著者
伊東 章子 イトウ アキコ Akiko ITO
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2003-09-30

本稿は、両大戦間期以降の科学・技術に関する諸言説を文化的・社会的文脈に即して分析する作業を通じて、戦後日本社会におけるナショナル・アイデンティティのあり方について考察することを主な目的としている。日本社会には歴史的にみて、いくつかの特徴的ともいえる科学・技術をめぐる言説が流布されてきた。古くは明治期以来の「和魂洋才」から、近年の「メイド.イン.ジャパン」まで、科学・技術をめぐる言説は時代の推移とともに変遷を遂げてきた。そしてこれらの言説は、ある時は直接的に、またある時は間接的に、「日本文化」や「日本人」の枠組みを描き出してきたと考える。また同様に、日本という国家や「日本人」にとっての他者に対する認識や表象のあり方にも、科学・技術を軸にして揺れ動いてきた面がある。科学・技術をめぐる言説を詳細に検討することを通じて、戦後日本社会においてナショナル・アイデンティティがどのように構成されてきたのかを明らかにしたい。 その際に課題の一つとしたいのが、科学・技術をめぐる言説に戦中期と戦後を通じて保たれている、連続性に焦点を当てることである。科学・技術についての様々な議論が活発化したのは、総力戦体制へと向かうなかで科学・技術振興の重要性が認識されてきた時からだった。この時期には、科学者や技術官僚を中心にして、科学・技術の「日本的性格」をいかに確立するかについて、盛んに意見が戦わされた。これらの議論の多くは、「日本精神」と呼ばれるような精神性や道徳性に依拠していたために、戦後においてはほとんど省みられることがなかった。しかし極端な国粋主義や日本主義が過ぎ去ったはずの戦後においても、科学・技術をめぐる言説には総力戦体制期に見られたものを、そのまま引き継いでいるところがある。このような連続性が見られる以上、戦後日本のナショナル・アイデンティティの構成を問うためには、総力戦体制期の諸言説についても詳細な分析が必要であると考える。 本稿では、ナショナル・アイデンティティは大衆社会の想像力と大きな関わりを有しているとの立場にたっている。そのため科学・技術に関する諸言説を抽出する際に、いわゆる専門家の議論へ偏らず、戦後の考察については大衆社会の科学・技術認識が反映されやすい、新聞広告を主な資料として用いる。また総力戦体制期の考察についても、上述した科学者や技術官僚らによる議論ばかりではなく、同じ時期に大衆メディアにおいて広まりを見せていた「科学戦」ブームについても着目する。 以上の点を踏まえて、本稿の構成は以下のようになっている。まず第1章では、1920年代後半から30年代にかけての、「科学戦」に対する社会的な関心の高まりと大衆メディアにおけるイメージの広がりについて考察を行う。「科学戦」人気は、次の戦争がすぐそこまで近づいており、科学・技術の優劣が戦争の行方を決めてしまうことを強く印象づけた。第1節においては、「科学戦」のイメージが具体的にどのようなものであったのかについて、ラジオドラマ、科学読本、科学雑誌、軍事読本など幅広い分野を横断的に検討することで明らかにする。これらの出版物などは新兵器や空襲などの「科学戦」に関する知識を普及させたのはもちろん、科学振興の重要性についても訴えていた。つづく第2節と第3節では、当時少年達を中心に人気の高かった平田晋策、海野十三という二人の作家の未来戦記物を取りあげる。これらの作品を通して、日本と主に敵国とされたアメリカの科学・技術の比較や、科学・技術が戦争や社会に果たす役割がどのようなものとして考えられていたのかを分析する。 第2章では総力戦体制下における科学・技術をめぐる言説について、主に科学者や技術官僚などの視点から考察する。科学・技術をめぐる言説において、「日本文化」や「日本人像」が語られていたのは戦後的な現象ではなく、総力戦体制期から続く潮流である。この章は戦後のナショナル・アイデンティティを論じるうえでの前史にあたる。第1節では、科学・技術をめぐる言説の背景として、総力戦体制へと向かう科学動員の過程と、科学・技術の必要性や有用性が国家危急の事態においていかに認識されていたのかを概観する。続く第2節では、日本の精神性や道徳性を損なわないようにして、「西洋の所産」である科学・技術の振興を唱える、その訴え方のありようを、「物質文明と精神文化」という基本的な対立軸に基づいて考察する。第3節では、第2節で示した科学・技術を振興する必要性を説く議論からさらに進んだ、「西洋」とは異なる科学・技術の「日本的性格」を確立させようとする言説を分析する。これは「物質文明と精神文化」を単に対立させるのではなく、科学・技術の基底に「日本精神」や民族性を位置づけようとする試みだった。その際にあみだされた論法が、戦後における科学・技術をめぐる言説のひとつの雛型になったと考える。 第3章は、敗戦から1950年代初め頃までの短い時期を取り扱う。この時期は第2章と第4章のちょうど谷間にあたる。第1節では、総力戦体制期にその必要性が叫ばれた科学・技術の欠如が、敗戦直後に保守主義・自由主義・左翼陣営のそれぞれの思惑から「敗因」とされたことを論じる。陣営間の対立を越えて「科学・技術立国」というスローガンが、総力戦体制から引き継がれていった点を指摘する。第2節では、女性と科学・技術の関係性を「主婦」や「化粧品」をとりまく諸言説から考察する。戦前戦時にもう一度遡り、女性と科学・技術を取り巻く環境がどのように変化していったのか、科学・技術の振興一関して女性はとのような役割を求められていたのかについて論じたい。さらにはそのような役割がこの章で取り扱う敗戦とともに、いかに変化を遂げたのかについて考えてみることとする。 第4章では、1950年代から1960年代までの新聞広告を資料に用い、時計やカメラ、家電製品などの広告における科学・技術をめぐる言説について分析する。第1節においては、次節以降で新聞広告の言説分析をおこなう準備として、この時期の科学・技術行政および技術開発状況を概観することと、科学・技術にとって新聞広告という言説空間が持つ意味合いについて考察をおこなう。第2節では、1950年代の新聞広告において外国の技術と日本の技術がいかに比較・対置されていたかについて分析する。欧米諸国との比較を通じて、日本の科学・枝術についてどのような認識がなされていたのかについて考える。つづく第3節では、1960年代を境に頻出するようになった「日本の誇り」という言説を中心に、1960年代の新聞広告を考察する。日本の科学・技術が「日本の誇り」として語られるようになると、次第に「日本文化・日本人・日本民族」と結びつけられるようになった。その際、いかに日本という国家や「日本人」像が新聞広告において表象されていたかを論じる。最後、第4節では、日本製品や日本の科学・技術が「国境」を越えるという現象を、広告がどのように描いていたのかを中心に考察する。他者=世界が日本製品をいかに受け入れ、「愛用」していると広告が伝えていたのか、そしてそのような他者の存在が「日本の誇り」をさらに高めていった点について論じる。 第5章では、前章に続いて1970年代の広告を分析する。またこの章は新聞広告を資料として考察を行う最後の章でもある。1970年代の広告文には、今までには見られなかった変化が現れていた。第1節においては、公害問題を契機にした反科学的思想の興隆が、新聞広告の言説にどのような変化を及ぼしたのかについて考察する。科学・技術の進歩や経済成長の追求に対して批判が高まったことによって、今までの「日本人」や日本という国家のあり方に反省を迫る言説が増えた点に注目する。第2節は、1970年代後半になると、戦後一貫して科学・技術を介して「日本人」像や国家像を描いてきた新聞広告が、ナショナル・アイデンティティ表象の場として機能しなくなったことに着目する。強固な編成を保っていた新聞広告という言説空間に何が起こったのかを、新聞広告の媒体上の変化と、広告言説に起こった変化の二つから論じる。 最後、終章ではまず、新聞広告からは探ることができなくなっていた1980年代の科学・技術に関する言説を他の領域から抽出し、そこへ補足的に考察を加えることから始める。1980年代初頭に、戦後日本の科学・技術行政は従来の民間企業による技術導入や技術開発を主体とする方針から転換し、「科学・技術立国」を明確な国家戦略に位置づけるようになった。そのため80年代には言説の担い手として、政府や国家が急浮上するようになった。また80年代から90年代にかけては、技術開発を扱うルポルタージュが量産されてもいた。ルポルタージュの多くは日本製品や技術者の優秀さを文化的特殊性などと結びつけて論じており、その語り口に第4章で考察した新聞広告における言説の構図がそのまま継承されていた。そして、これら80年代以降の動向も踏まえて、今までの議論をもう一度振り返りながら、現在の私たちの科学・技術に対する認識の枠組は戦争を契機に培われたのであり、戦後日本のナショナル・アイデンティティもその枠組みの上で形成され続けてきた点を論じ、全体のまとめとする。