著者
吉田 紅
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.74, no.10, pp.691-699, 2019

<p>ブラックホールがこれほどまでに人々を魅了するのは,「一度入ってしまうと,二度と出てくることはできない」という神秘性からであろう.しかし,この不可逆性は物理学的な立場から見ると,非常に奇妙な代物である.我々がこれまで観測してきた全ての現象は量子力学を用いて説明することができるが,量子力学は可逆の理論である.現在の状態を知ることで過去の状態を完璧に遡ることが原理的には可能なのである.この量子力学と重力理論,特にブラックホールの物理との不整合は,ブラックホール情報損失問題と呼ばれている.</p><p>長らくこの問いに対する我々の答えは,系を記述する運動方程式があまりに複雑すぎて過去まで遡ることができないだけだというものだった.たとえ最初は局所的だった量子情報も,ブラックホールに落ちていく過程で複雑な相互作用を経て,ブラックホールの外にいる観測者の立場からは,まるで非局所的なものに変換されたように見える.それは到底観測できないような物で,損失したも同然だ.この現象はスクランブリング(量子情報の非局所化)と呼ばれており,まさに量子版のバタフライ効果である.このような背景から,ブラックホールの量子カオス的な時間発展は,量子情報の非局所化が最も強く純粋な形で見られる系ではないかと思われてきた.</p><p>しかし約十年ほど前に,ブラックホール情報損失と量子カオスに関する衝撃的な結果が2人の量子情報理論研究者ヘイデン(Hayden)とプレスキル(Preskill)によって発表された.彼らは通常考えられてきた物とは異なる,「古いブラックホール」と呼ばれるエントロピーの半分以上をすでにホーキング輻射で失ったブラックホールを考察した.そして,運動方程式をランダムなユニタリー発展と仮定する簡単なおもちゃの物理モデルを使うことで,ブラックホールに落ちてしまった情報を非常に短い時間スケールで取り出すことが「原理的には可能」であることを発見したのである.</p><p>ブラックホールがまるで鏡のように情報を即座に跳ね返すというこのヘイデンとプレスキルの結論は,スクランブリング現象及び情報損失問題の研究に革命的な発展をもたらしつつある.これまでとは全く異なる新しい物理量が量子カオスの秩序パラメータとして考案され,新たな重力ホログラフィーの模型が提案された.その影響は重力,量子情報,そして物性物理にまで及び,最近ではこれらの概念は実験家の興味の対象にさえなっている.しかし,これらの結果が真に驚くべきものである点は,「情報の取り出し可能性」がまさに「ブラックホールの量子カオス性」からの帰結であることである.もし,ブラックホールが量子情報を非局所化しない非カオス系であったならば,ヘイデンとプレスキルの言ったような情報の取り出しは不可能なのだ.</p><p>量子情報理論的概念の応用から得られたこれらの一連の結果は,情報喪失問題に対する新しいアプローチを生み出すこととなった.「ブラックホールからは二度と出てくることはできない」というのは迷信だったのであろうか? ブラックホールの事象の地平線は本当に絶対的な存在なのだろうか? これらの問いを,量子情報の非局所化という視点から今一度見つめ直してみよう.</p>

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