著者
丸亀 裕司
雑誌
人文
巻号頁・発行日
no.16, pp.27-47, 2018-03

本稿の目的は、帝政成立前後のローマ人著作家が「インペリウム」をどのように認識していたかを明らかにし、公職者の権限や職務の性質に関する現代の研究者の理解を批判することである。インペリウムは、都市ローマの外側「ミリティアエ」では軍隊指揮権であり、都市ローマの内側「ドミ」では高位公職者の職務権限だったと考えられてきた。しかし近年、公職者の職務権限は職務内容によって「ドミ」と「ミリティアエ」によって区別された、また、インペリウムは軍隊指揮権であって高位公職者の職務権限ではなかった、とする研究が出されている。こうした先行研究に対して、筆者は、共和政末期以降のローマ人著作家は「インペリウム」を高位公職者の職務権限を含む権限として認識していたことを確認した上で、ケントゥリア民会に注目し、「ドミ」と「ミリティアエ」の間に領域的にも機能的にも明確な境界を引くことはできないと主張した。The aim of this paper is to clarify how the Romans viewed imperium and to criticize modern scholars' understanding thereof. It has long been believed that imperium encompassed not only command outside the city of Rome (militiae) but also the authority of the higher magistrates (consuls and praetors) inside the city (domi). However, recent studies show that the authority of the high magistrates were divided into domi and militiae by the qualities of the tasks (civil or military, respectively) they took, not by the place in which they were located (in- or outside Rome), and, moreover, that imperium was simply military command and not a civil authority of high magistracies. In this paper, focusing on the Romans' descriptions of imperium and comitia centuriata, I assert that the Romans regarded imperium as the strong power of the higher magistrates, including military and civil authority, and that they had no clear distinction between domi and militiae which, as modern scholars have considered, divided the tasks of the magistrates in both the territorial and functional sense.
著者
丸亀 裕司
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2015-03-31

本稿は、共和政ローマが帝政へと移行する過程でローマ皇帝の出現とともに公職選挙のあり方がいかに変化したかを検討することで、皇帝権力が共和政以来の伝統的な公職権限を管理下に置く過程としてローマ帝政成立を描写し、ローマ皇帝は「共和政以来の公職権限とこれをめぐる競争の管理者」として出現したことを明らかにする試みである。第1部では、共和政末期の公職選挙の制度と運営の実態を検討した。ローマの公職選挙は、制度的には、コンスルと護民官が務める選挙主宰公職者が選挙結果に対して決定的な権限を有しており、富裕層市民が投票において大きな影響力を有していた。しかし、首都ローマの都市民は、選挙主宰公職者に圧力をかけることで恣意的な公職者選出を抑止し、候補者の選挙運動についての「評判」を形成することで富裕層市民の投票行動にも影響を及ぼすことができた。ローマ市民は「軍隊指揮官(imperator)」「よき弁論家(orator)」としての資質を有している者を、コンスル就任、あるいは公職階梯上昇にふさわしい人物と評価した。しかし、これらの資質において他に抜きん出た評価を獲得することは極めて困難だったため、家柄や気前のよさなど、さまざまな資質を競い合うこととなり、公職をめぐる競争は激化した。特に、「気前のよさ(liberalitas)」は、公職をめぐる競争を激化させた。これは社会的に許容される振舞いと見なされる場合もあれば、選挙買収として告発される場合もあるアンビヴァレントな観念だった。長期的に気前のよさを示し、市民から「気前がよい」と評価されている者の場合、選挙直前のこうした行為を合法的で許容される行為だと判断されることもあった。共和政末期の公職選挙の混乱の主な原因の一つは、こうした「気前のよさ」を示すさまざまな手法がとられたために生じたものだった。こうした「気前のよさ」を誇示する選挙運動の一つとして、「分配人」を介した選挙買収がある。同盟市戦争終結後、主にトリブス仲間に気前のよさを示すことでトリブス内で一定の影響力を獲得し、‘gratiosus’と呼ばれる者が急増した。その結果、彼らの影響力拡大を危惧しながらも、選挙で当選して自らの社会的地位を維持するために、金銭で彼らの支持を得るようとする元老院議員もあらわれた。こうして支持を集めた対立候補を非難するために「分配人を雇った」、さらに対立候補に協力する比較的社会的地位の低い‘gratiosus’を名指しで「分配人」と呼び、「分配人」という非難の呼称が生まれた。第2部では、カエサル独裁期、国家再建三人委員(いわゆる「第二次三頭政治」)時代の公職選挙が権力の統制下に置かれた過程を論じた。カエサルは、前49年末に独裁官に就任して以降、独裁官ないしコンスルとして、ケントゥリア民会とトリブス民会の主宰権限、公職選挙主宰権限を保持した。戦勝に際して、連続してコンスルに就任することとカエサルが公職選挙を主宰することを元老院決議で確認しながら、カエサルはコンスルとしての選挙主宰権限の保持と、これを行使し続けることを正当化していた。こうした選挙主宰権限の確保は、前44年、パルティア遠征の準備として事前選挙実施のために、終身独裁官就任と終身の護民官職権を獲得し、永続的なものとなった。同時に、アントニウス法により、コンスルを除く公職者の半数について、民会に代わって選挙主宰者から当選宣言を受ける者を選出する権限をカエサルは獲得し、選挙主宰権限と合わせて実質的な任命権が成立した。カエサルが公職選挙の結果に決定的な影響力を持ったことで、公職をめぐる競争は市民の支持獲得を目指すものではなくなり、カエサルから公職就任の約束を潜在的候補者と争うものとなった。公職就任を目指す者は、カエサルに与えられた内乱における軍事や内政の任務を果たし、カエサルから公職就任の約束を得ようと競争した。他方カエサルは、彼らの業績を評価し、彼らに公職を約束することで、カエサルは「カエサル派」の凝集とともに、公職をめぐる競争を自身の影響力の下に置こうと試みた。内乱を指揮する権限を掌握したカエサルの登場により、コンスル就任にもっともふさわしいとされた「軍隊指揮官」、そして内政に通じた「よき弁論家」の資質は公職階梯上昇においてより重要視されることとなり、カエサル独裁期の公職選挙は、内乱勃発以前と比較してより実力主義的な傾向を強めた。国家再建三人委員は、コンスル命令権、およびカエサルより広範な事実上の任命権を確保し、公職者選出に決定的な影響力を保持した。アントニウスとオクタウィアヌスはこれらの権限により、彼らへの貢献への報酬として、あるいは有能な人材を支持者とするために、公職を用いた。こうして、アントニウスとオクタウィアヌスは、カエサルを先例としながらも、公職選挙主宰権限と任命権とによって公職者選出とこれをめぐる競争を完全に統制下に置いた。第3部では、アウグストゥス治世に公職選挙がいかに運用され、アウグストゥスがこれにいかに関与できたか、そして関与したかを検討した。内乱終結後もしばらくの間は、オクタウィアヌス(アウグストゥス)はコンスル職とそれに付随する選挙主宰権限を保持し続け、その同僚コンスルは彼による事実上の任命によって選出されていた。しかし、選挙主宰権限をはじめとした権限確保のためのコンスル職の独占は、さまざまな政治的問題を引き起こし、また元老院議員の不満を蓄積させた。前23年、アウグストゥスはコンスルを辞任し、属州の軍隊指揮のためにすでに獲得していた市壁外で行使可能な命令権の行使可能領域を市壁内にも拡張することで、コンスルと同等の命令権を獲得し、同時に護民官職権を獲得した。アウグストゥスは、ローマの公職選挙が行われるすべての民会、すなわち、ケントゥリア民会、トリブス民会、平民会の招集権限、すなわちこれらの民会での選挙主宰権限を獲得し、公職に就くことなく、すべての公職選挙に選挙主宰者として決定的な影響を及ぼし得る権限を保持することとなった。公職者選出に決定的な影響力を獲得したアウグストゥスだったが、彼による公職者任命というかたちでの公職選挙への直接的な介入は極めて限定的な状況下でしか確認できず、むしろ公職選挙への介入にアウグストゥスは消極的だった。原則的に、アウグストゥスは公職選挙を都市民に委ねており、公職就任を目指す元老院議員たちに市民の前で競争させていた。しかし、支持獲得競争が過熱した混乱が生じた場合にはただちに介入し、公職者を任命した。こうした任命や任命のために、推薦権や任命権と呼びうる権限をアウグストゥスが有していたことを明示する史料もなく、アウグストゥスによる公職選挙への介入は、公職選挙主宰権限と権威(auctoritas)基づいてなされた行為だったと考えられる。後5年、予備選挙の導入により、ケントゥリア民会での公職選挙のあり方は大きく変化した。予備選挙の結果が公職選挙の結果に強い影響を持ったため、都市民に開かれていた支持獲得競争は徐々に元老院議員と騎士の中で繰り広げられることとなる。その結果、予備選挙と都市民の支持に大きな乖離が生じ、7年には都市民をも巻き込んだ混乱が生じた。こうした支持のズレを解消するため、アウグストゥスは予備選挙の結果に承認を与えるようになり、以後、コンスルとプラエトルの選出における都市民の選択の余地は事実上失われた。そして14年、アウグストゥス死去、ティベリウスの帝位継承に際して、公職選挙は事実上元老院で行われるようになり、民会はすべての公職選挙における選択の自由を失い、都市民を前に繰り広げられた共和政的な公職選挙は終焉を迎えた。以上の議論から、皇帝権力の成立と公職者選出のあり方の変容を並行して見た場合、ローマ皇帝は、コンスル命令権とこれに付随する公職選挙主宰権限に依拠して、帝国の統治と行政を司る公職権限の配分、さらにはそれにより公職を担う元老院議員の政治生命を左右することもでき、これにより帝国の統治に必要な権限と人材を統括し、その中心を担う存在として出現したと結論づけた。