著者
上田 良光
出版者
消費者金融サービス研究学会
雑誌
消費者金融サービス研究学会年報 (ISSN:13493965)
巻号頁・発行日
no.6, pp.53-65, 2005

97年11月26日の徳陽シティ銀行破綻は仙台市民や宮城県民にとって、必ずしも驚くべきことではなかった。なぜならば、96年5月23日の「社長交代劇」では大谷邦夫社長が相談役に、新井田時男専務が社長にと、既に数回にわたる大蔵省によるテコ入れがなされていたからである。徳陽シティ銀行は当初昭和17年4月宮城県内の東北、宮城、太洋の無尽会社3社が合併し、三徳無尽会社として設立され、昭和25年11月、社長に早坂順一郎が就任、翌年の「相互銀行法」施行に伴い、徳陽相互銀行となり、その後「早坂一族支配」が続くことになった。平成元年4月、日銀出身の甲斐秀雄副社長が社長に就任し、早坂一族以外から初の社長となった。平成2年6月、社長に大谷邦夫が就任、8月、普通銀行として「徳陽シティ銀行」に転換したが、業績悪化のため他の相互銀行より1年遅れたのである。さらに、平成6年、金融当局によって北日本、殖産銀行との合併による「平成銀行」の成立が画策され、3行頭取が合意に達し、東北では大ニュースとして報道されたにも関わらず、敢えなく破談となってしまった。それは不良債権が766億円と公表されたが、実際は1,000億円と云われ、また、東北の地銀、第二地銀中、貸出残高に対する比率も12.36%と最大で、七十七銀行2.06%、徳陽に次いで比率の高い福島銀行でさえ4.34%と、いかに高い数字かがうかがわれたのである。この合併劇の破談は徳陽の業績の悪化を世間に一層印象づけることになり、破綻への道を早める結果となったのである徳陽シティ銀行の破綻は「大蔵省主導の終焉」と位置づけられる。なぜならば、平成元年から8年まで2代続けて大蔵省出身の頭取が就任したにも拘わらず、破綻を食い止めることができなかったこと、さらには、大蔵省主導で平成6年に画策された北日本銀行、殖産銀行との合併による「平成銀行」が3行頭取の合意がなされたものの北日本銀行従業員組合、顧客団体の反対に遭い、敢えなく破談となってしまったことなどからも我が国の金融業界も「大蔵省支配」から次第に「市場原理」に近づきつつあることを示したものと言えよう。