著者
石井 龍太
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』
巻号頁・発行日
pp.161-177, 2012-03-01

本稿は琉球諸島の瓦について、考古史料、文献資料に基づき、王権との結び付きと社会認識といった観点から論じるものである。 琉球諸島では瓦は14世紀後半頃には登場していた。発掘調査成果から、グスク時代と近世期以降の大きく二つの時期に分けられ、さらに諸特徴から細分される。またその成立と発展には、韓半島、日本列島、中国大陸部の瓦文化との交渉があったと考えられる。 瓦は沖縄本島南部の首里・那覇を中心とした一帯に偏って分布し、近世期に到っても一般に普及することはなかった。その背景には瓦使用に伴う大きな負担とともに、瓦と王権の結び付きがあったと考えられる。琉球王府は瓦の生産・使用を管理し独占を図っていた。こうした瓦にまつわる制度は瓦の普及を制限し、さらに瓦を巡る思想にも影響していったことだろう。琉球諸島の瓦は、周辺諸地域に見られるような強いメッセージ性を持つものではない。しかし王権と結びつき制度によって管理されたことで、葺かれるだけで所有者の社会的・経済的優位を示す装飾材としての意味合いを強めていった。さらに18世紀後半期を中心に耐火建築材としても注目されていくこととなる。琉球諸島の瓦は、壮麗で頑健な理想的建築物として認識されていたと考えられる。
著者
ヤン ジョンソク 篠原 啓方
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』
巻号頁・発行日
pp.143-159, 2012-03-01

原著:ヤン ジョンソク翻訳:篠原啓方 東アジアにおける古代都城制の中でも、宮殿は中国の影響を強く受けてきたと言えるが、各地域によって新たにつくられる要素も存在する。その要素は宮殿が新たに造営されるたびに登場し、各地域の内部における独自の変遷も見られる。本稿では、このような認識に基づき、高句麗や渤海を中心に、東アジア宮殿の系譜を検討したい。 高句麗の国内城は、造営過程において、当時流行していた魏の宮殿に類似した宮殿が、宮殿の中央を基準に造営される配置構造を維持するいっぽう、宮殿の中央建築群の地表面を他のそれより高くするという、中国漢代の前殿と高台建築のアイディアも確認される。こうした特徴は、高句麗の平壌遷都(427)後にも維持されるが、安鶴宮においては、自然の地形を利用し、中央建築群が周辺より高い場所に配されている。 また安鶴宮には、魏晋南北朝期に流行した太極殿と東西堂制という宮殿の新たな配置構造が受容された。安鶴宮の中央建築群は、南宮、中宮、北宮に大別されるが、このうち南宮は中央に太極殿を、その左右に東堂と西堂を配置するという構造が採用されている。これにより南宮は、後方の中宮や北宮よりはるかに広い空間を持つようになった。さらに安鶴宮には、後方に行くにつれ空間全体が狭まっていくという配置構造が見られる。 安鶴宮のこうした特徴は、渤海上京城の宮殿においても確認されている。ただ上京城の宮殿は完全な平坦地に造営されたため、中央建築群の地表面を高める構造や、後方に行くにつれ地表面を高くする配置構造を持たなかった。また上京城においては、東西堂制が採用されなかった。これは隋唐代の宮殿が東西堂の造営を必要としない構造に変化したためと思われる。にもかかわらず、上京城の第1号宮殿と第2号宮殿には、安鶴宮南宮の太極殿(正殿)、中宮の太極殿(正殿)の建築構造がそのまま採用されている。特に第2号宮殿は、高句麗の独特の建築構造を持つもので、中国においては類例を探すのが困難である。 このように渤海は、高句麗の宮殿構造の中から系譜的に重要と思われる要素が採用しつつ、いっぽうで隋唐宮殿の新たな要素をも採用している。このような変化を経つつ、古代東アジアにおける宮殿の建築構造と配置様式は、発展を遂げていったのである。
著者
西村 昌也
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』
巻号頁・発行日
pp.105-141, 2012-03-01

ベトナムの形成史を考える時に、主要民族、キン族が居住した北部平野部において、その南域(タインホア省からハティン省あたり)は、先史時代より非常に興味深い役割を果たしている。 つまり銅鼓に象徴されるドンソン文化の核領域を形成しつつ、中部のサーフィン文化集団による大量銅鼓の移出を実現する。そして、後漢代以降、中国文化を積極的に受け入れた集団と山岳部でドンソン文化伝統を保とうとする二極化がおきる。また、時には、中部のチャンパなどと連合しながら、しばしば中国政権側に起義・反抗を行う。そのなかには、中国側政権にもともと近しい存在で、権力基盤形成を行い、反抗・起義に到った例もある。 独立達成の10世紀から李陳朝期を通じて、ベトナムはチャンパと抗争を繰り広げると同時に、文化的にも経済的にも様々な交流関係を深め、チャンパとの交流はベトナムが独自文化形成を行う上で大きく寄与していたし、チャンパ側も陶磁器生産技術などをベトナム側から導入している。 15世紀以降、タインホア、ゲアンなどの北部南域の人たちは、積極的に中部入植や政権樹立を行い、現在のベトナムに到っている。その地政学的位置から、北部南域の人たちは、中国とチャンパを両端として、ベトナムの政権を真ん中に据えつつ、振り子のように重心を変えながら、巧みに勢力拡大に努めてきたと言える。
著者
岡本 弘道
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』
巻号頁・発行日
pp.89-98, 2012-03-01

1609年の琉球侵略から1879年の琉球処分に至るまでの「近世琉球」期は、明清両朝への朝貢・冊封関係、そして島津氏およびその上位の徳川幕府に対する従属関係が琉球王国を規定した時期である。そのため、明清両朝の華夷秩序と近世日本の日本型華夷観念との衝突やその中で生じる矛盾を琉球は抱え込まなければならなかった。17世紀末頃までにその枠組みを確立した琉球の外交は、島津氏と幕府に対する対日外交、そして朝貢使節の派遣と冊封使節の迎接に代表される対清外交に大別される。両者は琉球の「二重朝貢」として並列されることもあるが、その位相は全く異なるものであり、琉球の外交に制約を課すとともにその国内体制とも密接に絡み合い、逆に琉球の存在意義を保障する役割を果たしていた。 近世琉球期の外交については、既に重厚な研究蓄積が存在するが、本報告ではそれらの成果に依拠しつつ、その国際的位置づけと外交の枠組みに関するいくつかの問題について検討を加え、その中に見いだせる「主体性」もしくは「自律性」について考えてみたい。
著者
西村 昌也
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』
巻号頁・発行日
pp.105-141, 2012-03-01

ベトナムの形成史を考える時に、主要民族、キン族が居住した北部平野部において、その南域(タインホア省からハティン省あたり)は、先史時代より非常に興味深い役割を果たしている。 つまり銅鼓に象徴されるドンソン文化の核領域を形成しつつ、中部のサーフィン文化集団による大量銅鼓の移出を実現する。そして、後漢代以降、中国文化を積極的に受け入れた集団と山岳部でドンソン文化伝統を保とうとする二極化がおきる。また、時には、中部のチャンパなどと連合しながら、しばしば中国政権側に起義・反抗を行う。そのなかには、中国側政権にもともと近しい存在で、権力基盤形成を行い、反抗・起義に到った例もある。 独立達成の10世紀から李陳朝期を通じて、ベトナムはチャンパと抗争を繰り広げると同時に、文化的にも経済的にも様々な交流関係を深め、チャンパとの交流はベトナムが独自文化形成を行う上で大きく寄与していたし、チャンパ側も陶磁器生産技術などをベトナム側から導入している。 15世紀以降、タインホア、ゲアンなどの北部南域の人たちは、積極的に中部入植や政権樹立を行い、現在のベトナムに到っている。その地政学的位置から、北部南域の人たちは、中国とチャンパを両端として、ベトナムの政権を真ん中に据えつつ、振り子のように重心を変えながら、巧みに勢力拡大に努めてきたと言える。
著者
西村 昌也
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』
巻号頁・発行日
pp.105-141, 2012-03-01

ベトナムの形成史を考える時に、主要民族、キン族が居住した北部平野部において、その南域(タインホア省からハティン省あたり)は、先史時代より非常に興味深い役割を果たしている。 つまり銅鼓に象徴されるドンソン文化の核領域を形成しつつ、中部のサーフィン文化集団による大量銅鼓の移出を実現する。そして、後漢代以降、中国文化を積極的に受け入れた集団と山岳部でドンソン文化伝統を保とうとする二極化がおきる。また、時には、中部のチャンパなどと連合しながら、しばしば中国政権側に起義・反抗を行う。そのなかには、中国側政権にもともと近しい存在で、権力基盤形成を行い、反抗・起義に到った例もある。 独立達成の10世紀から李陳朝期を通じて、ベトナムはチャンパと抗争を繰り広げると同時に、文化的にも経済的にも様々な交流関係を深め、チャンパとの交流はベトナムが独自文化形成を行う上で大きく寄与していたし、チャンパ側も陶磁器生産技術などをベトナム側から導入している。 15世紀以降、タインホア、ゲアンなどの北部南域の人たちは、積極的に中部入植や政権樹立を行い、現在のベトナムに到っている。その地政学的位置から、北部南域の人たちは、中国とチャンパを両端として、ベトナムの政権を真ん中に据えつつ、振り子のように重心を変えながら、巧みに勢力拡大に努めてきたと言える。
著者
岡本 弘道
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』
巻号頁・発行日
pp.89-98, 2012-03-01

1609年の琉球侵略から1879年の琉球処分に至るまでの「近世琉球」期は、明清両朝への朝貢・冊封関係、そして島津氏およびその上位の徳川幕府に対する従属関係が琉球王国を規定した時期である。そのため、明清両朝の華夷秩序と近世日本の日本型華夷観念との衝突やその中で生じる矛盾を琉球は抱え込まなければならなかった。17世紀末頃までにその枠組みを確立した琉球の外交は、島津氏と幕府に対する対日外交、そして朝貢使節の派遣と冊封使節の迎接に代表される対清外交に大別される。両者は琉球の「二重朝貢」として並列されることもあるが、その位相は全く異なるものであり、琉球の外交に制約を課すとともにその国内体制とも密接に絡み合い、逆に琉球の存在意義を保障する役割を果たしていた。 近世琉球期の外交については、既に重厚な研究蓄積が存在するが、本報告ではそれらの成果に依拠しつつ、その国際的位置づけと外交の枠組みに関するいくつかの問題について検討を加え、その中に見いだせる「主体性」もしくは「自律性」について考えてみたい。
著者
チョン ダハム 金子 祐樹
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』
巻号頁・発行日
pp.67-88, 2012-03-01

朝鮮初期の敬差官は従来、主に朝鮮王の命を受けて朝廷から地方の行政区域に派遣されたものと理解されてきたが、実際には女真や対馬へ長期にわたって派遣されていた。この事実は、韓国の歴史研究者の大多数が半世紀にもわたって述べてきた「交隣」という枠組みの根本的問題点を我々に示している。「交隣」の枠組とは大いに異なり、朝鮮は非常にダイナミックな手法により「小中華」という自身のアイデンティティを想像していた。当時の東北アジアの情勢下で朝鮮は、太祖李成桂がもたらした女真族と対馬島に対する勝利を歴史編纂の過程で儒教的名分論によって粉飾し、両者に対する「上国」としての地位を公式化する作業を進めていった。明が朝鮮を藩国と位置づけたように、朝鮮もまた彼らを朝鮮の藩籬・藩屏と規定したのである。敬差官とはこうした歴史的な文脈を受け、明が藩屏(朝鮮)に派遣する欽差官の制度を借用しつつ、これを一段低める修辞的技巧によって登場したものであった。これにより朝鮮は、女真族と対馬島への優位を確認しつつ、同時に明の臣下たる者として私かに他の勢力と交流してはならないという明中心の東アジア秩序に逆らわない巧妙さを発揮することができた。朝鮮初期におけるこうした外交のあり方は、明中心の東アジア秩序を強調する「事大」や、外国勢力の侵略による近代化の失敗への被害意識から、朝鮮の女真と対馬への侵略を認めようとしない「交隣」という視座では説明しがたく、東アジアの辺境である女真・対馬・朝鮮の間における地域秩序と関係性形成の脈絡を、リアルに伝えてくれる。原著:チョン ダハム翻訳:金子祐樹
著者
篠原 啓方
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』
巻号頁・発行日
pp.19-30, 2012-03-01

4-5世紀の高句麗は、漢字文化を受容・運用して政治体制を整えたが、高句麗における「漢字文化の普及」は「漢化」とは必ずしも一体ではなかった。ゆえに用語や表現のみを中国的な文脈で判断することは危険であり、地域研究のアプローチとしてふさわしいとは思えない。 また本稿は「中心」と「周縁」という二つの視点を対比させ、両者の拮抗と均衡の模索という様相について考えた。高句麗は外部からの「周縁」という位置づけを認識するいっぽう、自身を中心とした「周縁」へのまなざしを持っていた。この二つの視点・文脈を以て周辺世界とかかわっていたことが、東アジアにおける「個」としての高句麗を維持し得た原動力につながっていたと思われる。
著者
岡本 弘道
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ6 『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」―歴史学・考古学研究からの視座―』
巻号頁・発行日
pp.89-98, 2012-03-01

1609年の琉球侵略から1879年の琉球処分に至るまでの「近世琉球」期は、明清両朝への朝貢・冊封関係、そして島津氏およびその上位の徳川幕府に対する従属関係が琉球王国を規定した時期である。そのため、明清両朝の華夷秩序と近世日本の日本型華夷観念との衝突やその中で生じる矛盾を琉球は抱え込まなければならなかった。17世紀末頃までにその枠組みを確立した琉球の外交は、島津氏と幕府に対する対日外交、そして朝貢使節の派遣と冊封使節の迎接に代表される対清外交に大別される。両者は琉球の「二重朝貢」として並列されることもあるが、その位相は全く異なるものであり、琉球の外交に制約を課すとともにその国内体制とも密接に絡み合い、逆に琉球の存在意義を保障する役割を果たしていた。 近世琉球期の外交については、既に重厚な研究蓄積が存在するが、本報告ではそれらの成果に依拠しつつ、その国際的位置づけと外交の枠組みに関するいくつかの問題について検討を加え、その中に見いだせる「主体性」もしくは「自律性」について考えてみたい。