著者
本多 健一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.93, 2009

京都上京の西陣は、旧平安京の北郊にあたり、中世以前のこれらの地域には、条坊制の道路区画に準じた格子状道路網があったと考えられている。一方、近世以降では、特に西陣の西部(大宮通以西)で南北の道路が条坊路(の延長)と大きく乖離し、現在の道路網は、一見、条坊制と無関係の様相を呈している。そこで本研究では、これまで明らかにされてこなかった、中近世移行期における道路網の変容過程を、古文書や古絵図などから解明する。<BR>文明9(1477)年の「主殿寮北畠図」(『壬生家文書』)などによれば、この地には櫛笥・壬生・坊城・朱雀といった条坊路と同じ名称を持つ南北路が、平安京大内裏域から延伸し、東西路と直交して格子状道路網が形成されていた。<BR>しかし、それらの名残と考えられる現在の智恵光院通・浄福寺通は、南にいくほど西に偏ってゆき、特に元誓願寺通以南では、対応するはずの櫛笥小路・壬生大路(の延長)と大きく乖離している。対してそれ以北では乖離が小さくなり、両者はほぼ重なり合う。それゆえ元誓願寺通以北の智恵光院通・浄福寺通は、櫛笥・壬生(の延長)と比定され、中世以前の旧状を保持していると考えられる。<BR>元誓願寺通の南側で智恵光院通・浄福寺通の偏りが著しくなる理由は、天正14(1586)年から文禄4(1595)年まで、その地以南に聚楽第が存在したからではないか。<BR>聚楽第の復原はきわめて難しいが、その外郭の北辺は、「北之御門町」の町名や等高線の乱れなどから、元誓願寺通付近と考えられている。それゆえ元誓願寺通以南の道路網、特に内郭と重なる道は、聚楽第の造営によって破壊されたと思われる。<BR>元和5年~寛永3年(1619~1626)頃の 『京都図屏風』には、聚楽第破却後、その跡地がどのように開発されていったのかが、次のように示されている。<BR>当時の大宮通以西、一条通以南、下長者町通以北には聚楽第跡が残存していたが、その周囲では市街地開発が進行していた。聚楽第跡の北側からは、従来の智恵光院通・浄福寺通が南伸する一方で、南側からも、既存道路とは関係なく南北路が造られ始めている。後になってこれら別々の道が延伸して結合したがゆえに、現在の智恵光院通・浄福寺通における偏りが生じたのであろう。

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こんな論文どうですか? 中近世移行期における京都西陣道路網の変遷(本多 健一),2009 https://t.co/XiVCfwB6p1 京都上京の西陣は、旧平安京の北郊にあたり、中世以…
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