著者
今林 優希 岡田 和典 岡田 朋美 川崎 智絵 中田 行重
出版者
関西大学臨床心理専門職大学院 心理臨床センター
雑誌
関西大学心理臨床センター紀要
巻号頁・発行日
vol.6, pp.97-105, 2015-03-15

本稿は、精神科診療という指示的なセッティング(治療環境)でいかにして非指示的でいるかについて論考したSommerbeck(2012)の論文を要約し、そうしたセッティングにおける非指示的実践について考察することを目的とする。彼は、指示的なセッティングにおいてセラピストが非指示的に実践する自由を与えられている場合と、指示的な業務を課せられる場合のそれぞれについて、非指示的なセラピーのプロセスを守るためのガイドラインを提示している。ただ、Sommerbeck の提案は、パーソン・センタード・セラピーのセラピストの内なる考えとしては十分理解できるものの、それが対外的に明示できる内容なのかといった点や、パーソン・センタード・セラピーの理論として言語化できるものなのかといった点については疑問が残る。また、彼が示した様々な提案のいくつかについては、既に行っているセラピストが日本にもいると考えられるだろう。しかし、彼が論文でそうした実践について改めて言語化したことは評価に価することである。病院臨床はパーソン・センタード・セラピーにとって大きな関心事であり、Sommerbeck の論文はそれを考えさせてくれる有益な材料を提示している。
著者
中田 行重 今林 優希 岡田 和典 川崎 智絵
出版者
関西大学臨床心理専門職大学院 心理臨床センター
雑誌
関西大学心理臨床センター紀要
巻号頁・発行日
vol.6, pp.79-88, 2015-03-15

Person‒Centered Therapy(以後PCT と略す)において非指示性(Nondirectiveness)は重要であるが、同じPCT の内部においても、その重要さに関する考え方に違いがある。ここでは2 人の論客Cain, D. J. とGrant, B. との間で起こった論争を紹介する。まずCain が、クライエント(以後Cl と略す)の中には心理的成長の上でセラピスト(以後Th と略す)の非指示性が促進的でない場合にまで非指示性に拘るのはパーソン・センタードとは言えない、と論じる。それに対してGrant が、非指示性には道具的なそれと、原理的なそれとがあり、道具的非指示性がCain のようにCl の成長促進の道具として非指示性を活用するものであるのに対し、原理的非指示性はCl を尊重しているかどうかが焦点であり、原理的な方こそ、Client‒Centered Therapy(以後CCT と略す)の中心的な意義である、と主張する。それに対しCain は、Grant の言う原理的非指示性におけるCl への尊重という考え方は、Th という、いわば外側からの仮説に過ぎず、それが本当にCl にとって良いものかどうかは分からない、と批判する。これらの議論は、Cl の成長になるようにTh が対応を変えて対応すべきという主張と、Cl の成長をTh が判断するのではなく今のCl をそのまま尊重すべきという主張のぶつかり合いであり、CCT/PCT の本質を問うものである。両者の議論からは、こうした問いがPCT の今後も続く哲学的な大きな課題であろうことが示唆される。
著者
中田 行重 今林 優希 岡田 和典 川崎 智絵
出版者
関西大学臨床心理専門職大学院 心理臨床センター
雑誌
関西大学心理臨床センター紀要
巻号頁・発行日
vol.6, pp.79-88, 2015-03-15

Person‒Centered Therapy(以後PCT と略す)において非指示性(Nondirectiveness)は重要であるが、同じPCT の内部においても、その重要さに関する考え方に違いがある。ここでは2 人の論客Cain, D. J. とGrant, B. との間で起こった論争を紹介する。まずCain が、クライエント(以後Cl と略す)の中には心理的成長の上でセラピスト(以後Th と略す)の非指示性が促進的でない場合にまで非指示性に拘るのはパーソン・センタードとは言えない、と論じる。それに対してGrant が、非指示性には道具的なそれと、原理的なそれとがあり、道具的非指示性がCain のようにCl の成長促進の道具として非指示性を活用するものであるのに対し、原理的非指示性はCl を尊重しているかどうかが焦点であり、原理的な方こそ、Client‒Centered Therapy(以後CCT と略す)の中心的な意義である、と主張する。それに対しCain は、Grant の言う原理的非指示性におけるCl への尊重という考え方は、Th という、いわば外側からの仮説に過ぎず、それが本当にCl にとって良いものかどうかは分からない、と批判する。これらの議論は、Cl の成長になるようにTh が対応を変えて対応すべきという主張と、Cl の成長をTh が判断するのではなく今のCl をそのまま尊重すべきという主張のぶつかり合いであり、CCT/PCT の本質を問うものである。両者の議論からは、こうした問いがPCT の今後も続く哲学的な大きな課題であろうことが示唆される。