- 著者
-
八木 久仁子
- 出版者
- 一般社団法人 日本体育学会
- 雑誌
- 日本体育学会大会予稿集
- 巻号頁・発行日
- vol.68, pp.71_1, 2017
<p> 昭和20年代、敗戦の虚無感と貧困にあえぐ人々は出来合いの刺激的な娯楽を求め、スポーツの興奮に希望を見出した。なかでもGHQがすすめる民主化政策により後押しされた野球は日本人の心をとらえ、この混迷のなか誕生した「女子プロ野球」にアプレゲール女性たちは新しい生き方の選択肢としての期待を寄せていた。</p><p> 昭和22年、女性ダンサーの野球チームが誕生すると「女の野球」の物珍しさに多くの男性ファンが集まり、昭和25年には、興行師が手掛けた4チームによる「女子プロ野球」リーグ戦が始まった。容姿端麗な女性がショー的演出や営業活動を行う「健康で明るい娯楽」は女性への蔑視を含みつつ歓迎され、次々と新球団が作られたが、その経営基盤はぜい弱で、まもなく資金難に陥り数か月で解散に追い込まれる球団が相次いだ。</p><p> 昭和27年以降、「ノンプロ=社会人野球」に転換した女子野球は企業の「動くPR部隊」として生き残ることを目指したが、野球の実力そのものが未熟で、広告塔としての役割もテレビCMにシフトしたため、衰退の一途をたどった。この「昭和の女子プロ野球」興亡の要因を、時代的な背景と昭和女性の生き方から考察する。</p>