- 著者
-
河野 敬一
- 出版者
- 公益社団法人 日本地理学会
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集
- 巻号頁・発行日
- vol.2008, pp.256, 2008
<BR>1.はじめに<BR> 本報告では、近代日本の地域の再編成の過程において、地方の対応やその果たした役割がどのようなものであったのか、具体的な個人や一族の動きを分析することによって予察していきたい。<BR> 地方有力者は、明治期以降の議会制や地方制度が確立していく中で、市町村長や、地方政治・国政へ参画をする例が多いが、その関わり方については、従来、個人の経歴・事蹟から、その政治活動等を通じて果たした役割について間接的に把握されるにとどまり、個人やその同族集団が、具体的にどのような認識をもって政治に参画し、その結果として家業や地域社会に何をもたらしたかといった具体的な検討は、資料の制約などもあってあまりなされてこなかった。本報告では、まず明治期以降比較的多く作成された「同族会記録」、家や同族の「家憲・家訓」などを分析することによって、地方有力者およびその一族の認識の実態を明らかにしていきたい。<BR><BR>2.地方同族集団の政治へのスタンス<BR> 長野県小諸の小山家は、江戸時代から味噌醤油の醸造業を経営し、幕末から明治初期にかけて小諸荒町町内に親族分家による商店を輩出しながら事業を拡大した。一方で明治20年代に、当主・小山久左衛門正友は、渋澤栄一らとの知己も得て製糸業に乗り出し「純水館」を設立したり、小諸義塾の創立に際して資金的援助をするなど新しい産業への進出や地域の教育といった社会活動にも理解を示した。小諸は関東平野と北陸方面を結ぶ交通の要地であると共に佐久平の玄関口という地理的優位性もあって、小諸商人は信州の中でもとりわけ「進取の気質に富む」とみられていたが、実体としてはどうだったのであろうか。<BR> 正友の長男・邦太郎は、純水館長を継ぎ製糸業と家業の醸造業を兼営したが、その後、県会議員、衆議院・参議院と国政に参画し、国政の場で「蚕糸業国策論」を唱え、蚕糸業の発展に力を尽くした。政界進出の経過を小山家に残る「小山同姓会記録」や「小山一族会日誌」によって詳細にみてみると、政治への参画に至るまでの以下のようなプロセスが明らかになる。<BR> 邦太郎は、地域社会のなかでの人望が篤く、地域代表・業界代表として政治への関わりを周囲から強く求められた。一方、小山同族団としては、当主が政治活動への傾注することによって家業の発展の妨げになることをおそれて、大正期から昭和戦前期に起こった政界への邦太郎擁立への動きに一族会において再三の反対決議を行った。<BR> もう一つの例として、山形県酒田の本間家を挙げたい。本間家は、明治期以降、江戸時代以来の蓄財をもとに信成合資会社を設立し不動産管理と貸金業で資産を拡大させた。しかし、新規事業への進出には消極的で、大正期には所有地1,800町歩を超え、当時の『資産家一覧』においても、地方資産家として五指に入る1千万円を超える資産額を誇ったものの、いわゆる「地方財閥」にはならなかった。これは、本間家の株式投資を禁止した「家憲」の存在に依るものと思われる。また、明治24年の「(本間)光美日記」によれば、7代当主・本間光輝に対する酒田町長への強い推薦に対して、家業への影響をおそれて一族が反対した記録があるなど、小山家と同様の姿勢を示している。<BR> この2つの例は、地方有力者の政治参画への消極性や、土地への執着を示している。同族や地域社会との緊密なつながりを持っていることは、とくに地方における事業の存立の重要な要件になりうる。反面、共同体的な心情と人間関係に基づいて地域社会から求められる政治活動や社会活動への参画が、規模の限られた同族経営では、政治的活動に関わる人材にも時間にも限界があるため、むしろ事業の拡大・発展への力の集中を阻害する要因となる。また、土地所有を媒介とした地縁が、他事業への投資を阻害する心理的要因になったことも考えられる。<BR> こうした「保守性」から脱皮しようとする動きのひとつが中央への進出であり、事実、財閥形成をなしたグループの多くが中央を志向した。一方、地方に根ざし事業を保持しようとした有力者たちは、特定の業界や地域を反映した限定的な政治へのかかわりを通じて、地方の地域形成に一定の役割を果たしていった。彼らの政治的な関わりが、どのようなプロセスによって地域形成に反映されていったか、より具体的に検討をしていきたい。