著者
佐藤 勝明
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学
巻号頁・発行日
vol.61, no.10, pp.47-56, 2012

<p>芭蕉が「幻住庵記」を書いていた元禄三年、門人らに宛てた書簡には「誹文」「俳文集」といった文言が何度か使われている。去来・凡兆を指導しながら『猿蓑』の編集にいそしんでいた当時、芭蕉は発句・連句のほかに俳文でも一格を立てようとし、『猿蓑』には文章編をも企図していたことが知られている。しかし、その俳文がどのようなものをさすかについて、まとまった発言はないため、なかなか核心に迫れない憾みがある。しかも、『去来抄』に録された言辞によれば、「西鶴」を「俳諧の文章」と認めていたことも知られるため、問題はいっそうぼやけてくる。そうした現状を踏まえ、本稿では、芭蕉が「誹文」として書いたことが確実な「幻住庵記」を取り上げ、その推敲過程を通じて、その趣意が変化していったことを確認する。次に、凡兆の原案に基づき、芭蕉が俳文とすべく改稿したと見られる「烏之賦」、芭蕉が俳文と認めていたらしい嵐蘭の「焼蚊辞」を取り上げ、ここに俳文の基本的な性格のあることも確認する。これらを合わせることから見えてくるのは、人間の内面をとらえようとして、芭蕉が苦心惨憺していた姿であり、また、割り切れない問題の前で迷う姿そのものを、文芸的な趣意として発見していく様相である。そして、これが『おくのほそ道』の執筆につながっていくこと、同書は紀行文であると同時に俳文の集でもあって、やはり曖昧性を趣意としている条が見られること、その際に西鶴の書く草子が一つの先達でもあったであろうこと、などを論じていく。さらに、仮名草子と俳文の関係をどう見るかという問題にも言及し、近世前期の俳文を考えるには、芭蕉の考えに沿いながら慎重に見極めていくしかない、ということを結語とする。</p>

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