジオグラフィー・コミュニケーターと呼ぶ。サブカルチャーの中で一般人にウケている地理ネタのデータ集積と、地理を学ぶ大学生のジオコミュ育成を併せてジオコミュセンターを設立してはどうだろうか。 <u>3.</u><u> 様々なレベルに応じたアウトリーチの形</u> ジオパークや博物館、カルチャースクールに来る人、勉強する気のある人たちにアウトリーチするだけではパイが限られる。勉強する気はなく、娯楽として前出のようなサブカルチャーと接している人たちに対し、これら娯楽の中で少しでも地理の素養を身につけてもらう点が裾野を広げるには重要かつ未開であり、検討の余地がある。 ブラタモリの演出家林さんによると、ブラタモリの番組構成の際には「歴史」や「地理」といった単語は出さない。勉強的にしない。下世話な話から入る。色々説明したくなっちゃうけどぐっとこらえて、「説明は3分以内で」というルールを決めてそれを守った。とのことである(Gexpo2014日本地図学会シンポ「都市冒険と地図的好奇心」での講演より抜粋)。専門家がコミットすると専門色が強くなりお勉強的になってしまい娯楽志向の一般人から避けられる。一般ウケする娯楽感性は学者には乏しいので学者外とのコラボが重要となる。 演者らは&ldquo;一般の人への地理的な素養の普及&rdquo;を研究グループの第一目的として活動を行っている。本話題のコンセプトに近いものとしてはご当地グルメを用いた地域理解促進を考えている。ご当地グルメのご当地度を星付けした娯楽本(おもしろおかしくちょっとだけ地理:地理度10%)、前出地図帳シリーズのように小学校の先生がネタ本として使えるようなご当地グルメ本(地理度30%)、自ら学ぶ気のある人向けには雑学的な文庫(地理度70%)を出す等、様々な読者層に対応した普及手段を検討中である。これを図に示すと右のようになる。
著者
豊田 哲也
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100051, 2011 (Released:2011-11-22)

地域格差を論じるにあたっては、地域間格差と地域内格差の概念を区別することが重要である。前者は平均的水準で比べた「富裕な地域」と「貧困な地域」の差という空間的な関係であり、後者は散布度で測った「富裕な層」と「貧困な層」の差という階層的な関係である。近年の社会疫学では、「豊かな地域ほど健康である」という絶対所得効果だけでなく、「経済格差が大きな地域ほど不健康である」という相対所得仮説が提起され、大きな論争を呼び起こしている。日本社会は経済格差が小さいと考えられてきたが、1990年代以降はジニ係数が継続して上昇傾向を示すことから、所得の地域間格差や地域内格差が健康水準に影響を与えている可能性がある。本研究では都道府県別に世帯所得の分布を推定し、平均寿命との相関を見ることで上記2つの仮説を検証することを目的とする。 使用するデータは「住宅・土地統計調査」の匿名データである。「世帯の年間収入階級」別の世帯数から、線形補完法により収入額のメディアン(中位値)、第1四分位値(下位値)、第3四分位値(上位値)を推定し、四分位分散係数を求める。今回の分析では以下の点で方法の改良と精緻化を図っている。(1)世帯所得には規模の経済が作用するため、平均世帯人員の平方根を用いて等価所得を求める。(2)高齢化にともなう年金生活世帯の増加など人口構成の変化要因を除くため、「世帯を主に支える者」の年齢階級で標準化をおこなう。(3)物価水準の地域差や時系列変化を考慮し、「地域物価差指数」と「消費者物価指数」をデフレーターとして所得を実質化する。こうして求めた1993年、1998年、2003年の所得分布と、「都道府県生命表」から得られる1995年、2000年、2005年の平均寿命について相関を調べる。 推定された所得と平均寿命の相関を見ると、女性では有意な相関を見出せないが、男性では地域の所得水準(中位値)が高いほど、また地域内の所得格差(四分位分散係数)が小さいほど平均寿命が長いという関係がある。また、2000年から2005年にかけて所得格差と男性寿命の相関が強まった。ただし、所得水準と所得格差の両変数間には強い逆相関が存在するが、偏相関係数により前者の影響を取り除いた場合でも、後者と平均寿命の間に有意な関係が認められた。この結果から、男性に限り日本においても前記2つの仮説は支持されると考えられる。
著者
鈴木 晃志郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

1990年代に飛躍的な進歩を遂げたICT(情報通信技術)は、誰もがウェブ上で情報交換できる時代をもたらした。いまや紙地図は急速にウェブや携帯端末上で閲覧できる電子地図へと主役の座を明け渡しつつある。二者の決定的な違いは、地理情報を介した情報伝達が双方向性をもつことである。Google Mapなどの電子地図とLINEやFacebookなどのコミュニケーションツールの連携で、利用者はタグや文章、写真を貼り付けてオリジナルの主題図を作成でき、不特定多数に公開できるようになった。また、OpenStreetmapなどに代表される参加型GISの領域では、官公庁や製図家に限られていた地理情報基盤整備の局面における、一般人の参画を可能にしつつある。<br> しかし、こうしためざましい技術革新に比して、利用者側に要求されるモラルや責任、リテラシーについての議論は大きく立ち後れている。阪神大震災の教訓を踏まえ、電子地理情報の基盤整備に尽力してきた地理学者たちは、2007年に制定された「地理空間情報活用推進基本法」に貢献を果たすなど、電子国土の実現に深くコミットしてきた。電子地理情報の利活用におけるユビキタス化は、その直接・間接的な帰結でもある。ゆえに、ユビキタス・マッピング社会の実現は、地理学者により厳しくその利活用をめぐるリスクや課題も含めて省察することを求めているといっても過言ではない。本発表はこうした現状認識の下、地理学者がこの問題に関わっていく必要性を大きく以下の3点から検討したい。<br><br>(1)地図の電子化とICTの革新がもたらした地理情報利用上の課題を、地理学者たちはどう議論し、そこからどのような論点が示されてきたのかを概観する。この問題を論じてきた地理学者は、そのほとんどが地図の電子化がもたらす問題を「プライバシーの漏洩」と「サーベイランス社会の強化」に見ており、監視・漏洩する主体を、地理情報へのアクセス権をコントロールすることのできる政府や企業などの一握りの権力者に想定している。本発表ではまず、その概念整理を行う。<br><br>(2)地理学における既往の研究では、地理情報へのアクセスや掲載/不掲載の選択権を、一握りの権力(企業や行政、専門家)が独占的にコントロールできることを主に問題としてきた。しかし、逆にいえば、権力構造が集約的であるがゆえに、それら主体の発信した情報に対する社会的・道義的責任の所在も比較的はっきりしており、そのことが管理主体のリテラシーを高める動機ともなり得た。これに対し、ユビキタス・マッピング社会の到来は (A)個人情報保護に関する利用者の知識や関心が一様ではない、(B)匿名かつ不特定多数の、(C)ごく普通の一般人が情報を公開する権力を持つことを意味する。それでいて、情報開示に至るプロセスには、情報提供を求めてプラットフォームを提供する人間と、求めに応じて情報提供する人間が介在し、一個人による誹謗中傷とも趣を異にした水平的な組織性も併せ持っている。ユビキタス・マッピング社会は、そんな彼らによって生み出される時にデマや風聞、悪意を含んだ情報を、インターネットを介してカジュアルに、広く拡散する権力をも「いつでも・どこでも・だれでも」持てるものへと変えてはいないだろうか。本発表では、ある不動産業者が同業他社あるいは個人の事故物件情報を開示しているサイトと、八王子に住む中学生によってアップロードされた動画に反感を抱いた視聴者たちが、アップロード主の個人情報を暴くべく開設した情報共有サイトの例を紹介して、さらに踏み込んだ検討の必要性を示す。<br><br>(3)地理情報をめぐるモラルや責任の問題は、端的には情報倫理の問題である。本発表で示した問題意識のうち、特にプライバシーをめぐる問題は、コンピュータの性能が飛躍的に向上した1980年代以降に出現した情報倫理(Information ethics)の領域で多く議論されてきた。本発表では、これら情報倫理の知見からいくつかを参照しながら(2)で示された論点を整理し、特に地理教育的な側面から、学際的な連携と地理学からの貢献可能性を探ることを試みる。<br>
著者
柴田 陽一
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.146, 2013 (Released:2013-09-04)

【はじめに】公共サービスの地理学は,公共サービスの地域差や公共施設の立地問題などを研究テーマとしている。こうしたテーマを追求する上で,小中学校は一つの研究対象となりうる。その理由は,小中学校は義務教育であるがゆえに,どこに居住する児童・生徒にとっても通いやすい地点に立地するのが望ましいにもかかわらず,実際は必ずしもそうなっていないからである。そこで,小中学校の最適立地地点はどこか,いかに通学区域を設定すべきかといった問題に関して,これまで多くの研究が行われてきた。なかでも児童・生徒の総通学距離の最小化が,これらの研究の焦点であった。/日本の法律をみると,「義務教育諸学校等の施設費の国庫負担等に関する法律施行令」(2007年改正)には,「通学距離が,小学校にあってはおおむね4km以内,中学校にあってはおおむね6km以内であること」とある。また,小中学校施設整備指針(2010年改正)には,児童・生徒が「疲労を感じない程度の通学距離を確保できることが望ましい」とある。しかし,都市部はさておき,児童・生徒数減少のため学校の統廃合が進んだ山間部では,上記の距離以上を通学する児童・生徒も少なくない。/では,1986年の義務教育法施行以降,義務教育(小学校6年と初級中学3年)の普及を急速に進めてきた中国(小学校就学率1965年=84.7,1980年=93.0,1990年=97.8,2000年=99.1,2010年=99.7%)において,小中学校の立地はいかに変化したのか,その立地は適正な通学距離を確保しるものなのか。本報告では,昨夏にフィールド調査を行った吉林省長春市近郊農村の事例を中心に,これらの問題を検討することを通じて,中国農村地域の特徴の一端を考察してみたい。【東湖鎮黒林子村におけるフィールド調査】フィールド調査は,2012年8月16-18, 21, 25日に,小島泰雄氏,中科院東北地理所の張柏氏・劉偉傑氏と共に実施した。黒林子村は,長春市の東に位置する九台市東湖鎮(長春市街地から約20km,戸籍人口3.2万人)の1行政村である(鎮全体の行政村は12)。村中心部は長春市街地から約10kmに過ぎず,近年,近郊農村化しつつある(野菜生産の開始,幹線道路沿いへの企業の立地)。村は8つの村民小組(隊,社とも)から構成され,2012年時点の人口は423戸・1,452人である(1990年=372戸・1378人,2000年=391戸・1418人)。/村委員会での聞き取りによると,現在の黒林子小学は全学で6班約40人であり,教職員と生徒の数はそれほど変わらない。1960年代に開校(市志→1964年)する前は,北東約2kmに位置する双頂子小学へ通学していた。中学校は村になく,現在も昔も10km強離れた鎮中心部の中学校(現在の東湖鎮中心学校,市志→1957年開校)へ通学しているという。また,農民(1932~1951年生まれの6人)への聞き取りからは,1940~60年代初頭は,村に小学校がなく別村に通学していたが,通学先は同じではない(双頂子,大頂山,大何屯など)といった情報が得られた。通学先に違いが生じた理由は,就学時期・個人的事情を除けば,各農民の居住する小組の村内における位置にあると考えられる。【長春市周辺における小中学校の立地変化】市志に基づき,長春市周辺における小学校の立地地点を調べると,(日本の基準であるが)学校から4km以上離れた地域は,周辺の農村地域でも多くないことが判る。中学校の立地地点をみても,ほとんどの地域は6km圏内に含まれている。ただ,市志のデータは1988年のものであることに注意が必要である。/というのも,1980年代半ば以降,政府は農村の小中学校の分布調整に着手し,多くの学校を統廃合する政策を実施してきた。2000年代に入ると,政策は「撤点併校」と呼ばれ,統廃合がさらに進められた。その結果,2000年から2010年の間に全国の農村小学校数は約半分に減少し,ある調査によると,平均通学距離は小学校で5.4km,中学校で18kmにもなり,多くの中途退学者を生み出す原因になっているという。そのため,現在の長春市周辺の小中学校の立地地点も,1980年代末とは異なる。【おわりに】中国政府は義務教育の完全普及を目指し,義務教育法を2006年に改正した。その中では,義務教育無償の原則や農村と都市の教育格差是正の方針が明確に打ち出されている。しかし,農村地域を小中学校の立地変化からみると,むしろ農村と都市の格差は広がっている。今後は,特定地域の小中学校の統廃合過程をより具体的に明らかにしたい。
著者
三浦 尚子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

<b>1.問題の所在</b><br>&nbsp; 現在の社会政策は,社会経済構造の変容に伴って生じた諸問題の解決を「社会的包摂social inclusion」に希求している。政策立案にかかわる宮本(2013)によれば,社会的包摂とは,排除された人々の単なる保護ではなく,その社会参加と経済的自立の実現を重視する概念である。ただし宮本の推奨する社会的包摂は,市場労働を意味する雇用を中心に,家族,教育等を周辺に位置づけており,雇用中心の政策基調であることに変わりはない。<br>&nbsp; しかしアーレント(2015)の『活動的生』に依拠すれば,労働は人間の根本活動の一つであり,ほかの根本活動である制作や行為(活動)に対して優位な概念ではない。むしろ,人間の複数性を前提とし言論と不可分である行為(活動)にこそ,最も価値の高い活動力とする。<br> そこで本発表では,「地域」で生活する精神障害者の日常的な諸活動を通して展開される社会的包摂の過程を,当事者の「ケア空間」(三浦2016)の活用に注目して検討する。研究対象は,東京都R自治体の精神障害者通過型グループホームを利用し,「ケア空間」の形成に一役を担った元入居者17名とする。障害の程度は,障害支援区分認定調査で区分2から区分3と判定された者が多い。確定診断は統合失調症が最も多く,次に(大)うつ病,アスペルガー障害,認知症,境界例パーソナリティ障害,薬物依存,てんかん等が挙げられる。東京都R自治体は,精神保健福祉の先進事例地域である。調査方法は,非構造化インタビュー調査と参与観察を併用し,期間は2015年12月から断続的に実施した。<br><b>2. 被調査者の日常的な諸活動を通じた「ケア空間」の形成</b>&nbsp;&nbsp;<br> 調査の結果,被調査者の日中の活動先としては作業所が目立ち,「地域生活」が「病院の外の場全般ではなく,作業所だとかそんな場」(立岩2013)であることが示された。被調査者の語りによれば,「なんちゃってB」(三浦2013)を自称し,居場所的な役割を果たしてきた作業所では,職員の人事異動に伴い「ケア空間」の揺らぎが見られた。長期の通所者は就労と結婚を機にほぼ通所しない選択をしたが,まだ体力や精神力の面で不安を抱え他の作業所に活動の場を移せない者は,むしろ作業所内で「ケア空間」の復活を試み,他機関への相談等,孤軍奮闘している様子が見受けられた。また,別の作業所にて職員とのトラブルにより退所を余儀なくされた被調査者は,日中の活動先を失い「朝も昼もプラプラする」ことへの悲嘆と憤怒の表情を見せたが,衝動性を自制しその場にいた者との「ケア空間」が壊れないよう配慮していた。<br> 作業所以外にも,自宅近隣の店舗で店員に友人となるよう依頼する者や,アルバイト就労先で統合失調症と伝え,疾病や障害への理解を上司や同僚に求めながら勤務する者がいた。また一人で自宅にいるとうつ状態に陥る者は,通過型グループホームに日参して現入居者に食事を作る等自らケアする立場に立つことで,耐え凌いでいた。<br>&nbsp; 公的なサービス事業の利用のほか,ボランティア活動と専門学校通学で週7日すべてに日中の活動先があった事例は,自傷行為抑制のため被調査者自らが計画した生活スタイルであり,ケアする/される立場のバランスを取りながら,「地域で暮らす楽しみ」を見出していた。 &nbsp;被調査者は,個々別々の方法ではあるが,精神的な安定と居心地の良い場所の獲得に向け,当事者活動の一環として「ケア空間」の形成が試されている点が明らかとなった。<br><b>3. 雇用から活動中心の社会的包摂の実現に向けて<br></b>&nbsp; 本調査で得られた知見は,以下の通りである。(1)被調査者は,精神的に安定している場合はその維持のためにかなり活動的であったが,活動内容は労働に限定されず多種多様であった。(2)被調査者の活動には居場所の獲得が含意されており,通過型グループホームの経験を生かして専門の施設以外でも「ケア空間」の形成が試されていた。(3)活動先の「ケア空間」が脆弱化したとしても,東京都R自治体のメンタルヘルスケアのネットワークが機能して,(1),(2)の実現を後援していた。 <b><br>文献<br></b> アーレント,H.著,森 一郎訳2015.『活動的生』みすず書房. <br> 立岩真也2013.『造反有理-精神医療現代史へ』青土社. <br> 三浦尚子2013.障害者自立支援法への抵抗戦略-東京都U区の精神障害者旧共同作業所を事例として.地理学評論86:65-77. <br> 三浦尚子2016.精神障害者の地域ケアにおける通過型グループホームの役割-「ケア空間」の形成に注目して.人文地理68:1-21. <br> 宮本太郎2013.『社会的包摂の政治学-自立と承認をめぐる政治対抗』ミネルヴァ書房.
著者
龍崎 孝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

2011年3月11日に発生した東日本大震災によって宮城県は142漁港全てが被災するなど多大な被害を受けた. 宮城県は水産業復興に向け、集約・効率化を図る施策を選択し、機能集約が図られる漁港は60港に絞られた. さらに県は水産業復興特区構想を打ち出し、2011年12月に国の特区法施行を経た上で2013年8月に石巻市桃浦が復興特区に認定された. 特区はこれまで漁協が優先順位一位で付与されてきた特定区画漁業権を、民間が資本参加した経営体を漁協と同列の一位で審査し、漁業権を付与する政策で、付与された経営体は漁協に参加せずに漁業を営むことができる. 水産業の復興にあえて「格差」を持ち込んだのである. 宮城県水産業復興特区には漁業文化、漁業経済の視点から賛否両論があるが、政策導入により漁業集落コミュニティがどのような影響を受け、変化し、その再生と持続につながりうるのかを本考察は明らかにしようとするものである. 漁獲量が戦後のピークの三分の一まで落ち込んでいるなど水産業を取り巻く状況は厳しい. 原因のひとつは漁協の漁獲量管理がずさんなためと指摘されている. 水産業復興特区は漁業権を保有し組合員たる漁民の「管理主体」としての役割を漁協から奪い、漁業権を一経営体に付与する政策で、県漁協の理解を得ないまま2013年4月に石巻市桃浦の特区が認定された. 石巻市桃浦は津波でカキ養殖施設が壊滅的な状況にあり、集落存続の危機にあった. 桃浦の漁民の大半が2011年秋に特区構想に応じることを決め、仙台市の水産会社と共同出資の「桃浦かき生産者合同会社」(以下桃浦LLC)が桃浦の養殖漁業者15人により発足した. 桃浦LLCは被災前の年間売上1億9400万円を2016年度には3億円に伸ばすことを目標にし①沿岸養殖漁業における六次産業化②持続的な地域産業形成によるコミュニティの再構築―を目指している. 宮城県は2012年2月に発表した「富県宮城の復興計画」の中で特区構想の特徴として(1)漁業権の行使料などの経費が不要(2)新たな販売経路が構築しやすい―などと説明している. これは漁協が独占している共販制度から離脱して加工販売の自由を確保し、六次産業化を容易に進めることを狙いとしており、これは漁民が漁協の管理下を離れることを意味する. 村井嘉浩県知事は震災直後の2011年5月10日に首相官邸で開かれた東日本大震災復興構想会議で水産業復興特区を提案した. 宮城県漁協は反対を表明したが、知事は5月29日の同会議で漁協を中心とする現在の水産業の在り方を批判的に説明し、同時に特区構想の必要性を主張、6月11日には原案となる復興特区法の全容を会議で提示し、6月25日に発表された「復興提言」の中に盛り込まれた. その間に宮城県漁協は反対署名などを提出したが、県は一切顧みることはなかった. 知事の動きなどから特区構想導入は、震災からの復興に寄与することは副次的な目的で主眼は漁協排除のきっかけを作ることではなかったか、と考察する. 水産業復興特区は、漁業コミュニティにどのような変化をもたらすのか. 視点の一つとして新自由主義的な政策を展開した英国・サッチャー政権下で行われた炭鉱闘争とその帰結を考察する. 英国の炭鉱産業は、労働者の流動性が少なく、地域のコミュニティと密接不可分にあった. その特性は日本の漁業集落と似ている. 1984年の英国炭鉱ストは、生産性の高いデューカリズ地区の炭鉱群がストに参加しなかったことなどから次第にスト離れが続いて崩壊し、その帰結として炭鉱は民営化された. 漁業権を得て漁協から離脱した桃浦の存在は、宮城県水産業における「デューカリズ」となる可能性を持つ. 県漁協は特区構想の導入によって、漁業紛争の解決にあたる調整者としての機能が失われる. 当事者能力が奪われる中で、漁業集落というコミュニティを束ねてきた漁協の地位は揺らぎ、漁協コミュニティの「分断」と「融解」が始まると考えられる. 一方桃浦では二つの事象が起きている. 一つは仮設住宅などで避難生活を送ってきた住民たちが桃浦に隣接する高台に移住する計画が進みつつあること、また桃浦LLCに参加せずに、従来通りの漁協組合員として桃浦でかきの養殖に取り組む漁民1名が存在することだ. 漁業集落コミュニティでは「生活の場」と「生業(なりわい)の場」が一体であることが常態であったが、桃浦では高台における「集落コミュニティ」と浜における「漁労コミュニティ」のふたつに「分離」することになり、その「融合」を今後どう図るかという視点が求められる.
著者
熊原 康博
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.334, 2013 (Released:2013-09-04)

1.はじめに 発表者は,太平洋戦争直後に撮影された縮尺2万分の1米軍空中写真の地形判読により,群馬県南東部の太田市東部から桐生市西部にかけてのびる活断層(太田断層)を発見した.本発表では,地表踏査および,群列ボーリング調査,トレンチ掘削調査の結果を報告する.また,本断層の最新活動時期や地盤災害の痕跡の時期や分布から,本断層が818年(弘仁九年)の起震断層である可能性についても議論する.本研究は文部科学省による「地震及び火山噴火予知のための観測研究計画」の支援を受けた.2.断層変位地形 本断層は、渡良瀬川の西側に沿って認められる南-北走向~北西-南東走向の少なくとも長さ18kmの活断層である. 断層の南部では,断層崖を境に利根川起源の中位面(館林面),扇状地面,旧利根川の河道が,東側低下の変形を受けており,その変位量は古い地形面ほど大きいことから累積的な変形が示唆される.断層崖の幅が100mに達する撓曲変形をなすことや,断層上盤側で盛り上がる地形が認められることから,西傾斜の断層面をもつ低角な逆断層と想定される.利根川左岸までは館林面の変形を指標として,本断層を認めることができるが,右岸は利根川の浸食/堆積が著しく,本断層の南延長については不明である. 断層の北部は,渡良瀬川の向きと断層の走向がほぼ平行になるため,河食崖と断層崖との区別が困難であった.八王子丘陵の東縁沿いでは,丘陵を開析する谷の谷口に小規模な扇状地が形成されている.これらの扇状地は南東側低下の撓曲変形を受けていることが,写真判読からは認定される.ただし現在では土地改変が進んでいることから詳細は不明である. 3.群列ボーリング調査 太田市龍舞において,断層に直交する測線で5本の群列ボーリング調査を行った.その結果,下部の礫層上面を指標とすると約4.3m,浅間板鼻黄色軽石(YP:13~14ka降下)を含む砂層上面を指標とすると2m程度の東側低下の高低差が断層崖直下で認められた.これは,礫層堆積以降少なくとも2回の断層変位が認められること,YP以降に最新活動があったことを示す.4.トレンチ掘削調査 ボーリング調査と同地点で,断層崖を横切るトレンチ掘削調査を2回実施した.トレンチ壁面からは,傾斜する2つの地層とそれらをアバットする水平な地層が認められた.傾斜する下位の地層(A層)は,上部にYPを含むラミナをもつ砂層であった.YPを鍵層として地層の傾斜の変化をみると,トレンチ西側で水平であったYPが東(崖基部)に向かって徐々に傾斜が急になる.また,A層の上位にはYPの傾斜と同じ程度の傾斜である腐植質粘土層(B層)も認められ,14C年代値の内最も若い年代はAD540-650である.一方,B層を覆う水平な地層(C層)も認められ,浅間Bテフラ(As-B: AD1108降下)を含み, 14C年代値の内最も古い年代はAD770-980年であった. 一般的に腐植質粘土層は水平堆積することから,B層が断層変位を受けた地層、C層を変位後の地層とみなした.最新活動の時期は,両者の14C年代値からAD540-980といえる.最新活動の垂直変位量は少なくとも1.2m以上であるが,B層の上部が欠落しているため,正確な量は不明である. 5.古地震の記録,周辺の地盤災害の痕跡との関係 トレンチ掘削調査で得られた断層活動の年代からは,本断層が、『類聚国史』の記事に記された,関東地方における818年の大地震の起震断層の候補となりうる.また,群馬県南東部や埼玉県北部では,噴砂・地割れ跡など強い地震動が生じたことを示す地盤災害の痕跡が多くの考古遺跡から報告されてきた.この地域は,榛名二ッ岳渋川テフラ(Hr-FA)とAs-Bの降下範囲であるため,噴砂・地割れの発生年代を両テフラ降下間(6世紀初頃~1108年)に限定され,早くから818年の地震との対応が指摘されていた.これらの古代の地盤災害は,本断層から20km以内に分布し,本断層の活動に伴って発生した可能性を示唆する.6. 太田断層で発生する地震の予測 太田断層の全長(長さ18km)から,断層全体が一度に活動した場合,M6.9程度の地震が発生することが予測される.ただし,利根川右岸の埼玉県北部でも,古代の噴砂・地割れ跡が多数認められることを考えると,さらに断層が南へ延びる可能性は高い.そのため,地震の規模もさらに大きくなると予想される. 本断層の活動履歴について検討する.YP以降に断層活動があったことは確実である.最新活動の垂直変位量が1.2m以上である一方,YPを指標した場合,その量は約2mである.したがってYP以降の断層活動が1回か2回かは厳密には明らかにできない.ただし,中位面のその量は3~4mと小さいことから,活動間隔は長いものと考えられ,YP以降に1回の可能性が高い.