著者
鍋山 航
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2019-03-09

1000人に1人の割合で生ずる先天性難聴は、遺伝的な原因が全体の約半数を占めており、難聴に関連する遺伝子はおよそ100種類が知られている。聴覚を司る内耳の蝸牛は非常に複雑な構造で、種々のタンパク質が役割分担をして聴覚受容を担っているが、これらの遺伝子に変異があることで難聴となる。遺伝性難聴の分類は、難聴以外の随伴症状の有無により症候群性難聴と非症候群性難聴に分けられる。両者に共通している原因遺伝子としてPendred症候群(PDS)の原因遺伝子SLC26A4が挙げられる。PDSでは難聴以外にその随伴症状として、甲状腺腫と内耳奇形が報告されており、一方の非症候群性難聴にもSLC26A4遺伝子の異常が共通してみられる。加えて、SLC26A4の遺伝子異常にともなう随伴症状は進行性である。このようなことから、SLC26A4の遺伝子変異を治療や創薬研究の目標とすることは、優先的であり、有効であると考えられる。SLC26A4からつくられるPendrinは、アミノ酸780個からなる膜貫通型タンパクで、主に内耳に発現し、塩化物イオン、重炭酸イオンなどの陰イオンとヨードの輸送を行っている。細胞内において変異型Pendrinは、正常なPendrinが小胞体で発現した後に細胞膜へと移行するのに対して小胞体に蓄積し、本来あるべき細胞膜へ移行することができない。このため、内耳コルチ器内のラセン隆起および外ラセン溝細胞においては陰イオンの輸送が障害され、水管拡大の症状をともない難聴を示す。そこでこれを改善する試みとして先行研究が行われ、古くから鎮痛作用として知られているサリチル酸が、変異型Pendrinに対しての分子シャペロン活性を示し、変異型Pendrinを小胞体から細胞膜へ移行させ再活性化することが明らかにされた。本研究では、サリチル酸による変異型Pendrinの細胞内局在変化に着目し、変異型Pendrinを恒常的に発現するStable細胞の確立、網羅的画像解析による迅速な薬剤スクリーニング法の開発を行い、サリチル酸とその類縁体から有効な細胞膜移行活性を有する化合物の探索を行った。 第二章では、変異型Pendrin(P123S)恒常発現(Stable)細胞を樹立した。先行研究によりSLC26A4遺伝子の変異のうち主要な10種類のミスセンスの変異型Pendrinの作製と、ミスフォールドからの薬剤によるレスキューが報告されている。10種類の変異型Pendrinを遺伝子導入したHEK293細胞に対するサリチル酸の分子シャペロン活性が調べられており、サリチル酸応答性を示す有用な4種類(P123S、M147V、S657N、H723R)の変異型Pendrin遺伝子が特定されている。ここで行われた一過性(Transient)の遺伝子導入と解析の場合、1)細胞播種、2)遺伝子導入、3)薬剤添加、4)免疫染色、5)細胞内局在変化 の過程を必要とし、実験ごとの遺伝子導入と遺伝子導入効率の安定性、化合物多数を用いた迅速なスクリーニングには課題があった。そこで本研究では、変異型Pendrin(P123S)を恒常的(Stable)に発現する細胞の樹立を検討した。具体的には、遺伝子導入後のHEK293細胞はネオマイシン耐性である性質を利用し、G-418 Sulfate存在下で10日間連続培養後、その生え抜きを選抜した。Pendrin発現とサリチル酸応答性を確認した後、これらを96well培養プレートで1細胞/1wellに限界希釈し、シングルコロニー由来の単クローンを得た。得られた単クローン細胞を再度、Pendrin発現・サリチル酸応答性の確認後、細胞のクローニング操作を合計2回行った。このようにして、野生型Pendrin発現細胞(Wt)と変異型Pendrin(P123S)発現細胞(PH1-1H1)を得たことで、遺伝子導入の段階を省くことが可能となり、第三章のMorphology解析に有用な細胞株であると判断した。第三章ではCellInsightTMを用いて細胞のMorphology解析のためのパラメーターを検討した。 変異型Pendrin(P123S)は細胞質に集積し、野生型Pendrin(Wt)は細胞膜に局在する。一方、10 mMサリチル酸を加えることで改善し、Pendrinの細胞膜局在が上昇し細胞質局在は減少する。この局在変化について、従来の手法では、免疫染色の後共焦点レーザー顕微鏡にて得られた画像を画像解析ソフトFluoViewTMで取込し、細胞膜・細胞質の蛍光強度を無作為に100ポイント測定して評価していた。本研究では96well培養プレートを用いた迅速な薬剤スクリーニングを目的にこれを改良した。細胞イメージアナライザーCellInsightTMによる計測は、96well内を100フィールドに区分し、各フィールド内最大100個細胞を検出し、全細胞のタンパク質局在を網羅的に解析し蛍光強度を測定できる。そこで解析プログラムMorphology V4の解析パラメーターの検討を行った。複数の検討より、細胞の外周を解析の基準であるCh1とし、核をCh2とした。そしてCh1から内側へ5 pixel幅を細胞質Ch3(Cytoplasm:C)とし、Ch1から内側2 pixel幅を細胞膜(Plasma Membrane:M)Ch4とした。次にPH1-1H1細胞に対してサリチル酸による変異型Pendrin移行活性を評価した結果、Ch4(M)の上昇はみられなかったものの、サリチル酸濃度依存的Ch3(C)の減少を確認することができた。(Ch4は、細胞外周の微小な凹凸や輪郭の正確なトレースが困難で、また、背景の黒色領域も合わせて検出したため、正確な細胞膜の蛍光強度が検出できなかった。) このことから、スクリーニングの基準を、Ch3(C)蛍光強度の減少として決定し、第四章のサリチル酸類縁体の移行活性スクリーニングに用いた。第四章では、サリチル酸類縁体による変異型Pendrin移行活性スクリーニングと候補化合物の探索を行った。サリチル酸とその類縁体は、96well培養プレート中PH1-1H1細胞に12時間添加し、免疫染色の後、第三章で確立したCellInsightTMによるMorphology V4でCh3を基準にスクリーニングした。その結果、化合物の濃度依存的にCh3(C)減少を示す6つの候補化合物を発見した。さらに、FluoViewTMによる詳細な蛍光強度の測定をし、細胞膜(Plasma Membrane:M) / 細胞質(Cytoplasm:C) = M/C比を調べた結果、サリチル酸は10 mMでM/C比が1.0であるのに比べ、M/C比が0.3 mMで1.5、0.1 mMで0.9を示す化合物(2-aminophenyl)methanolを見い出した(化合物番号8)。すなわち、化合物8はサリチル酸に対して活性がおよそ100倍高いことを示した。さらに、薬剤を培地から取り除いた後24時間までの細胞内薬剤持続性効果を検討した結果、サリチル酸は薬剤除去後6時間で効果が失われたのに対して、化合物8は12時間後まで効果が持続した。以上より、化合物8は変異型Pendrinに対して細胞膜移行活性を有する候補化合物であることが示唆された。本研究の結論1.限界希釈法による細胞のクローニングで、野生型Pendrin発現細胞(Wt)と変異型Pendrin(P123S)発現細胞(PH1-1H1)を得た。Wt細胞はG-418 Sulfate 存在下で恒常的に野生型Pendrinを発現し、細胞膜局在を示した。PH1-1H1細胞はG-418 Sulfate 存在下で恒常的に変異型Pendrinを発現し、細胞質に局在を示した。これに10 mMサリチル酸を12時間添加することで細胞膜局在を示した。得られたPH1-1H1細胞は、サリチル酸類縁体を用いた変異型Pendrin移行活性スクリーニングに有用な細胞である。2.CellInsightTMによるMorphology解析パラメーターの条件検討を行った。細胞外周を解析の基準であるCh1とし、Ch1より内側2 pixelから7 pixelの5 pixel幅を細胞質Ch3(Cytoplasm:C)として設定することで、サリチル酸濃度依存的なCh3(C)の減少が確認できた。すなわち、化合物濃度依存的なCh3(C)の減少に着目することで、96 well培養プレートを用いた迅速かつ網羅的な、変異型Pendrin移行活性スクリーニングが可能となった。3.変異型Pendrin移行活性スクリーニングより6つの有効な候補化合物を発見した。中でも化合物8 ((2-aminophenyl)methanol)はサリチル酸に対して細胞膜移行活性が100倍高く、加えて細胞内薬剤持続的効果も長く12時間を示した。すなわち、化合物8は変異型Pendrinの細胞膜移行活性を有する有用な候補化合物であることが示唆された。
著者
丸亀 裕司
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2015-03-31

本稿は、共和政ローマが帝政へと移行する過程でローマ皇帝の出現とともに公職選挙のあり方がいかに変化したかを検討することで、皇帝権力が共和政以来の伝統的な公職権限を管理下に置く過程としてローマ帝政成立を描写し、ローマ皇帝は「共和政以来の公職権限とこれをめぐる競争の管理者」として出現したことを明らかにする試みである。第1部では、共和政末期の公職選挙の制度と運営の実態を検討した。ローマの公職選挙は、制度的には、コンスルと護民官が務める選挙主宰公職者が選挙結果に対して決定的な権限を有しており、富裕層市民が投票において大きな影響力を有していた。しかし、首都ローマの都市民は、選挙主宰公職者に圧力をかけることで恣意的な公職者選出を抑止し、候補者の選挙運動についての「評判」を形成することで富裕層市民の投票行動にも影響を及ぼすことができた。ローマ市民は「軍隊指揮官(imperator)」「よき弁論家(orator)」としての資質を有している者を、コンスル就任、あるいは公職階梯上昇にふさわしい人物と評価した。しかし、これらの資質において他に抜きん出た評価を獲得することは極めて困難だったため、家柄や気前のよさなど、さまざまな資質を競い合うこととなり、公職をめぐる競争は激化した。特に、「気前のよさ(liberalitas)」は、公職をめぐる競争を激化させた。これは社会的に許容される振舞いと見なされる場合もあれば、選挙買収として告発される場合もあるアンビヴァレントな観念だった。長期的に気前のよさを示し、市民から「気前がよい」と評価されている者の場合、選挙直前のこうした行為を合法的で許容される行為だと判断されることもあった。共和政末期の公職選挙の混乱の主な原因の一つは、こうした「気前のよさ」を示すさまざまな手法がとられたために生じたものだった。こうした「気前のよさ」を誇示する選挙運動の一つとして、「分配人」を介した選挙買収がある。同盟市戦争終結後、主にトリブス仲間に気前のよさを示すことでトリブス内で一定の影響力を獲得し、‘gratiosus’と呼ばれる者が急増した。その結果、彼らの影響力拡大を危惧しながらも、選挙で当選して自らの社会的地位を維持するために、金銭で彼らの支持を得るようとする元老院議員もあらわれた。こうして支持を集めた対立候補を非難するために「分配人を雇った」、さらに対立候補に協力する比較的社会的地位の低い‘gratiosus’を名指しで「分配人」と呼び、「分配人」という非難の呼称が生まれた。第2部では、カエサル独裁期、国家再建三人委員(いわゆる「第二次三頭政治」)時代の公職選挙が権力の統制下に置かれた過程を論じた。カエサルは、前49年末に独裁官に就任して以降、独裁官ないしコンスルとして、ケントゥリア民会とトリブス民会の主宰権限、公職選挙主宰権限を保持した。戦勝に際して、連続してコンスルに就任することとカエサルが公職選挙を主宰することを元老院決議で確認しながら、カエサルはコンスルとしての選挙主宰権限の保持と、これを行使し続けることを正当化していた。こうした選挙主宰権限の確保は、前44年、パルティア遠征の準備として事前選挙実施のために、終身独裁官就任と終身の護民官職権を獲得し、永続的なものとなった。同時に、アントニウス法により、コンスルを除く公職者の半数について、民会に代わって選挙主宰者から当選宣言を受ける者を選出する権限をカエサルは獲得し、選挙主宰権限と合わせて実質的な任命権が成立した。カエサルが公職選挙の結果に決定的な影響力を持ったことで、公職をめぐる競争は市民の支持獲得を目指すものではなくなり、カエサルから公職就任の約束を潜在的候補者と争うものとなった。公職就任を目指す者は、カエサルに与えられた内乱における軍事や内政の任務を果たし、カエサルから公職就任の約束を得ようと競争した。他方カエサルは、彼らの業績を評価し、彼らに公職を約束することで、カエサルは「カエサル派」の凝集とともに、公職をめぐる競争を自身の影響力の下に置こうと試みた。内乱を指揮する権限を掌握したカエサルの登場により、コンスル就任にもっともふさわしいとされた「軍隊指揮官」、そして内政に通じた「よき弁論家」の資質は公職階梯上昇においてより重要視されることとなり、カエサル独裁期の公職選挙は、内乱勃発以前と比較してより実力主義的な傾向を強めた。国家再建三人委員は、コンスル命令権、およびカエサルより広範な事実上の任命権を確保し、公職者選出に決定的な影響力を保持した。アントニウスとオクタウィアヌスはこれらの権限により、彼らへの貢献への報酬として、あるいは有能な人材を支持者とするために、公職を用いた。こうして、アントニウスとオクタウィアヌスは、カエサルを先例としながらも、公職選挙主宰権限と任命権とによって公職者選出とこれをめぐる競争を完全に統制下に置いた。第3部では、アウグストゥス治世に公職選挙がいかに運用され、アウグストゥスがこれにいかに関与できたか、そして関与したかを検討した。内乱終結後もしばらくの間は、オクタウィアヌス(アウグストゥス)はコンスル職とそれに付随する選挙主宰権限を保持し続け、その同僚コンスルは彼による事実上の任命によって選出されていた。しかし、選挙主宰権限をはじめとした権限確保のためのコンスル職の独占は、さまざまな政治的問題を引き起こし、また元老院議員の不満を蓄積させた。前23年、アウグストゥスはコンスルを辞任し、属州の軍隊指揮のためにすでに獲得していた市壁外で行使可能な命令権の行使可能領域を市壁内にも拡張することで、コンスルと同等の命令権を獲得し、同時に護民官職権を獲得した。アウグストゥスは、ローマの公職選挙が行われるすべての民会、すなわち、ケントゥリア民会、トリブス民会、平民会の招集権限、すなわちこれらの民会での選挙主宰権限を獲得し、公職に就くことなく、すべての公職選挙に選挙主宰者として決定的な影響を及ぼし得る権限を保持することとなった。公職者選出に決定的な影響力を獲得したアウグストゥスだったが、彼による公職者任命というかたちでの公職選挙への直接的な介入は極めて限定的な状況下でしか確認できず、むしろ公職選挙への介入にアウグストゥスは消極的だった。原則的に、アウグストゥスは公職選挙を都市民に委ねており、公職就任を目指す元老院議員たちに市民の前で競争させていた。しかし、支持獲得競争が過熱した混乱が生じた場合にはただちに介入し、公職者を任命した。こうした任命や任命のために、推薦権や任命権と呼びうる権限をアウグストゥスが有していたことを明示する史料もなく、アウグストゥスによる公職選挙への介入は、公職選挙主宰権限と権威(auctoritas)基づいてなされた行為だったと考えられる。後5年、予備選挙の導入により、ケントゥリア民会での公職選挙のあり方は大きく変化した。予備選挙の結果が公職選挙の結果に強い影響を持ったため、都市民に開かれていた支持獲得競争は徐々に元老院議員と騎士の中で繰り広げられることとなる。その結果、予備選挙と都市民の支持に大きな乖離が生じ、7年には都市民をも巻き込んだ混乱が生じた。こうした支持のズレを解消するため、アウグストゥスは予備選挙の結果に承認を与えるようになり、以後、コンスルとプラエトルの選出における都市民の選択の余地は事実上失われた。そして14年、アウグストゥス死去、ティベリウスの帝位継承に際して、公職選挙は事実上元老院で行われるようになり、民会はすべての公職選挙における選択の自由を失い、都市民を前に繰り広げられた共和政的な公職選挙は終焉を迎えた。以上の議論から、皇帝権力の成立と公職者選出のあり方の変容を並行して見た場合、ローマ皇帝は、コンスル命令権とこれに付随する公職選挙主宰権限に依拠して、帝国の統治と行政を司る公職権限の配分、さらにはそれにより公職を担う元老院議員の政治生命を左右することもでき、これにより帝国の統治に必要な権限と人材を統括し、その中心を担う存在として出現したと結論づけた。
著者
市来 弘志
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2013-10-10

本論文は五胡十六国時代における華北の遊牧民の歴史について、多角的に考察したものである。\第一部「五胡十六国時代民族史への視点――研究史」では五胡十六国民族史の研究史と諸先学の問題意識について述べた。\一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、多民族を包括する「帝国」としての清朝を、近代国民国家としての「中国」に改変するために、全く実態のない方便あるいは仮説的概念として提唱された「中華民族」論は、複雑な政治過程の中で次第にあたかも実態を持つかのように取り扱われ、晩年の孫文に至って大漢族主義と変わらぬものと成り果てた。当時の学術界にはこれとは立場を異にする顧頡剛のグループなども存在したが、結局費孝通によって集大成された「中華民族」論は、中華人民共和国の体制イデオロギーと化していった。費孝通は漢族と他の「少数民族」を対等の立場に置くと標榜して民族識別工作に従事したが、歴史観としてはやはり漢族に主たる地位を認め、大漢族主義への傾斜を拭い去れなかった。魏晋南北朝民族史研究においては、胡と漢に対等の歴史的地位を認め胡の側の主体性を重視する日本・韓国の研究に対し、中国の研究は胡漢の民族融合を認めながらも、あくまで漢の側が主であるという立場に固執する。このような大漢族主義的傾向は中国の最も良心的な研究者にもあり、民族に関する考え方が根本的に異なることが浮き彫りとなる。\第二部「五胡十六国時代前期における民族関係――冉魏政権をめぐって」では当時の激しい民族対立の例として、五胡十六国時代前期を代表する大国である後趙の末期に起きた、冉閔による胡人虐殺事件を中心に取り上げ、その背景及び冉閔政権の性格について検討した。\冉閔と冉魏政権の軌跡は、当時における胡漢の激しい対立を象徴するものであるが、同時に胡漢が入り乱れて単純に「胡漢対立」だけでは説明できないこの時代の複雑な状況をもよく示している。第四部で詳述するが、四世紀の河北地域は徙民政策により大量の胡人が居住し、人口の上では先住民である漢人を上回っていた。また胡人は鄴や襄国の周囲で牧畜を営み、農業は主要産業ではなくなっていた。胡人が後趙の政治軍事の主導権を握り支配者として君臨していたのは言うまでもない。当地の漢人の地位はあらゆる意味で大幅に低下していた。それ故に漢人の胡人への反発と敵意は反って激烈なものとなった。冉閔の胡人虐殺の背景にはこのよう\な状況があった。しかし当地の胡化・牧畜化という滔々たる流れはこの事件を経ても止まることはなかった。三五二年の時点において当地に漢人政権を存立させる社会的基盤は既に無く、冉閔の政権は短命に終わらざるを得なかったのである。\第三部「五胡十六国時代後期における遊牧民の活動――大夏と統万城」では、前秦崩壊後の五胡十六国時代後期を代表する大国の一つ大夏について、建国者赫連勃勃の築いた統万城を中心に歴史地理的観点から分析を加えた。\劉衛辰以来の匈奴鉄佛部と大夏国の軌跡は、四世紀以前は長城線周辺にあった遊牧民が次第に中国内地に進出し、先住の諸民族を征服支配していくという当時の趨勢の代表的なものである。劉衛辰から赫連勃勃にかけての匈奴鉄佛部・大夏国の軌跡を通観すると、関中平原を征服するまでは一貫して遊牧地区及び半農半牧地区を活動領域としており、中国本土に居住して長い南匈奴、羯、氐、羌とは明らかに性格が異なる。大夏は北魏と並んで、塞外の遊牧民が中国本土を征服統治した国である。大夏の発展は華北地域の胡化・牧畜化の深化を示すものである。\第四部「華北における牧畜民と牧畜業」では、華北に移住した遊牧民達が持ち込んだ牧畜業の影響および自然環境の問題について論じた。\この時代においては、黄河下流の河北、河西、黄河上流の関中など各地で牧畜民の進出と産業の牧畜化が進行していた。これは当時の気候変化の影響を強く受けたものだが、同時に牧畜民の進出は各地の自然環境を変化させていった。こうして華北各地の景観は次第に牧畜的なものに改変され、この地はさながら内陸アジアの一部と言って良い状態になっていった。自然環境・産業・景観までが様相を一変させていったのである\以上のように民族観、民族関係、政治、考古遺跡、牧畜業などの産業、自然環境など様々な角度から五胡十六国時代を論じてきた。全体として言えるのは、この時代を通じて「胡化」「牧畜化」現象が華北の政治・軍事・経済・社会・生活・自然環境・景観などあらゆる方面で進行し、それ以前とは全く異なる時代を生みだしていったことである。華北の各地各階層各方面に牧畜民の確固たる社会が成立し、従来の漢人社会と厳しい緊張関係を孕みながらも共存し、時に激しく対立しながらも相互に影響し合っていた。五胡と呼ばれる牧畜民は少数の「ゲスト」などではなく主人公であり、彼らの進出は一時的現象ではなかった。彼らは当時の情勢や環境に巧みに適応し、先住民である漢人の文化を吸収しながら、時代に即した政治制度や新しい産業形態、生活文化を発展させた。そしてやがて様々な文化が混じり合う中から、それ以前とは全く違う社会を作り出していく。五胡十六国時代を通じて華北社会は根本から変容を遂げたのである。
著者
上田 琢哉
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2016-04-21

井筒俊彦(1983)は和歌の分析から,わが国には,あえてぼんやりさせ,そこに存在の深みを感得しようする意識態度があるとし,それを「眺め」意識として提案した。これは通常の意識のあり方とは大きく異なりながら,しかも意識であることにおいては変わりがない,ユニークな様式の提案であった。本論文は,「眺め」という意識のあり方が心理療法という営みの本質的な理解に役立つものであることを事例研究によって実証するものである。本論文は全8章から構成される。第1章は,本論への導入として大きく問題提起をした。通常の意識は<分離し,はっきりさせる>働きを本質とし,われわれはそのような意識の機能を中心に生きることで様々なものを認識・理解・操作するようになった。それは科学的な思考法と結びつき,現在のわれわれの生活を極めて豊かに発展させた。一方で,そのような意識のあり方があまりに有効であったために,われわれはそれ以外の意識のあり方をまったく考慮できなくなってきている。その意識の偏りは,現代人の抱える心理的な問題と密接に結びついていることが推測される。よって,通常の意識とは異なる意識のあり方を,心理臨床学的な文脈において取り上げて検討する意義があると述べた。第2章では,まず本論の前提となるべき意識の基本機能をNeumann, E(1971)の『意識の起源史』をベースにしながら確認した。Neumannは世界の様々な神話や祭礼を分析し,人の精神発達とは,意識が無意識から明確に分離していくプロセスであることを明らかにした。そこからNeumannは,意識体系の本質が「距離をとること」,すなわち<分離し,はっきりさせる>働きにあるとした。この意識の基本機能は,体験的には「見る」ことによってもっとも直截的にもたらされる。本章では,様々な心理学的研究を引用し,「見る」ということが意識の最も重要な機能であり,人を人たらしめている事象であることを論証した。以上から,本論文では通常の意識のあり方を「見る」意識と表現した。 次に,井筒俊彦(1983)の『意識の本質』から「眺め」意識の定義を確認した。「眺め」意識とは,事物の「本質」的規定性を朦朧化して,そこに現成する茫漠たる情趣空間の中に存在の深みを感得しようとする意識主体的態度であることを述べた。それは通常の<分離し,はっきりさせる>意識とは異なるが,明確な自我の関与があり,また一つの方向性をもったものでもあることから,単なるもうろう状態や幻覚妄想状態とは明確に区別されることを示した。第3章では,和歌の中に「眺め」がどのように詠み込まれているかについて確認し,「眺め」意識の実相についてさらに詳しく論じた。もともとわが国には,梅雨時の長雨のときに「雨季忌み」する習俗があり,そこから転じて「長雨=ながめ」は禁欲時のもの思いを意味していた。しかし,新古今和歌集の時代になって,「眺め」は「本質」のもつ規定性を肯定しながら消去する手段として展開し始めた。すなわち,「眺め」には,「見る」ことで本質が明らかになってしまうことを避ける効果があり,結果的に,それは詩的情緒を含む一種独特な存在体験をもたらす意識態度となったのである。これらの経緯について,実際の和歌を引きながら説明した。続いて,和歌の分析から,「眺め」意識の特徴を三点指摘した。第一点は,「眺め」と「あくがれ」の親近性についてである。「あくがれ」とは,「魂が肉体から離れ抜け出すこと」,「何かに心奪われて,ぼんやりすること」などを意味する古語である。「眺め」と「あくがれ」が同時に詠み込まれている和歌の分析から,もの思いの実質的状態が「あくがれ」で,それを導く方法的態度が「眺め」と考えることができることを示した。第二点は,「眺め」が今現在の眼前の世界のことを歌ったものだけなく,むしろ未来や彼岸など現実にはない世界を想像して歌っているものに多いことを発見したことである。この点について,良経や西行の和歌を例に挙げ,「眺め」は<あちら>の世界へアプローチするための意識態度であることを述べた。第三点は,「眺め」は,その情趣を他者に共感してもらうことが重要であることを指摘した点である。山崎正和(2008)は,わが国ではあらゆる芸術表現が他者を前提として製作されており,和歌もまた歌集に収められることを前提としている点で同様であると述べた。これは西洋の芸術表現が,神との関係で,その美しさ自体を讃えることで完結し,他者への波及は二次的なものと考えられていることと対照をなしている。この山崎の論を援用して,「眺め」はもともと言語化しづらい情趣を他者に共感してもらうことによってはじめて成立する一種のコミュニケーションと考えられることを論証した。以上の三点は,当初の井筒の「眺め」意識では触れられていなかった点であり,本研究で新しく見出された特徴である。第4章は,本論文独自の観点として,日本人の石に対するかかわり方から「眺め」意識の実相を明らかにした。石を祀る神社の多さや石にまつわる神話伝説の豊富さなど,日本人が石に対して宗教的・美的観点から特別に強い関心をもっていることは明らかである。本章では,竜安寺や東福寺の石庭を例に挙げ,わが国の庭では石が極めて重要な役割を担っていること,かつ,そこでは石がわざわざ象徴学的な解釈や分析を拒むように配置されていることを示し,石は「見る」対象ではなく,「眺め」るために置かれているのではないかと述べた。これは石のもつ,言語化を拒むような複雑精妙なイメージをそのままに受け止める日本人の感性を示している。また上田(2010)やUeda(2012)は,わが国には石庭だけでなく,日常の町中にも分析的な態度を拒むようなありふれた石がよく置かれていることを見出した。これは,現代の日本人がいまだに「眺め」意識を大事にしている一つのあらわれであることを述べた。さらには,村上春樹(2005)の『日々移動する腎臓のかたちをした石』を取り上げ,現代の物語の中にも石と「眺め」の関係が描かれていることを示した。以上,本章では石庭の石,町中の石,物語の中の石などから,日本人が石に対して「眺め」るという態度で接しているものが多いことを論証した。さらに,石を「眺め」ることによって,非常に深い体験を得ていると推測できることも述べた。このような石に対する態度は,日本人の意識のあり方の特徴をなす点だと考えられる。第5章と第6章は,本論文の中心課題である「眺め」意識の心理療法における意義の検討をおこなった。第5章では,『内的なイニシエーションにおける「見る」ことの意味』(上田, 2009)で扱った強迫神経症の男性の事例を題材とした。本章では,永遠少年元型にとらわれたクライエントの夢に何度も現れた「見る」という行為の意味を中心に考察した。夢では,まず「見るなの禁止」を破ることによって母性の否定的側面を「見る」というモチーフがあらわれた。精神分析的には,このような幻滅を通して自立が達成されると考えられるが,実際の面接ではこの段階で問題が解決したとは言えなかった。面接が進むと,クライエントは「他者と一緒に海を眺める」夢を見た。この夢の後,症状は消失し,クライエントは社会へ参加することができた。本事例の経過から,「母なるもの」の力の強いわが国では,<分離し,はっきりさせる>すなわち,「見る」意識のあり方だけでは十分でなく,あきらめをベースにしてある情趣を感じ取る「眺め」意識まで獲得することが必要だったと考えられた。特に,本事例ではいったん西洋的な(厳しい)「見る」意識を経た後,「眺め」意識を獲得したことが重要であったことを述べた。第6章は,『中年期のイニシエーションのあり方を考える』(上田, 2012)で取り上げた女性の事例を題材とした。クライエントは中年期にあって,これまでとは違う新しい意識のあり方を取り入れる必要に迫られていた。これは<あちらの世界>への移行というテーマとして箱庭によって繰り返し表現された。このテーマに対して,最初は「移行する先」(あちらの世界)に何があるかが重要だった。しかし,クライエントにとってそのような「明らかにしようとする意識」は先の問題について十分な納得を与えることができるものではなかった。クライエントは終盤の箱庭で,<あちら>岸にマリア像を置き,橋を架けて渡ることができるようにした。しかし,結局納得できず,次の回にマリア像を一輪の小さな花に置き換え,それを「何かあるというサイン」だと表現した。それは単にあいまいにするということではなく,むしろ<あちら>への移行を支える大きな決断であったことがわかった。考察では,本事例のプロセスが「見る」意識から「眺め」意識へという構造の中で理解できることを示した。第7章では,これまでの議論をふまえて,「眺め」意識のもつ心理臨床的な意義とその独自性を整理した。第7章第1節ではクライエントの獲得すべき新しい意識という観点から,「眺め」意識がもつ心理臨床的意義をまとめた。本論文の事例と議論を通して,「眺め」意識には強すぎる「見る」意識の一面性を補うという治療的意義があることがわかった。この「眺め」意識のもつ「意識の一面性を補う」という働きは,Jung, C.Gの補償とは異なる仕組みであることも説明した。第7章第2節ではセラピストの治療的態度という観点から,「眺め」意識のもつ心理療法上の意義をまとめた。これは,第一に,症状に対する「眺め」と表現できるもので,当の問題に対する,焦点を当てないでぼんやりとした受け方を意味するものである。この治療的態度は,森田療法の「不問」やJohn Keatsのnegative capabilityと近いものであることを述べた。第二に,北山修(2005)の「共視」という概念を援用して,「ともに眺めること」に含まれる治療的意義を論証した。これは第3章で,「眺め」が他者からの共感を得てはじめて成立すると指摘した点と軌を一にしている。また,セラピストの態度としての「ともに眺めること」は,箱庭療法がわが国で極めて発展したことと関係があると考えられることを示唆した。本章のまとめとして,「眺め」意識は,クライエントの症状理解やセラピストの治療技法という面から心理療法における重要な問題を解く鍵となりうる可能性が示唆された。第8章は,本研究の現代的意義を論じて結論とした。「眺め」意識をめぐる問題は,事例の個別性を越え,現代人の抱える共通の心理的課題を示していると考えることができる。これについて,近年急速に発達した「新型出生前診断」の問題を取り上げて論じた。診断とは「知る」こと(すなわち「見る」意識そのもの)だが,それを推し進めていって解決しない問題があることにわれわれは気がつき始めているのである。ゆえに,現代人の共通の課題は,非常に強力にわれわれを支配してきたこれまでの<意識パラダイム>からはずれた,新しい意識のあり方を模索することだと言うことができる。本論文では,「眺め」意識にその新しい可能性を探ったのである。ただし,真の問題は,「眺め」意識が重要だと言って,単純に通常の意識の働きを否定したり,後戻りするわけにもいかないということにある。本研究で重要な知見は,事例研究によって,単なる古代的な「眺め」意識に戻ることより,それを獲得するプロセスが重要であったことを見出した点にある。なにより,そのプロセスには共感してくれる他者が必要だったのである。ここに,心理臨床学的な観点から「眺め」意識を検討したもっとも重要な意義あると考えられる。
著者
金子 龍司
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2019-03-01

本稿は、レコード、映画、舞台興行、ラジオなど、1920年代以降の都市化とともに勃興・発達した大衆娯楽に対する統制を考察する。時期は日中戦争開戦前後から日本政府による統制が廃止される1945年10月前後までとする。方法としては、政府機関による娯楽統制や個々の措置が立案され講じられるまでの力学をたどり、その効果や影響を検証する。これにより、日本政府による娯楽統制のあり方に一定の見通しを与えることを目的とする。本稿が特に注目するのが、流行歌をはじめとした音楽を対象とした統制である。理由は、音楽は映画や舞台興行など他の視聴覚メディアと比較して再生が容易なため(ラジオ、レコード、実演に加え、子供から大人までの消費者による歌唱など)、人々への浸透性が高かったと評価できるからである。研究史を踏まえたうえでの本稿の課題は、以下の4点である。1.娯楽統制に関わる主体相互の力学の解明:90年代以降の先行研究において、戦時下の娯楽には、官僚、業者、製作者、観客、教育者など様々な主体が関与したことが明らかになっている。しかし、各主体間の力学に対しては関心や分析が十分及んでいないため、統制については2010年代に至っても政府対業界という固定的で二項対立的な図式で解釈がされることがある。そのため、各主体がどのように統制に関わっていたか力学的に考察し、二項対立的な図式の有効性を検証する必要がある。2.統制に対する娯楽の受け手の動向の解明:統制に関与した主体のうち、聴取者・観客など娯楽の受け手は、現在までほとんど分析が及んでこなかった。しかし、彼ら受け手は新聞雑誌や当局に対して投書を通じた意見表明を行い、統制に少なからぬ影響を及ぼしていた。このため、彼ら受け手の動向を注視して考察を進める必要がある。 3.当局の受動的な態度の解明:本稿が注目する戦時下の娯楽は、1920年代に勃興した新興メディアであり、当局の関心もさほど高くなかった。それゆえにこそ、上記2.で述べたように受け手の動向が統制に影響を及ぼす余地も生じていた。言い方を変えれば、娯楽統制は、受け手によって問題視され社会問題化した事象に対して当局が事後的に火消しをする程度で当局内でも社会的にも許容されていたことに大きな特徴があった。しかし、この点は先行研究で十分に検討されているとはいえない。 4.敗戦直後の日本政府による娯楽統制の動向の解明:日本政府による娯楽統制は、敗戦後45年10月まで存続していたが、先行研究において8月以降の動向はほとんど明かにされていない。しかし、該時期は戦争末期以来の国家存続の危機が続いていたことから、この極端な状況で娯楽に期待された役割を確かめることにより、日本政府による娯楽統制の特徴を考えるうえで多くの示唆が得られるはずである。 以上の課題を念頭に、本稿は以下の章立てで構成する。「第一章 検閲官の思想と行動‐警視庁保安部保安課興行係の場合‐」:警視庁の興行統制に注目し、総論的に検閲官とはどのような人たちであり、娯楽に対する検閲や取締りがどのように行われていたか論じる。検閲官たちの発想は「芸術至上主義」と教養主義を柱としており、大衆娯楽を弾圧しつつも、軍部に対して演劇を「保護」する役割をも果していた。 「第二章 「民意」による検閲‐『あゝそれなのに』から見る流行歌統制の実態‐」:1936年発売の大ヒット流行歌『あゝそれなのに』の取締り過程に注目し、流行歌の取締りが受け手―具体的には「投書階級」と呼ばれた中間層の意向に規定されていたことを明らかにする。 「第三章 日中戦争期の「洋楽の大衆化」と「洋楽排撃論」に対する日本放送協会、内務省の動向」:日中戦争期に人気を博して「大衆化」した「洋楽」に対する排撃論と、これへの当局の対応に注目する。内務省と日本放送協会は、日本主義と結びついて影響力を増した「洋楽排撃論」に対応せざるを得なかったが、決して「洋楽」排撃論者の言いなりになるのではなく、むしろそれぞれの方法によって「洋楽」を排撃論者たちから保護しようとしていた。 「第四章 太平洋戦争期の流行歌・「ジャズ」の取締り―音楽統制の限界―」:1941年の太平洋戦争勃発以後の流行歌や「ジャズ」を始めとした音楽の取締方針の厳格化とその実態を明らかにする。当局はたしかに取締りを強化したが、実態としては音楽の取締りは技術的に困難であり、最も取締りが強化されていた1944年頃でさえ、これを貫徹させることはできなかった。 「第五章 太平洋戦争末期の娯楽政策‐興行取締りの緩和を中心に」:サイパン陥落後に成立した小磯国昭内閣の娯楽政策に注目する。戦局が絶望するなか、小磯内閣は戦争を支える下層階級の戦意高揚のため、従来、中間層の意向を踏まえて強化してきた大衆娯楽の取締りを一転して緩和し、さらに奨励した。しかし、娯楽の享受の前提となる国民の生活基盤は、多くが空襲の激化とともに徹底的に破壊されたため、政策の所期の目的の達成は困難だった。 「第六章 敗戦直後の娯楽政策―東久邇宮内閣期を中心に」:敗戦直後の日本政府による娯楽政策に注目する。8月15日に天皇から国民に対して敗戦が告げられても、大日本帝国の国家存亡の危機は依然として続いていた。このとき、天皇および宮中グループは、国民の批判の矛先が天皇に向かないようにするため、「仁慈」として灯火管制の解除・私信の検閲の停止とともに娯楽の復活を講ずることを東久邇宮首相に指示した。本章は、これを受けた東久邇宮内閣の娯楽政策とその効用を、GHQによる娯楽政策とも対比させつつ論じる。 終章では、本稿の結論として、先にあげた本稿の4つの課題を念頭に、議論を整理して日本政府による娯楽統制の特徴と問題点を指摘する。娯楽統制の特徴としては、①統制の対象となった映画、ラジオ、レコード、娯楽興行は当時としては新興のメディアであったため、取締官庁であっても管理職クラス以上の役人の関心が薄かったこと、②各官庁は、それゆえに実務には専門職的な検閲官を配置して大きな裁量を与え、世上問題化した事案を場当たり的に取り締まるだけで良しとする受動的で「緩い」運用へと傾いていたこと、③したがって中間層が統制に容喙し、当局をして取締りを強化させる余地が存在していたこと、④ただし、戦争末期以降は統制方針が一変し、戦争遂行や秩序維持の観点から下層階級に受け入れられる大衆娯楽が奨励されたことなどを指摘する。また、上記の特徴を有する体制から生じた問題としては、統制の不公平さ―たとえば、世上問題となった有名人だけ取り締まられるなど―をあげる。こうした不公平さは、検閲官に大きな裁量が与えられた反面、再審制の導入などのチェック機構の整備が必ずしも充分でなかったことや、検閲官に場当たり的な対応が許容されていたことから生じていた。検閲を受ける側にとっては、こうした不公平感が検閲に対する怨恨へとつながった。従来の研究の多くは、彼ら被害者の証言を引用することで、検閲当局と被害者との二項対立の図式を再生産してきた。本稿が指摘したのは、こうした検閲官たちの不公平な取締りを可能にし、それを支えた構造であった。
著者
張 明
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2019-03-31

本研究は現代日本語における字音接辞を研究対象とし、連体詞型字音接頭辞というグループを中心に、その造語機能を記述するものである。 第1部では、準備段階として、基本概念である「字音接辞」「造語機能」について述べる。 第1章では、字音接辞の内包的定義の規定を行う。本研究は、字音接辞であるかどうかについて、「何と結合するか」ということを重視し、「すでに存在する、和語・外来語の語基、および、字音複合語基、そして、それらの結合形に、前部分あるいは後部分から結合する、字音形態素」を「字音接辞」と規定する。また、現代日本語の語構成意識を重視し、二字漢語を単純語として取り扱い、二字漢語を構成する一字漢語は接辞と見做さない。 第2章では、字音接辞の分類を行う。本研究は国語辞典7種を参照し、そこに挙げられている用例に基づいて字音接辞を選定する。字音接頭辞は「①名詞型」「②形容詞型」「③連体詞型」「④副詞型」「⑤動詞型」「⑥助動詞型」「⑦助詞型」「⑧接続詞型」の8種に分類する。字音接尾辞は大きく「①名詞型」「②動詞型」「③助詞型」「④品詞分類ができないもの」の4種に分類する。そのうち、「①名詞型」は更に「ア.もの性」「イ.こと性」「ウ.ひと性」「エ.ところ性」「オ.組織性」「カ.とき性」の6種に細分類する。 第3章では、字音接辞が持つ造語機能について述べる。先行研究にしたがい、字音接辞には、結合機能・意味添加機能・品詞決定機能・文法化機能の4つの造語機能があることを認める。本研究の研究対象である「連体詞型字音接頭辞」は、結合機能と意味添加機能しか持たないため、それぞれの連体詞型字音接頭辞が、どのような語基と結合し、どのような意味用法を持っているのかということを中心に記述することを確認する。 第2部では、連体詞型字音接頭辞の造語機能を具体的に記述する。個々の連体詞型字音接頭辞の記述に入る前に、第4章で、連体詞型字音接頭辞全体について説明する。次に、第5章〜第16章で、個々の連体詞型字音接頭辞の造語機能の記述を行う。 第4章では、まず、第2部の研究対象とする連体詞型字音接頭辞には、「亜」「一」「各」「旧」「現」「原」「故」「後」「今」「昨」「准」「準」「諸」「助」「正」「先」「前」「全」「総」「続」「他」「当」「同」「当該」「半」「汎」「副」「某」「本」「毎」「明」「翌」「来」「両」の計34あるということを確認する。次に研究方法として、第3章で述べたように、連体詞型字音接頭辞がどのような語と結合するか(結合機能)、連体詞型字音接頭辞自体がどのような意味を表すか(意味添加機能)という2つの造語機能を中心に、個々の連体詞型字音接頭辞の記述的研究を行うということを述べる。用例は基本的に『現代日本語書き言葉均衡コーパス』(BCCWJ)から用例を集めるが、『ヨミダス歴史館』や、テレビ番組、ウェブサイトなどを補助的に利用する。第5章では、「本法律案」「当委員会」のように、直示と前方照応両用法を持つ「本」と「当」の記述を行う。第6章では、「同病院」「同事務所」のように、前方照応的用法を持つ「同」の記述を行う。第7章では、「某大学」「某メーカー」の「某」のように、不定機能を持つ「某」の記述を行う。第8章では、「全国民」「総人口」のように、「すべて」を表す「全」と「総」の記述を行う。第9章では、「両手」「両チーム」のように、「二つの」を表す「両」の記述を行う。第10章では、「各地域」「毎日曜日」のように、「それぞれ」を表す「各」と「毎」の記述を行う。第11章では、「現政権」「今世紀」のように、「現在」を表す「現」「今」の記述を行う。第12章では、「前首相」「旧ソ連」「昨年度」「先場所」のように、「過去」を表す「前」「旧」「昨」「先」の記述を行う。第13章では、「翌年度」「来シーズン」「明十五日」「後半生」のように、「未来」を表す「翌」「来」「明」「後」の記述を行う。第14章では、「副社長」「助監督」「半導体」「準決勝」「准教授」「亜熱帯」のように、「不完全」を表す「副」「助」「半」「準」「准」「亜」の記述を行う。第15章では、「当該チーム」「当該列車」のように使われる二字字音接頭辞「当該」の記述を行う。第16章では、「その他」(「一会社員」の「一」、「原材料」の「原」、「故ダイアナ妃」の「故」、「諸外国」の「諸」、「正社員」の「正」、「続群書類従」の「続」、「他地域」の「他」、「汎スラヴ」の「汎」)の記述を行う。終章では、論文全体を総括し、今後の課題について述べる。
著者
村上 佳恵
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2015

日本語日本文学
著者
海老名 尚
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
1997-03-31

史学
著者
多和田 真太良
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2017-03-31

「ハラキリ・フジヤマ・ゲイシャ」はどこから生まれたのか。武士は海外で切腹したのだろうか。富士山はどこに描かれたのだろうか。芸者はそれほど海外に進出していたのだろうか。総てを海外の劇場の舞台の上で演じ印象付けたのは、日本人自身である。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、欧米では「日本」を題材にした数多くの舞台作品が製作された。徳川幕府の鎖国が解消されると、日本の絵画や調度品がヨーロッパのあらゆるジャンルの文化を刺激し、ジャポニズムが生まれた。そもそも19世紀後半、西洋に模倣された日本人は誰だったのか。初期ジャポニズム演劇の特徴は派手な衣裳、アクロバティックな動き、日本の歌舞音曲をイメージした音楽である。幕府末期に世界中を視察して回った数々の遣欧、遣米使節団は、当時の新聞にも大きく取り上げられた。しかし彼らのいでたちは地味で、顔は浅黒い。このイメージが反映されているとは考えにくい。海外への渡航が許されるようになると多くの軽業師や手品師など、芸人一座が瞬く間に世界進出を果たした。彼らの巧妙な技芸は欧米の人々を魅了し、まだ新しい娯楽だったサーカスに強い影響を与えた。突如として街中に現れ、大衆の生活文化に浸透した「日本」や「日本人」の姿は、やがて演劇や音楽として「模倣」され、数多くのジャポニズム演劇を生み出した。直接的な利害関係のない、「どこにもない国」として描かれた日本は、次第に風刺劇のための架空の世界として利用されるようになる。1885年3月、イギリスのサヴォイ・オペラでは、喜歌劇『ミカド』が大ヒットとなる。中世の封建社会の中で描かれていたのは、1月にナイツブリッジに開場した日本人村で見かける日本人たちを彷彿とさせる衣裳で歌い踊る「日本」の人々だった。この舞台の成功は、観客が「日本らしさ」を享受できたことだと言われている。しかし外見的特徴だけを忠実に再現して、突飛な物語を展開しても観客は同調しない。作者ギルバートは、あえて「架空の国」に仕立て上げ、物語のリアリティと劇の虚構性との距離感を精密に計算していた。じつはこれまで多くのジャポニズム演劇は、その奇抜で日本人には受け入れがたい「誤解」と「反発」から存在自体を顧みられてこなかった。それは世界的に名声を博しているオペラ『蝶々夫人』も例外ではないが、これらの作品に系譜があることは知られていない。日清、日露戦争を経てジャポニズム演劇は「喜劇」から「悲劇」へと転換する。決して「どこにもない国」ではなく、着実に欧米社会に脅威となりつつあった日本は、欧米の帝国主義的な世界観の中では、支配される側でなくてはならなかったのだ。『ミカド』と『蝶々夫人』の間には『ゲイシャ』という中間的な存在があり、「日本」のイメージの変遷を語るには欠かせない。支配する男性=西洋と、支配される女性=東洋の構図はロティの『お菊さん』から『ゲイシャ』、『蝶々夫人』へと続く潮流となるが、一方でジャポニズムへのあこがれは「日本人の身体」「美意識」といった領域へと深化していく。川上音二郎の「ハラキリ」や、貞奴の「狂気」や「死」の描写は、日本人特有の身体性として模倣され、表象されていく。 また一方で、能の流入は、テキスト重視の西洋演劇が失った始原的なものを想起させ、イエイツをはじめとする能の形式の模倣が行われるようになる。演劇が「模倣する」芸術である以上、その対象は共有できるイメージを持った存在でなくてはならない。「日本らしさ」を表現するために取り入れられたものとして、視覚的要素(舞台装置・衣裳)に加えて、聴覚的要素(セリフ・音楽)に注目したい。舞台上に登場する「日本語」は単なるでたらめではなく、文脈に沿ったものや、音声としてそれ自体が「日本語」の表象になっているものもある。日本語の使用不使用によって舞台の日本に対する印象も変わるのである。母音を多用し、長音や促音をほとんど用いない単語はより日本的なイメージを醸し出す効果を生んでいることが分かる。その一方で、日本語を観客が聞いたことがない場合や、作者が日本語に習熟し思い入れが強い場合のいずれも、日本語は使用されていない。『蝶々夫人』を生み出したアメリカでも『ミカド』をはじめ、ジャポニズム演劇は人気を博した。しかし大国としても多民族国家としても成長しつつあったアメリカにとって、人種差別と演劇は切り離せない。白人が「黒人」を演じるミンストレル・ショー、白人が黄色人種を演じるイエローフェイスは、アメリカ固有の演劇と言っても過言ではない。特にイエローフェイスは、中国人移民の台頭著しい西海岸側での黄禍論を象徴するフリスコ・チャイニーズ・メロドラマというジャンルを生み出した。「陽気で知恵が足りない、幸せそうな」ミンストレル・ショーのブラックフェイスとは対照的に、「狡猾で性悪な」イエローフェイスがステレオタイプ化する中で、『ミカド』の果たした「日本」のイメージの区別化は大きかった。川上音二郎一座が経済的には苦境に立たされながらも、黄禍論的排他姿勢をそれほど受けずにブロード・ウェイで受け入れられたのは、偶然ではない。 また、初期のジャポニズム演劇として名を残すフランスの作品『麗しのサイナラ』も、ブロードウェイで少なくとも2回はリニューアルされ上演された。「サイナラ」3作を比較しながら、この作品の魅力に迫るとともに、デイヴィッド・ベラスコが小説『蝶々夫人』の劇化には、当時のブロードウェイにおけるジャポニズム小説のセンチメンタリズムや、ジャポニズム演劇のリバイバルが複数行われていたことなど、ジャポニズム演劇に注目することで、時代の空気を読み解くことが出来る。ここに満を持した形で登場した川上一座の歴史的なタイミングの良さが、その後の20世紀演劇全体に強く影響を及ぼすこととなる。20世紀の幕が開け、新たな芸術への模索が始まった時期に登場したのが川上音二郎と貞奴の一座である。彼らの表現は、西洋にとっての他者として「観られる」ことを常に意識したものであった。それはかつて開国直後に「日本」のイメージを植え付けていった軽業芸人一座や日本人村の人々と同じまなざしである。常に彼らにはテキストを身体の動きで表現しようとする原理があり、それはテキストからの脱却を図ろうともがいていた20世紀の前衛芸術家たちに強い衝撃を与えることとなった。常に躍動的な変化を続けてきたジャポニズム演劇の変遷を追うことで、表象することの原理を探ることが出来るのである
著者
砂澤 雄一
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2014-03-31

マンガ研究において、改稿の有無を確認しどのテクストをもって定本とするかは研究の第一歩である。改稿データを研究者が共有し、客観的に妥当だと認められたテクストを策定する作業は、今後のマンガ研究において欠くことのできない重要なステップであると考える。本稿ではこうした基礎研究を「生成論的研究」と位置づけ実践するとともに、今後の多くのマンガ研究で行われることを提唱するものである。\n\n宮崎駿の唯一の長編マンガ『風の谷のナウシカ』(以下『ナウシカ』と略す。アニメ版の同名作品を指す場合はその都度「アニメ版」と付す)は、「アニメージュ」連載時と「アニメージュコミックスワイド版」刊行時との間に相当数の異同が見られる。また、「腐海は、人類が汚染した大地を浄化するために生まれた生態系」というアニメ版のコンセプトが、マンガ版では相対化され、「腐海は、旧人類が人工的に作り出した清浄化システムであった」というものに変更されている。これは、読者の意表を突く「どんでん返し」だった。\n本稿は、改稿分析を通じて「改稿はなんのために行われたのか」と「〈どんでん返し〉を宮崎駿は何時の時点で着想したのか」という二つの点について考察することを目的としている。\nこのことについて、第1章では執筆経緯と当時の世界情勢、先行作品や後続作品との影響関係を、第2章では第1巻から第7巻までの具体的な改稿箇所を、第3章では先行論文について検証し分析した。\n \n『ナウシカ』は、1982年2月号から1994年3月号まで足かけ13年連載された。連載時には国内外で世界史的な出来事が立て続けに起こった。1986年4月チェルノブイリ原発事故、1989年1月昭和天皇崩御、2月手塚治虫死去、6月天安門事件、11月ベルリンの壁崩壊、12月冷戦終結、1990年10月東西ドイツ統一、1991年12月ソ連邦崩壊、1992年ユーゴスラビア解体などである。宮崎に最も大きな衝撃を与えたのはユーゴスラビア紛争であった。「人間は同じ過ちを何度でもする」と痛烈に感じたからだ。それは1983年に亡くなった母・美子の口癖であった「人間はしかたのないものだ」を思い出させた。母の言葉は、尊敬する司馬遼太郎と堀田善衛によって「人間は度しがたい」という言葉に昇華される。『ナウシカ』を終わらせようという時期に宮崎は〈マルクス主義をはっきり捨て〉、〈人間は度しがたい〉という〈ごくあたりまえのところ〉に〈もう一度戻〉った。それは母と同じ場所に立つことでもあった。\n この宮崎の内面の変化に呼応するように、作品内の時間の在り方も変化していった。初のオリジナル作品であった『砂漠の民』(1969-1970)は、ソクート人がどのようにして滅んでいったかを主人公テムの目を通して描かれている。父、親友、好意を寄せる少女、尊敬していた師が次々と殺されていくというかなり惨い物語である。『砂漠の民』は、予告編の段階ですでにソクート人が滅びることを告げており、時間は「滅び」へ向かってリニアに流れていた。\n1978年、宮崎が実質的に初監督をつとめたテレビアニメ『未来少年コナン』では、最終戦争後から物語を出発させるという変化が見られる。しかし、直線的に時間が進むという構造は『砂漠の民』と変わらなかった。ところが、1983年に刊行された『シュナの旅』に流れる時間はそれまでのものとは違っていた。〈いつのころからか/もはや定かではない/はるか昔か/あるいはずっと/未来のことだったか〉という書き出しで始まるこの作品では、時間は確定されていない。それは過去か未来かも定かではない。これは『ナウシカ』の描く世界が、産業革命を起点に考えれば西暦3800年くらいの未来を描いているにもかかわらず、その風俗が現代から見て過去のものに見えるという設定に通じる。\n 『ナウシカ』の連載後に制作された短編アニメ『On Your Mark』の絵コンテには〈永劫回帰シーン〉というメモが見られる。円環する時間の流れへの変化は、先に述べたマルクス主義を捨て生活実感に根ざした身体的思想とも言うべき境地に戻った宮崎の航跡と重なる。\n\n 『ナウシカ』のマンガ表現上の特徴は、コマ割が細かくコマ数が多いことにある。大ゴマが少なく、あったとしてもキャラクターのアップは少ない。ページ全体のレイアウトよりもコマの完成度に重きを置いている。「漫符」の使用頻度は低く、使われるものも限定的である。「光芒」と「集中線」の使用の多さは、『ナウシカ』が〈気づきのマンガ〉であることを示している。「音喩」については、コマを跨いだりするものはなく抑制的である。また音喩が描かれるレイヤーの位相が、一般的なマンガによく見られるように一番読者側にあるわけではないという特徴がある。音喩については宮崎独特の文法が存在するように感じられる。\n \nコミックス刊行時に行われた「加筆」「さしかえ」「描き直し」「挿入」「台詞等の変更」の5項目の改稿についての分析の結果は以下の通りであった。\n「加筆」は、改稿の中で最も多いものだが、その主な要因は連載時の描き込み不足を補うものであった。背景が緻密で情報量が多い、と言われることの多い『ナウシカ』であるが、連載中には緻密な描き込みができずにそのまま掲載された場合が少なくない。ただし、後半に見られる「加筆」には「血糊」を意図的に増やすなどの演出上の要請から行われたものが見られる。\n 「さしかえ」は、視線誘導に関係する可能性が高いもので、その意味で既成のマンガ文法との関係が問題になる改稿でもある。しかし、結果的に視線誘導の大幅な変更は見られない。\n 「描き直し」も同じ構図の絵であるために視線誘導の変化には関与しない。ただし、同じ絵をわざわざ描き直すために物語内容に対する作者の何らかの特別な意図が感じられる改稿である。「描き直し」は第7巻に多く、「庭の主」との対決の場面などに顕著である。\n 「挿入」はページ毎のものが多く、結果的に視線誘導に絡む場合は殆どない。挿入されたページもその他のページと同様で、特にコマ割に変化が見られるわけではない。挿入については第4巻の挿入が特徴的である。粘菌兵器のエピソードをかなり前倒しして投入したり、クシャナの母にまつわるエピソードを新たに入れたりしており、作品全体の構成が固まりつつある時期との関連が窺われる。\n 「台詞の変更」はコマ割に関わらないが、物語の内容に大きく影響を与える重要な改稿の一つである。特に第7巻に多い。これは「墓所の主」との対決の場面に見られ、挿入された新たな台詞と共に、宮崎が連載終了後にもこの場面を深化させようとしていたことが窺える。\n 以上の分析から、『ナウシカ』における改稿が「読みにくく」しているものかどうかについては、少なくとも「読みにくく」はなっていないという結論に達した。ただし、既存のマンガ文法に従う形で改稿が行われているとは考え難い。したがって既存のマンガ文法には従っていないものの、結果としては物語の展開が理解しやすくなり読みやすくなっているという場合が多い。強いて言えば「読みやすく」はなっていないとしても「わかりやすく」はなっていると言えそうである。「読みやすさ」は表現論的な分野に関わりが深く、「わかりやすさ」は物語論的な分野に関わりが深いという予感がするものの、今後の課題としたい。\n\n先行研究を「表現論的分野」「物語論的分野」「倫理の問題」の3分野に関して分析し、あわせて手塚治虫との関係について検証した。\n 表現論的な研究では阿部幸弘と久美薫を取り上げた。阿部は、『ナウシカ』が後半読みやすくなるのは宮崎が自身で作り上げようとしたオリジナルのマンガ文法が次第に機能するからだと述べている。久美薫は、映画の場面のつなぎ方の分析を援用し、後半読みやすくなるのはコマ割というよりはコマのつなげ方が巧みになるからであると述べている。その方法は映画的とも言え、この点を夏目房之介は「アニメからの逆輸入」と呼んでいる。\n 物語論的な研究では小山昌弘の「語り」の見地から分析した論考を取り上げた。小山は『ナウシカ』にナレーションが少ない理由と、その代替としての登場人物の内語について分析している。小山も『ナウシカ』は読みにくいが後半読みやすくなるとして、その理由をマンガ文法に従うようになるからだとしている。もっともコマ割自体は変化せず、最後までコマ数は多いままだとも述べている。\n 倫理の面から稲葉振一郎と夏目房之介を取り上げた。稲葉は『ナウシカ』における「青き清浄の地」が、実在するがたどり着くことのできないユートピアであるという点でノージックのユートピアの「枠」を超えた存在だと論じた。夏目は戦後マンガに流れていた手塚治虫的「生命倫理」が引き継がれている作品として『ナウシカ』を見ている。宮崎駿は手塚治虫の継承者だったというとらえ方である。\n『ナウシカ』における「どんでん返し」の時期について、久美はそれを『紅の豚』制作時、ユーゴスラビア紛争の時期と見、稲葉は冷戦構造が解消した時点と見ていた。二人ともその時点から宮崎が、『ナウシカ』の結末を変更せざるを得ない思想的立場に立ったと分析した。\n 以上の分析から、改稿の多くは連載時に十分時間をかけられなかった部分を補筆する形で行われているが、第4巻においては、全体像がほぼ固まった時点から遡って行われており、作品全体の整合性を保とうとしている様子が窺えること、また、改稿は一般的なマンガ文法にはよっていないため、必ずしも「読みやすく」はなっていないが、物語の内容的にはより深まりかつ理解しやすくなっているという結論を得た。\n 全体的な構想がまとまった時期は、第4巻の刊行時の1987年中頃にかけて、「どんでん返し」については第5巻の改稿が行われた時期に着想されたと考える。ただし、『シュナの旅』には『ナウシカ』における「庭」や「墓所」に相当する場面が登場するため、1983年頃には大本になるアイディアはあったと考えるべきである。また、「人間はしかたのないものだ」という母の考え方に、ユーゴスラビア紛争の激化に伴って戻ったと見ることもできる。1983年の『シュナの旅』刊行と母の死、1986年のチェルノブイリ原発事故、1991年からのユーゴスラビア紛争の激化などの要素が「どんでん返し」に至らせたと考えるのが妥当であろう。\n\n 最後に「文化人≒思想家」としての宮崎駿と、「町工場のオヤジ≒職人」としての宮崎駿の関係について検証した。宮崎は自ら「文化人ではなく町工場のオヤジでいたい」という旨の発言をしているが、結果として「文化人」と見なされることで、アニメ制作に好都合な面はあった。宮崎を、当初から「作家」として扱おうとしたのは1981年にアニメージュで「宮崎駿特集」を組んだ当時の編集部、とくに鈴木敏夫であった。大人数で制作するアニメにおいて「作家性」を強調し、宮崎駿の特異性をアピールした。鈴木は1982年当時、仕事らしい仕事のなかった宮崎に『ナウシカ』の執筆を勧め、連載が決まると『ナウシカ』のタッチを「読みにくい」ものにし、連載が危うくなると鉛筆での執筆を勧めた。鈴木は、宮崎にアニメを制作させるための一段階として、既存のマンガ文法によらないオリジナルマンガを描かせようとしたと見ることもできる。『ナウシカ』の成立には鈴木敏夫が大きく関与しているのである。 \n\n 今回本稿で行った『ナウシカ』の改稿分析が、基礎資料として『ナウシカ』研究の進展に寄与することと、「生成論的研究」が今後のマンガ研究において基礎研究の方法として定着することを望む。
著者
山田 歩
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2013-05-16

自分の選好や感情がどんなことに左右される傾向があるのか,また実際にどんなことから影響をうけているのか正確に把握することは,人びとが社会生活に適応するうえで欠かせない。対象への好みや評価が望まざる影響を受けていることがわかれば,そうした影響を取り除くことができるし,自分の喜びや満足にとって何が重要なのかを知ることで,よりよい決定を行うことができる。しかしながら,選好や感情はしばしば自覚することが困難な要因によって左右される。これらを正確に理解あるいは予測することは容易とはいえない仕事として意思決定者にふりかかる。本論文では,意思決定場面を中心に,意思決定者がどのように自身の感情を予測したり選好の原因を帰属したりするのか,その推論を方向づける要因を明らかにすることを目的に四つの研究(計 6 件の実験)を実施した。\ 第 2 章では,選択肢の属性の言語化の容易さが選好の推論に与える影響を検討した。思考や感情を表現する言葉が容易に利用できるほど,自身の選好や態度を明確に表現することができる,あるいは正確に分析することができるという暗黙の想定に反して,研究から得られた結果からは,言語化の容易な性質が多く含まれる選択肢については,たしかに好みの理由を記述することが促進されるが,それは表面的な理由が案出されているにすぎないことが確認された(研究 1 ・研究 2 )。つまり,人びとが自身の選好を意識的に推論するとき,言葉にすることが容易な特徴があると,それらは,正確であるかないかにかかわらず,何かしらの理由を作り上げることを“助けてしまう”。分析者の好みを的確に反映しているわけではないため,これらの理由に基づいて行われる決定や選択は当人にとって最適あるいは最善ではない帰結をもたらす可能性があることが示唆された。また,研究 1 で用いた具象画が好きな理由と嫌いな理由のどちらを記述することも容易であったのと対照的に,研究 2 で用いた Pepsi が好きな理由についてのみ記述が容易であったことを考慮に入れると,言語化のしやすい目立った特徴はどんな理由の記述も促進するではなく,その特徴が選好にどのように影響するのかについて分析者がもつ素朴理論や生理的な嗜好に沿って,理由の記述に利用されることも示唆された。\ 第3 章では,もっともらしい理由の利用可能性が選好の推論に与える影響を検討した。意思決定者が,選択肢に対する評価や好みがどんな要因からどのような影響を受けていると考えるかは,自身の置かれた環境の中で利用できるもっともらしい理由の存在に影響を受けると予想した。研究 3 では,洗剤のロゴの魅力を高める実験操作を受けた後,実験参加者は二つの家庭用洗濯洗剤を受け取り,購入したい方を選んだ。その結果,実際にはロゴに魅力を感じているにもかかわらず,洗剤の効能に関する情報が利用できる状況におかれた参加者は,それらの効能が洗剤の魅力の源泉となっていると考えた。そして,そうした効能に基づいて購入する洗剤を決めているという(誤った)認知をもつことで,自身の決定が正当化され,実際にはロゴに魅力を感じているはずの洗剤を選ぶ傾向が強まった。こうした知見は,自身の選好をいかにも左右するように見える要因の利用可能性が高いとき,人びとは選好の原因を取り違えやすいこと,また,そうした取り違えによって,決定や選択に新たな意味づけが与えられ,正確に源泉を特定できていた場合とは異なる決定や選択を行うことになることを示している。\ 第4 章では,自身の主観的感覚を手がかりに判断を行うさいに素朴理論が果たす役割を検討した。情動的感覚から認知的感覚まで,対象と接したときに喚起される主観的感覚は,様々な判断の手がかりとして利用される。主観的感覚がある刺激属性に帰属され,判断の手がかりとして利用されるには,その属性が主観的感覚をもっともらしく説明するラベルとしての役割を果たす必要がある。こうした過程においては,どのような主観的感覚に対して,どのような説明がふさわしく感じられるかについて査定する知覚者の素朴理論が関わるはずである。研究 4 では,繰り返し呈示された人物刺激はポジティブな印象を与えることが確認されたが,性別ステレオタイプと結びつく性格の印象については,その性格をあてはめやすい性別の人物刺激のみに印象の変化が生じることが見出された。こうした知見は,繰り返し呈示されたことで感じられるようになった熟知感のような感覚に対してどのようなラベルをはりつけるのがふさわしいと感じられるかは,そのラべルを適用する対象の種類によって異なること,そして,熟知感を説明するラベルとしてのふさわしさが,判断対象について判断者が事前に持っているステレオタイプ的な信念によって媒介されることを示したといえる。\ このように,本論文では,自身の選好を帰属あるいは理解したり,喜びを予測したりするとき,人びとは,いかにも原因のように見え,言葉にするのが容易で,また,利用可能性の高い属性に注目する傾向があることが確かめられた。こうした要件を満たさなければ,実際に選好や感情を左右していても(あるいは左右することになるとしても),その要因は人びとが原因と考える候補から漏れやすくなる。逆に,実際に選好や態度を左右していなくても(あるいは左右することにならないとしても),このような要件を満たす要因が利用できる環境では,真の規定因は見落とされ,実際とは異なる要因が原因とみなされやすくなる。意思決定者は,自身の好みや態度がどのように左右されるのかについて内省によって直接的にたどることはできず,そのかわりに,これらの要件を満たす情報を用いて推論を行うことを通して,どんな要因が好みや喜びを左右し,またそれらがどんな結果をもたらすのかについて,理解そして予測するといえる。
著者
岡部 宣章
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2015-03-31

ヨウ素を含むハロゲン元素は、水に溶解しやすいため地球表層では水圏を中心に広く分布している。水圏を構成する水は、特異な性質を持つことから、地球表層の環境を研究する上で非常に重要である。水の特異性の一つとして、液体の中で最大の高い誘電率を持つことが挙げられる。この水の高誘電率によって、水圏はハロゲン元素をはじめとして多くの電解質成分を水―岩石反応等によって周辺環境から溶出させている。溶出した成分は、水圏を中心に地球表層で循環する。環境中での挙動や循環はその成分や元素の化学的性質に依存するため、同族元素や希土類元素同士は類似した挙動を取ることが知られている。しかし、ハロゲン元素は水圏中で陰イオンとして安定に存在するといった点は共通するものの、生物への親和性や鉱物化のしやすさといった点では挙動が異なる。特に、ヨウ素はハロゲン元素の中でも生物親和性が高く、またその他のハロゲン元素が水圏中で1価の陰イオンとして存在するのに対して海洋中で5価のヨウ素酸イオンとして存在するなど挙動が異なっている。また、ヨウ素には長半減期核種である129Iが存在しており、温泉水や海底堆積物間隙水などといった地下流体における地質年代の推定や地球表層でのトレーサーとして利用する研究がなされている。これらのことから、ヨウ素は地球化学的な研究を行う上で非常に有用な指標として用いることができる。そこで、ヨウ素に着目して地球表層の水圏に関する研究を行った。対象とした水圏は、地球表層の水圏の9割以上を占める「海洋」と特異な性質を持つことが多い「地下流体(温泉水)」である。地下流体の研究地下流体の研究では、北海道に産する温泉に着目した。北海道は、自噴・揚水問わず温泉が多く存在している地域である。近年では、掘削技術の向上からかつては温泉の産出が困難であると考えられていた地域においても温泉の開発が行われている。そのため、現在では北海道のほぼ全域で地下流体の試料採取が可能である。また、北海道では過去の研究から高濃度の塩分を含む温泉の存在が確認されていたものの、その成因については不明な点も多く存在していた。そこで、温泉水に含まれるハロゲン元素と129I/127I比を測定することで温泉水の起源やその成因についての考察を行った。 ハロゲン元素の分析の結果、塩素濃度が0.3から963mMであり、臭素濃度は6から2500μM、ヨウ素濃度は0.02から650μMと濃度が広範囲であった。また、その値からハロゲン元素間の濃度比を算出した。過去の研究ではハロゲン元素間の濃度比から流体の起源を推定しており、本研究でも同様の方法で流体の起源を推定した。その結果、本研究で測定した試料の多くが海底堆積物間隙水及びそれと海水が混合した値と一致した。そのことから、本研究で測定した試料はその多くが海底堆積物や海水から何らかの影響を受けていることが推測された。129I/127I比の測定では値が0.05~0.38×10-12程度であった。日本において過去の研究で測定された温泉水を中心とする地下流体では129I/127I比はその多くが0.2×10-12程度の値であった。そのため、0.05~0.1×10-12程度という129I/127I比は非常に低く、その起源が古いものである可能性が示唆される。また、129I/127I比の低い試料(<0.1×10-12)の採取地点が北海道において東経141°から142°の同一直線上に位置することが確認された。この0.05~0.1×10-12の129I/127I比から年代を推定すると、その起源が約7500万年前から6000万年前になることが推定された。この年代において北海道は、現在の北海道東部と北海道西部の間にイザナギ‐クラプレートが存在していたと考えられている。現在、このイザナギ‐クラプレートはユーラシアプレートに完全に沈み込んでおり、その際のプレートテクトニクスによって現在の北海道の地形が形成されたと考えられている。このプレートの衝突時にヨウ素を豊富に保持している海底堆積物が付加体などとして地殻に取り込まれ、それらが温泉水の成分に影響を与えている可能性が示唆された。129I/127I比の低い試料の採取地が北海道において同一直線上に分布することもこの考察を補強するデータの一つである。海洋の研究地球表層における水圏の90%以上が海洋である。そのため、ヨウ素にとっても海洋は重要なリザーバーであり、多くの研究がなされている。ヨウ素は環境中でIO3-、I-、有機ヨウ素の形態で主に存在しており、海洋はこれらが共存した状態である。現在の海洋は、酸化的な環境であるため、ヨウ素は主にIO3-の化学形態で存在していることが知られていが、有光層と呼ばれる海洋表層ではIO3-の減少とI-の増加が確認されている。しかし、熱力学的にはこの変化は矛盾していることから微生物の影響が推測されており、過去の研究ではこのヨウ素の還元反応への硝酸還元菌の活性の関与が報告されている。これは、IO3-がNO3-と化学形態が似ていることから硝酸還元菌がNO3-をNO2-に還元する際にIO3-もI-まで還元していると考えられるためである。しかし、ヨウ素に特異的に反応する微生物の存在や硝酸還元活性を失活させた微生物でもIO3-の還元が報告されているなど、不明な点も多い。そのため、海洋におけるヨウ素の化学形態変化について詳細に研究を行った。本研究では、海洋中でのヨウ素の化学形態変化を再現し、それを観察することでヨウ素の還元反応が起きるメカニズムについて考察を行った。実験方法は、実際に天然で採取した海水を滅菌したバイアル瓶に密封することで培養し、HPLC-ICP-MSで化学形態別分析を行った。 まず、未濾過海水を窓辺の太陽光が入射する条件(明所条件)とロッカー内のほぼ遮光した条件(暗所条件)とでヨウ素の化学形態変化の比較を行った。その結果、暗所条件ではあまり大きな変化は見られなかったが、明所条件ではIO3-の減少とI-の増加が確認された。これは、実際の海洋の有光層におけるヨウ素の還元反応と同様の変化が起きていると考えられる。しかし、この実験ではヨウ素の還元に関する要因については明らかにならなかった。そこで、さらに条件を詳細に区分し実験を行った。 次に、培養における条件を均一にするために培養をインキュベータ内に光源を設置し実験を行った。光源は植物育成用LEDを使用した。また、実験にはお台場及び沼津で採取された2種類の海水を使用した。培養時の海水の条件は、①0.2μmフィルターで濾過した濾過海水、②オートクレーブで滅菌したオートクレーブ海水、③抗生物質を添加してバクテリアの活性を抑えた抗生物質添加海水、④光合成阻害剤を添加して藻類の活性を抑制した光合成阻害剤添加海水、⑤処理を行わない未濾過海水の5つで実験を行った。これらの試料をインキュベータ内で培養し、ヨウ素の化学形態変化について観察をした。その結果、未濾過海水と抗生物質添加海水においてIO3-の大幅な減少が確認された。このことからIO3-の減少は藻類によって起きていると考えられる。一方でI-の増加は確認できなかった。このことから、IO3-からI-へ直接還元されているのではなく、IO3-の減少とI-の増加は別の反応過程であることが推測された。ここで、I-が増加しない理由を考察する。この傾向はお台場及び沼津それぞれで採取された海水で同様であったことから海水の性質が原因ではないといえる。また、培養温度を上昇させてもI-は増加しなかったことから温度による影響も考えにくい。そこでI-が増加しない原因に関して光源に着目した。インキュベータに設置した植物育成用LEDは単一の波長を放出するのに対して、太陽光には複数の波長の光が存在している。それゆえ、LEDの波長以外の光が何らかの影響を与えている可能性があるため、太陽光での培養とLEDでの培養を比較した。その結果、濾過海水では太陽光・LEDともに大きな変化は確認できなかったが、未濾過海水では太陽光・LEDともにIO3-の減少が確認された。一方でI-の増加が確認されたのは、未濾過海水を太陽光で培養した条件のみであった。このことから、I-の増加には太陽光の波長が必要であるということが示唆された。 その他にもI-の増加を促進する因子があるのではないかと考え、太陽光の下でLEDでの条件と同様の①~⑤の海水を培養した。その結果、未濾過海水と抗生物質添加海水ではIO3-の大幅な減少が確認された。これは、LEDでの培養結果と同様の傾向である。一方でI-の増加傾向は未濾過海水でのみ確認された。未濾過海水と抗生物質添加海水とでの差はバクテリアの活性の有無であるため、バクテリアがI-の増加に関与していることが推測される。 以上のことを統括すると、海洋表層の有光層でのヨウ素の還元反応は、IO3-からI-への直接的な還元ではなく、中間体を経た藻類によるIO3-の減少反応とバクテリアによるI-の増加反応の二段階反応である可能性が示唆された。統括 温泉水及び海水での研究の結果、ヨウ素が地下流体の起源や年代の推定、水圏中の微生物の活性調査等において非常に有用な指標となることがわかった。このことから、ヨウ素の研究は地球表層の水圏の環境や挙動を知る上で非常に重要であるといえる。
著者
村上 佳恵
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2015-03-07

本研究は、現代日本語の感情形容詞について、感情形容詞の定義を行い、分類の指標をたてて考察の範囲を定めた上で、終止用法・連体修飾用法・副詞的用法という3つの用法について詳しく考察を行うものである。第1章では、感情形容詞の先行研究をまとめる。本研究では、「対象語」「属性と情意の総合的な表現」「人称制限」という3つのキーワードを取り出し、研究史を見ていく。感情形容詞が研究史上注目を集めてきたのは、感情形容詞が人間の感情を表すという意味的な特徴ではなく、「私が水が飲みたい」のように、二重ガ格をとることからであった。この二重ガ格をめぐる議論から始まる感情形容詞の研究史をたどる。第2章では、形容詞の分類を行う。これは、第3章以降の議論の前提として、感情形容詞の範囲を確定する必要があるからである。具体的には、様態の「~ソウダ」という形式を用いた形容詞分類を提示し、感情形容詞2群、属性形容詞2群の計4群に分類をする。本研究の指標は、従来の「私は、~い。」という第一人称の非過去の言いきりの形で話者の感情を述べることができるかという指標を裏側から見たものである。従来の指標では、「私は、寒い」のように、対比的な文脈でしか「私は」が現れないために判断が難しい語があるが、本研究の指標を用いれば、これらも分類が可能であることを示す。第3章では、国立国語研究所の『現代日本語書き言葉均衡コーパス』(Balanced Corpus of Contemporary Written Japanese、略称BCCWJ)を用いて、感情形容詞と属性形容詞が実際の文中でどのように使われているかを調査する。活用形による分類を活かしつつ、[形容詞述部]、[名詞句述部]、[テ形述部]、[補部]、[修飾部]、[動詞句述部]、[その他]の7つの文の成分に分類する。そして、形容詞全体では[述部]として使われることが最も多いこと、また、感情形容詞は属性形容詞と比較して[修飾部]になることが少ないということをデータで示す。第4章では、終止用法として、「動詞のテ形、感情形容詞」という文型を中心に考察を行う。そして、「娘が元気にがんばっていて、うれしい」のような前件が感情の対象であるタイプと「娘が元気にがんばっているのを見て、うれしい」のような前件の動詞が感情の対象を認識する段階の動作を表すタイプに分類できることを指摘する。そして、最後に「~カラ、感情形容詞」「~ノデ、感情形容詞」という文型との比較を行う。第5章では、連体修飾用法の感情形容詞について考察する。BCCWJから連体修飾用法の用例を収集し、感情形容詞と被修飾名詞の意味関係を7つに分類する。[対象]・[経験者]・[とき]・[内容]・[表出物]・[相対補充]・[その他]の7つである。主なものは、「悲しい知らせ」のような被修飾名詞が感情を引き起こすものである[対象]と、「(大声を出すのが)恥ずかしい人」のように、被修飾名詞が感情の持ち主である[経験者]と、「うれしい気持ち」のように被修飾名詞が「気持ち」等で、感情形容詞がその内容である[内容]の3つである。この3つは、すでに先行研究で指摘されているものであるが、本研究では、これ以外に「悲しい顔」「うれしいふり」のような[表出物]というタイプがあることを示す。そして、これらの使用実態を調査し、[対象]が多く、[経験者]は少ないということを明らかにする。第6章では、「散っていく桜を恨めしく見上げた」、「花子はジュリエットを切なく演じた」といった感情形容詞の副詞的用法について考察を行い、副詞句と述語との関係を明らかにする。副詞的用法の感情形容詞は、述語との因果関係を示すものではなく、述語動詞で表される出来事と感情形容詞で表される感情が同時性を持つだけであることを明らかにしていく。第7章では、本研究の成果をどのように日本語教育に活かしていくことができるかを「Ⅴテ、感情形容詞/感情動詞」(以下、「Ⅴテ、感情」)という文型を例に考察する。初級の日本語の教科書での「Ⅴテ、感情」の扱われ方を確認し、問題点を指摘する。そして、初級の日本語教育における「Ⅴテ、感情」の扱い方を試案として提示する。終章では、まとめを行い、今後の課題について述べる。