- 著者
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島村 宣男
- 出版者
- 関東学院大学[文学部]人文学会
- 雑誌
- 関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
- 巻号頁・発行日
- no.113, pp.21-51, 2008
アメリカ映画のジャンルの一つに「西部劇」(westerns)がある。アメリカは19世紀末の西部辺境(frontiers)を舞台に展開する人間ドラマは、さしずめこの国の時代劇は江戸期の「股旅もの」に匹敵するだろう。東に一宿一飯の旅鴉がいれば、西には流れ者のガンマン(gunslingers)がいて、編み笠にはカーボーイ・ハット、腰に差した長刀差には腰に吊るした拳銃、寒風吹きすさぶ河原での出入りには砂塵舞う大平原でのガンファイトといった好対照、物語りのプロットは共通して「勧善懲悪」、端から一般大衆の嗜好に見事に適っている。この国の時代劇についても然り、半世紀前にはかの国の西部劇にも John Wayne, Gary Cooper, Burt Lancaster, Kirk Douglas といった大スターがスクリーン狭しと暴れまくり、映画ファンの血をたぎらせたものである。ところがどうだろう、昨今ではその隆盛の面影すらない。本稿は、2007年度に全米で公開されて高い評価を得た西部劇(日本未公開)で、James Mangold 監督作品の 3: 10 to Yuma のなかで描かれた主要なキャラクターの人間性の在り処を検証する試論である。この作品で興味深いのは、主人公の一人を聖書の読者に仕立て、旧約は「箴言」(Proverbs)の聖句を再三引かせていることである。西部劇における聖書の引用は特に珍しいわけではなく、これまでにも、Pale Rider(1985年度作品、監督・主演 Clint Eastwood)や Tombstone(1998年度作品、監督 George P. Cosmatos、主演 Kurt Russell, Val Kilmer)では、ともに新約は「ヨハネの黙示録」(The Revelation)を典拠とする引喩・引用がある。もとより本稿は、映画評論の域を超えるものとして、ことばを中核に据えて見えてくるはずの、アメリカ文化論の構築を企図する筆者の一連の作業に属する。