著者
ヤン ジョンソク 篠原 啓方
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』
巻号頁・発行日
pp.143-159, 2012-03-01

原著:ヤン ジョンソク翻訳:篠原啓方 東アジアにおける古代都城制の中でも、宮殿は中国の影響を強く受けてきたと言えるが、各地域によって新たにつくられる要素も存在する。その要素は宮殿が新たに造営されるたびに登場し、各地域の内部における独自の変遷も見られる。本稿では、このような認識に基づき、高句麗や渤海を中心に、東アジア宮殿の系譜を検討したい。 高句麗の国内城は、造営過程において、当時流行していた魏の宮殿に類似した宮殿が、宮殿の中央を基準に造営される配置構造を維持するいっぽう、宮殿の中央建築群の地表面を他のそれより高くするという、中国漢代の前殿と高台建築のアイディアも確認される。こうした特徴は、高句麗の平壌遷都(427)後にも維持されるが、安鶴宮においては、自然の地形を利用し、中央建築群が周辺より高い場所に配されている。 また安鶴宮には、魏晋南北朝期に流行した太極殿と東西堂制という宮殿の新たな配置構造が受容された。安鶴宮の中央建築群は、南宮、中宮、北宮に大別されるが、このうち南宮は中央に太極殿を、その左右に東堂と西堂を配置するという構造が採用されている。これにより南宮は、後方の中宮や北宮よりはるかに広い空間を持つようになった。さらに安鶴宮には、後方に行くにつれ空間全体が狭まっていくという配置構造が見られる。 安鶴宮のこうした特徴は、渤海上京城の宮殿においても確認されている。ただ上京城の宮殿は完全な平坦地に造営されたため、中央建築群の地表面を高める構造や、後方に行くにつれ地表面を高くする配置構造を持たなかった。また上京城においては、東西堂制が採用されなかった。これは隋唐代の宮殿が東西堂の造営を必要としない構造に変化したためと思われる。にもかかわらず、上京城の第1号宮殿と第2号宮殿には、安鶴宮南宮の太極殿(正殿)、中宮の太極殿(正殿)の建築構造がそのまま採用されている。特に第2号宮殿は、高句麗の独特の建築構造を持つもので、中国においては類例を探すのが困難である。 このように渤海は、高句麗の宮殿構造の中から系譜的に重要と思われる要素が採用しつつ、いっぽうで隋唐宮殿の新たな要素をも採用している。このような変化を経つつ、古代東アジアにおける宮殿の建築構造と配置様式は、発展を遂げていったのである。