- 著者
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久保田 和男
- 出版者
- 長野工業高等専門学校
- 雑誌
- 基盤研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 2003
研究期間中,前半に手がけたことは,宋都開封における,北宋時代後期の変容の追求であった。変容の要因として,政治の大きな変革があげられる。周知のように北宋神宗時代は,王安石新法の時代であり,その影響が国都の景観にどのような影響を与えたのか特に,城壁を中心に分析した。それと並行して行った作業が,北宋徽宗時代の政治状況と,国都の状況の関係である。この関係も優れて密接なものであることが判明した。次に,行幸という皇帝の政治行為が首都空間といかなる関わりを持つのかという問題点を追求する事になった。北宋時代に分析は止まったが,大変興味深いことに北宋皇帝は,ほとんど首都空間から離れなかった。したがって,首都空間におけるパフォーマンスが重要となる。皇帝は,大体一ヶ月に一度ずつ,首都に点在する道観仏寺を参拝し,民のために幸福をいのる。そして,目的地と宮殿との往復の過程で,皇帝は首都住民にその身体をさらすことになる。そのことは,宋代に発達した情報網によって,地方にももたらされ,皇帝の実在性が普及した。北宋皇帝にとって王権の維持のために,不可欠の行為の一つだった。中国皇帝の伝統的政治行為として田猟という儀礼的狩猟がある。この田猟についても検討した。歴代の北宋皇帝は,田猟を中止することで,逆説的に王権を強化したという興味深い結論に達した。すなわち,軍事より文化を優先する国是を顯かにするためには,田猟は余りふさわしいものとは考えられなかったのである。最後に,北宋開封に15年間だけあった玉清昭応宮という巨大な道観の興亡について検討した。この宮観の再建をめぐって,皇帝権力(皇太后摂政)と宰相をはじめとする官僚集団が真っ向から対立した。結果,皇太后は譲歩して,官僚集団が,皇帝権力の恣意的な行使に対して一定の枠をはめることに成功した事件である。これをきっかけに,北宋の皇帝-官僚の関係は,以前とは変質したと考えられる。