著者
見城 悌治 ケンジョウ テイジ teiji KENJO
出版者
千葉大学文学部
雑誌
千葉大学人文研究 (ISSN:03862097)
巻号頁・発行日
no.35, pp.65-91, 2006

筆者は、これまで、近世末期を生きた二宮尊徳の思想が、近代社会にどのように継受・変容されたのかについて、近代を生きた尊徳門人の言説の検討などを通じ、「近代報徳思想」と称すべき近代日本適合的な思想を生成していったことを明らかにしてきた。また、「近代報徳思想」は、日本が植民地を有する帝国へと発展していくに伴い、植民地への適応も模索されてくる。これらについては未開拓な研究領域であり、不明な点も多いが、朝鮮と「満州国」における展開の概略についてこれまで筆者はまとめてきた。すなわち、北海道開拓などを一つの雛形にしつつ、一九三〇年代から、朝鮮や「満州国」への普及が企図されてくるのだが、朝鮮については、一九四三年四月、小磯国昭朝鮮総督の依頼で、佐々井が朝鮮に赴き、その思想と方法を普及しようとしたこと、「満州」については、「満州国建国十周年」を迎えた一九四二年以降、満州国協和会などの依頼で、佐々井らが現地で数度にわたる講演などを行ない、「国家建設」の内実を固めるための一つの方途と期待されたことなどの事実を見てきた。本稿は、それに続く論考として、「大東亜共栄圏」が構築される過程で、報徳に関わっていた人々が、「大東亜共栄圏」に対し、自分たちがどのような役割を果たすべきと認識していたのか、また「大東亜共栄圏」域に住まう諸民族に対し、どのような眼差しを向けていたのか、について整理することを目的とする。