著者
イノウエ チャールズ シロー
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.34, pp.13-49, 2007-03-31

近代意識は、figuralityの制御によって発展してきた。Figuralityというのは、書記素の表現力である。そして、書記素は、記号の持つ目に見える物質的記号の要素だ。したがって、近代意識は物質的な目に見えるものの表現力を抑えること、つまり、目に見えない非物質的な音素の表現力を生かすことによって展開してきた。本稿は、およそ一七世紀の初めから一九七〇年までの間に起こった三つの記号上の傾向をまず指摘する。それは、(1)音声中心主義、(2)写実主義、(3)象徴的な枠を造る傾向である。この三つが、近代において支配的だった「近代小説」という形で合流してきた。近代小説に口語的、描写的、心理的な要素があるのは、このような傾向があったからである。あの時代になぜ小説がそれほど人気を集めたのか、また一九世紀の終わりごろになぜ挿絵とテキストが分裂したのかがこれで説明できるであろう。この三つの傾向の共通点は、書記素の制御である。物質的で、目に見える物の表現力を抑える必要があったのは、書記素には、近代人の各々の理解の相違を明らかにしてしまうところがあったからである。近代という時代に、理解の相違を明白にすることは甚だ好ましくなかった。なぜなら、近代社会は、「国家」や「帝国」のような(ものを正しく見るための視点や枠を与える)象徴の共通の理解の上に成り立っていたからだ。むろん、それは錯覚であったには違いないが、虚構というものがあったので、真実でないものが真実のようになることができた。つまり、その嘘を信じられる形にして、広く納得させることを可能にした。近代的技術の発展が多くのものを作り出した。例えば、写真、映画、写真印刷、テレビ等があるが、それらの出現によって、書記素が抑え切れなくなってきた。その結果として、近代意識がだんだん弱くなってきた。おそらく、そのようなものを発明する必然性は、人間が記号の持つ可能性に応じることにあろう。新しい記号が持つ可能性に気づき、それを今までの記号的形成に取り入れようと努力する。つまり、記号の変身は、文化を発展させる基本的なエネルギーであろう。ポスト近代である今の時代は、figuralityがもう一度支配的になってきている。今は、歪みは歪みとして現れてもよくなってきた。歪みはもはや仮面を付けて出る必要がないし、我々の理解の相違が、一致して出る必要もなくなったのである。