著者
伏見 能成 伏見 裕子
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2009年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.58, 2009 (Released:2009-12-16)

出産研究は、前近代の出産に関するもの、近代化に関するもの、病院出産に関するものに大別できる。文化人類学者の松岡悦子は、「子どもが自宅ではなく病院で生まれるようになる、ということ」が、出産の近代化の特徴だという。 離島には近代化を直接経験した世代が今も健在で、聞き取りによって内実を明らかにすることができる。離島の出産についての研究はこれまでにもあったが、いまだ議論の余地は大きい。 燧灘の島々において聞き取り調査を行った結果、一定の傾向を見出した。明治中頃までは、殆どの島で伝統的な出産が行われた。出産をケガレと捉えることが多く、近代的観点からいうと決して衛生的ではない非日常空間での出産が余儀なくされた。出産の姿勢、介助者という視点からも現代とは大きく異なっていた。出産場所については、島ごとに差異があり、共有のウブヤを使用するケース、農地や屋敷地内にある私有の小屋を貸し借りするケース、各戸が屋敷地内に持つナヤ等を利用するケースなどがあった。こうした習俗が近代化といえる変貌を見せるのは、近代的思想によってケガレ観が緩和されたり、衛生意識が高まったことや、全国的に助産者が資格化されたことが契機になった。大抵の場合、出産場所が屋敷地内のハナレ、更に母屋内のナンドへと変化し、1950年代までには有資格の産婆・助産婦が介助するようになる。1970年代には病院出産が一般化し、現在は各島もれなく妊産婦自体が存在しない。 伊吹島には326世帯793人(2005)が住む。漁業が盛んで、イリコの島として知られる。嘗ては国外にも出漁し、朝鮮半島に加工場をもつ島民もあった。こうした経済的背景もあって、ピークの1950年代には人口4,300人にも達した。現在でも集落内は著しく密集している。 伊吹島には、約400年前から集落共同で使用するウブヤが存在し、デービヤと呼ばれた。産婦は、自宅のナンドでの出産後、約30日間デービヤに篭った。デービヤは、明治初年に4.5畳が3部屋ある建物2棟に改築されたが、土間に筵敷きであった。その後、1930年にも改築されて6畳6間の畳敷きとなり、デービヤの建物自体は近代化を遂げた。名称も「伊吹産院」とされた。この名称は、当時首都圏を中心に増加しつつあった近代的出産施設「産院」を意識していたことが窺える。1930年の改築は、恩賜財団慶福会が「妊産婦保護」のために下賜した建築費が契機となっている。その際の設計図にも「産婦静養室(デベヤ)改築設計図」と明記されている。デービヤは、「ケガレの忌避」という目的を果たしつつ、「産婦静養」というもう一つの目的を前面に出すことで下賜金を得ている。しかし、聞き取りでは「出産直前まで忙しく働いた。デービヤにいる間は天国だった」という感想が得られ、こうした目的が完全に建前であったわけでもない。 出産方法の近代化をもたらしたのは、終戦直後に島へ来た助産婦であった。自宅で出産した直後にデービヤまで歩いて移動するという慣習は医学的に好ましくないとして、デービヤで出産し、そのままそこで静養するよう勧めた。このように、彼女はデービヤという伝統をうまく利用して出産の近代化を進めたのだ。その後、1956年にはデービヤに分娩室が設けられるに至った。しかし、彼女が個人的な理由で大阪に移住すると、島の女性は必然的に地方(ぢかた)である観音寺の病院で出産するようになり、1970年にデービヤは閉鎖され、1983年に解体された。 地理的、経済的条件が類似している広島県走島では、ウブヤ習俗自体がみられない。一方、志摩半島の越賀は、離島でもなく、海女が家計を担うという地域だが、ウブヤが「産婦保養所」に発展したという、伊吹島に酷似した例がみられる。越賀の近隣集落でも、ウブヤ習俗は多く見られたが、近代化の過程でウブヤが存続された例は他にない。 産院や産婦保養所に変化しながらもウブヤが存続した伊吹島と越賀において、その存続と発展の背景には、当時の女性の厳しい労働条件があるものと考えられている。しかし、伊吹島・越賀の労働環境は、周辺の地域に比して、特別ではなかった。近代化を推進する契機について考えた時、僻地では国や県の決定よりも、助産婦等の個人的な意思決定や行動が優先して機能し、地域ごとに個性豊かな偶発的契機によって近代化の方向性を左右し、時には決定づけてきたのだろう。