著者
モロジャコフ ワシーリー
出版者
拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター
雑誌
拓殖大学台湾研究 = Journal of Taiwan studies, Takushoku University (ISSN:24328219)
巻号頁・発行日
no.2, pp.101-114, 2018

ロシアにおける台湾観測・研究の歴史は,日本海軍の出兵(1874年)から始まる。当初はロシア海軍の将校が,のちには学者と記者が台湾の地理,歴史,民族,言語を研究し始めた。日清戦争の結果として台湾が日本の植民地になってからは,ロシアの分析官がその調査・研究を続けた。帝政時代における観測の重点は,経済(資源開発,農業,貿易)と共に軍事であった。一般的に言えばロシア側は,植民地としての台湾が日本の「宝物」になるのか,「厄介者」になるのか,日本の経済力と軍事力を強めるのか弱めるのか,を知りたがった。日露戦争以前,経済と軍事の両観測分野は同じように大事と考えられた。が,日露戦争直後,台湾の経済は軍事より興味深いと見られた。1920年代には,日本の植民地はソ連共産党とコミンテルンの対外政策の焦点となった。日本を帝国主義列強と見なすソ連政権は,植民地に存在した経済・社会・民族問題及び本土に対する不満を利用する戦略・戦術を採った。対台湾政策はその試みの一つであった。ソ連共産党とコミンテルンは,1923年のドイツ革命の失敗直後,アジアでの革命を世界革命の最も近い道だと論じた。そして,中国及び列強の植民地は革命的闘争と共産主義的活動の現場と見なされた。日本統治時代の台湾の国内状態を分析・評価したソ連・コミンテルンの専門家は,直接的な情報の不足にもかかわらず,事実をかなり正しく理解したと結論できる。しかし,その専門家は,共産主義独裁政権の下,政権からの統制・弾圧を受けて,日本の台湾政策を激しく批判して,台湾における民族問題の重要性,労働・左翼運動の範囲,社会主義革命の可能性を過大に見積もっていた,と結論できる。
著者
モロジャコフ ワシーリー
出版者
拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター
雑誌
拓殖大学台湾研究 = Journal of Taiwan studies, Takushoku University (ISSN:24328219)
巻号頁・発行日
no.3, pp.111-122, 2019

台湾を開拓・開発する日本の政策は,その初期から,日本国内及び海外(特に欧州)の分析官が注意深く調査・検討していたテーマであった。当時,植民政策,植民地の開拓・開発は,「野蛮人〔当時の表現でアジア・アフリカの原住民〕と野蛮地〔当時の表現でアジア・アフリカの大部分の地域〕を文明化する運命」と見られて,キリスト教・「白人」の国家だけが可能な事業と考えられていた。キリスト教・「白人」の国家でない日本が植民政策を実施するという試みは,近代史上初めてのこととして世界の関心を集めた。キリスト教・「白人」ではない国家・民族が,他のキリスト教・「白人」ではない民族(原住民)を「文明化」できるかのかどうかと。台湾が日本の植民地になった頃には,「白人」の欧米世界では植民政策の内容と方法,その成否の基準ははっきりと理解されていた。日本政府,政治エリートから見れば,台湾における植民政策の「成功」は,経済的,軍事的利益ばかりでなく,世界における日本のイメージ構築にとって非常に重要であった。しかし,台湾からの現地情報,特に日本植民政策の成功に関する情報は,ほとんど全て日本発だったので,かえって欧米読者の疑念を深める結果になった。フランス人ジャーナリストのレジナルド・カン(Réginald Kann;1876~1925 年)は, 日露戦争中,日本陸軍駐在特派員であった。1906 年夏にフランスの植民地省,海軍省,参謀本部第2 課(情報機関)の命令で出張分析官として,情報収集のため台湾を訪問し,帰国後,内部資料として『フォルモサ報告』を執筆した。この未公刊資料は2001 年にフランス語の原文と中国語訳が台北で刊行された。本論文の目的はこのレジナルド・カン著『フォルモサ報告』の内容と結論を詳しく紹介することにある。