著者
クラップ P.
出版者
一般財団法人 日本国際政治学会
雑誌
国際政治 (ISSN:04542215)
巻号頁・発行日
vol.1975, no.52, pp.L5-L41,L3, 1975

米国政府が琉球列島に対する統治権に固執する立場をとったことは, 多くの面で, 現実を時勢に遅れることなく認知することができなかったことを示す典型的な例である。この立場の擁護論は, もともと1940年代末に打ち出され, 1950年代の冷戦によって補強された。そのさい, 米国の文民及び軍部の指導者たちはともに沖繩を, アジアにおいて朝鮮からフィリピンにつながる米軍の前進基地の要とみなすようになっていた。もちろんそのさい, この前進基地体系は米国の防衛能力の軸をなすものと考えられていた。米国政府内には, すでに1960年代の初期において, 外国の領土の軍事占領を無期限に続けることに対して快よく思わない人も多くいたけれども, 沖繩の軍事的価値を再検討することによって現状の変更を求める協力態勢は1966年までみられなかった。<br>アメリカの考え方が変ったのは1966年から1969年にかけてであるが, それは主として, 琉球列島の統治から得られる特定の軍事的価値と, 日本及び沖繩において増大しつつあった米統治に対する深刻な政治的圧力が取引によって処理可能であるということを慎重に明確化した結果であった。これについての論理的な説明を体系的に求めていく過程で明らかになったのは, 日本の統治下においても沖繩基地の主要な軍事的価値が維持されうるということだけではなく, さらに重要なことに, それが現行の日米安保条約の下で可能であるということであった。沖繩の返還によって失われるのは沖繩における核兵器の貯蔵または展開の権利だけであり, この損失について十分に対処することができた。また, 基地の効用は, 結局は基地が現地住民によって受けいれられるかどうかによって決まることも明らかにされた。さらに, もし返還問題が1970年までに最終的に解決されないのであれば, 日本との安保条約が脅かされる恐れがあった。<br>アメリカにおける沖繩返還論議は, 殆ど政府官僚に限られ, 安全保障上の機密のベールによっておいかくされていた。ニュースとして公表されたのはきわめて少なく, 一般大衆は関心が薄く, 議会から強い圧力がかかったわけでもない。したがって, 論議への主な参加者は返還問題に直接の利害を有する官僚であった。すなわち, 国務省の極東担当局, 駐日米大使, 国防総省の国際安全保障局, 陸軍省, 統合参謀本部であり, 最終的には大統領が加わった。明らかに返還問題は二次的な比重しかしめていなかったのであり, 意見の相違は政府の中級レベルの官僚間で調整された。1969年に, とくに大統領の決定にゆだねられたのは, 核兵器の撤去に対する日本の要求を尊重するという決定だけであった。その時までにこのような決定に対しては, とくに日本との強固な友好関係を維持していくため大統領が自らの責任で行なった決定であっただけに, 軍部からの反対は殆どなかった。