著者
高崎 章裕
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2009年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.25, 2009 (Released:2009-12-16)

本報告は、熊本県球磨川流域を事例に、環境運動がどのように展開してきたか、川辺川ダム計画との関係に注目しながら、地域や政策決定に与えた影響について明らかにすることを目的とする。
著者
大平 晃久
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2009年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.59, 2009 (Released:2009-12-16)

人文地理学において記念碑を対象とした研究は隆盛をみているが、個別の記念碑研究ではなく、記念碑と場所の関係の一般化を指向する研究は少ない。本発表では,まず,既存のモニュメントを否定するアンチ・モニュメントの事例,とりわけベルリン・バイエルン地区の「追憶の場」を紹介し,そこにみられる記念碑と場所との関係を考える。その上で,バイエルン地区「追憶の場」の事例から,場所間の見立てという記念碑の働きに注目する。 アンチ・モニュメントとは,ドイツにおいてナチスの記憶と向き合う中で生まれた,従来の記念碑の概念を打ち崩そうとする作品群に与えられた名称である。ザールブリュッケンやカッセルの不可視の「記念碑」,ベルリン・ゾンネンアレのセンサーが感知したときのみ説明文が浮かび上がる「記念碑」、ホロコースト記念碑の計コンペで落選した、ブランデンブルク門を破壊してその破片をばらまくというプラン,ブランデンブルク門南の敷地にヨーロッパ各地の強制収容所跡地行きのバスが発着するバスターミナルを建設し,アウシュヴィッツなどの行き先を表示した真っ赤なバスが市内を毎日行き来すること自体を「記念碑」とするプラン,アウトバーンの一部区間を走行速度を落とさざるを得ない石畳にすることで「記念碑」とするプランなどが事例としてあげられる。 ベルリンの「バイエルン地区における追憶の場」はそうしたアンチ・モニュメントの系譜に位置づけられるプロジェクトである。戦前にアインシュタイン,アーレントなど中流以上のユダヤ系住民が数多く暮らしていたこの地区では,地域の歴史を掘り起こす住民運動が起こった。その結果,1993年に記念碑の設計コンペが実施され,シュティ, R.とシュノック, F.によるプランが1位となった。閑静な住宅地区であるここバイエルン地区では,あちこちの街灯に妙な標識が取り付けられている。全部で80枚のそれらの標識は,例えば片面がカラフルなパンのイラスト,もう片面には「ベルリンのユダヤ人の食料品購入は午後4時から5時のみに許可される。1940. 4. 7」というナチス時代のユダヤ人を迫害する法令の文章が記され、,標識の下に簡潔な記念碑としての説明が取り付けられている。商店の看板とみまがうようなポップなイラストと恐ろしい文言からなる標識群は,その形態からも,またそれらが日常の生活の場にあり生々しい過去と日々向かい合うように設けられている点からも,まさに既存の記念碑を否定するアンチ・モニュメントといえよう。 これらのアンチ・モニュメントにおける,場所と記念碑の関係を検討すると,まず,脱中心的であったり不可視であったりすることから,そもそも場所との位置的な対応を問うこと自体が無効である可能性がある。一方で,アンチ・モニュメントが決まったメッセージを伝えるのではなく,記念碑をめぐる実践が意味を作り出す点は場所的な特性として指摘できる。このようにアンチ・モニュメントは場所と記念碑の関係に新たな視点をもたらすものなのである。 バイエルン地区「追憶の場」については、個々の標識については第三帝国当時ではなく現在の景観とおおむね対応している点も特徴的である。過去におけるパン屋や病院など小スケールの事物を記念するというオンサイトの記念碑の文法に則りながら,通常の意味でオンサイトの記念碑ではない点は訪れる者を戸惑わせるものである。しかし,歴史地理的な探索ではなく,現代における実践を誘うものとしてこの記念碑(標識群)は捉えられるべきであろう。現代のスーパーマーケットの前の標識をみてナチス期の商店を想起するという実践は,場所間の見立てであり、バイエルン地区の標識は,そうした見立てを誘うものとして捉えられることを指摘したい。そして,管見の限り,アンチ・モニュメントはいずれも場所間の見立てである一方,大半の記念碑はそうではない。例外は記念碑としては周辺的である文学碑の一部と,聖地など宗教関係の記念碑に限定されると考えられる。 ここで垣間みた場所間の見立ては記念碑の対場所作用の一例に過ぎない。そうしたレトリカルな分析の可能性,また広義の記念碑=「記憶の場」まで含めた考察の必要性を試論的に指摘しておきたい。
著者
水野 勲
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2009年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.41, 2009 (Released:2009-12-16)

新古典派経済学と経済地理学が最も接近したP.クルーグマンとA.プレッドの研究を取り上げ、この2人のモデリングの方法の差異を論じることで、経済地理学のモデリングの可能性を考察する。
著者
伏見 能成 伏見 裕子
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2009年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.58, 2009 (Released:2009-12-16)

出産研究は、前近代の出産に関するもの、近代化に関するもの、病院出産に関するものに大別できる。文化人類学者の松岡悦子は、「子どもが自宅ではなく病院で生まれるようになる、ということ」が、出産の近代化の特徴だという。 離島には近代化を直接経験した世代が今も健在で、聞き取りによって内実を明らかにすることができる。離島の出産についての研究はこれまでにもあったが、いまだ議論の余地は大きい。 燧灘の島々において聞き取り調査を行った結果、一定の傾向を見出した。明治中頃までは、殆どの島で伝統的な出産が行われた。出産をケガレと捉えることが多く、近代的観点からいうと決して衛生的ではない非日常空間での出産が余儀なくされた。出産の姿勢、介助者という視点からも現代とは大きく異なっていた。出産場所については、島ごとに差異があり、共有のウブヤを使用するケース、農地や屋敷地内にある私有の小屋を貸し借りするケース、各戸が屋敷地内に持つナヤ等を利用するケースなどがあった。こうした習俗が近代化といえる変貌を見せるのは、近代的思想によってケガレ観が緩和されたり、衛生意識が高まったことや、全国的に助産者が資格化されたことが契機になった。大抵の場合、出産場所が屋敷地内のハナレ、更に母屋内のナンドへと変化し、1950年代までには有資格の産婆・助産婦が介助するようになる。1970年代には病院出産が一般化し、現在は各島もれなく妊産婦自体が存在しない。 伊吹島には326世帯793人(2005)が住む。漁業が盛んで、イリコの島として知られる。嘗ては国外にも出漁し、朝鮮半島に加工場をもつ島民もあった。こうした経済的背景もあって、ピークの1950年代には人口4,300人にも達した。現在でも集落内は著しく密集している。 伊吹島には、約400年前から集落共同で使用するウブヤが存在し、デービヤと呼ばれた。産婦は、自宅のナンドでの出産後、約30日間デービヤに篭った。デービヤは、明治初年に4.5畳が3部屋ある建物2棟に改築されたが、土間に筵敷きであった。その後、1930年にも改築されて6畳6間の畳敷きとなり、デービヤの建物自体は近代化を遂げた。名称も「伊吹産院」とされた。この名称は、当時首都圏を中心に増加しつつあった近代的出産施設「産院」を意識していたことが窺える。1930年の改築は、恩賜財団慶福会が「妊産婦保護」のために下賜した建築費が契機となっている。その際の設計図にも「産婦静養室(デベヤ)改築設計図」と明記されている。デービヤは、「ケガレの忌避」という目的を果たしつつ、「産婦静養」というもう一つの目的を前面に出すことで下賜金を得ている。しかし、聞き取りでは「出産直前まで忙しく働いた。デービヤにいる間は天国だった」という感想が得られ、こうした目的が完全に建前であったわけでもない。 出産方法の近代化をもたらしたのは、終戦直後に島へ来た助産婦であった。自宅で出産した直後にデービヤまで歩いて移動するという慣習は医学的に好ましくないとして、デービヤで出産し、そのままそこで静養するよう勧めた。このように、彼女はデービヤという伝統をうまく利用して出産の近代化を進めたのだ。その後、1956年にはデービヤに分娩室が設けられるに至った。しかし、彼女が個人的な理由で大阪に移住すると、島の女性は必然的に地方(ぢかた)である観音寺の病院で出産するようになり、1970年にデービヤは閉鎖され、1983年に解体された。 地理的、経済的条件が類似している広島県走島では、ウブヤ習俗自体がみられない。一方、志摩半島の越賀は、離島でもなく、海女が家計を担うという地域だが、ウブヤが「産婦保養所」に発展したという、伊吹島に酷似した例がみられる。越賀の近隣集落でも、ウブヤ習俗は多く見られたが、近代化の過程でウブヤが存続された例は他にない。 産院や産婦保養所に変化しながらもウブヤが存続した伊吹島と越賀において、その存続と発展の背景には、当時の女性の厳しい労働条件があるものと考えられている。しかし、伊吹島・越賀の労働環境は、周辺の地域に比して、特別ではなかった。近代化を推進する契機について考えた時、僻地では国や県の決定よりも、助産婦等の個人的な意思決定や行動が優先して機能し、地域ごとに個性豊かな偶発的契機によって近代化の方向性を左右し、時には決定づけてきたのだろう。
著者
中西 僚太郎
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2009年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.2, 2009 (Released:2009-12-16)

近代の日本では,近世の絵図・地図作成を背景として,新たな意匠の絵図・地図が多数作成された。その代表例としては,大正・昭和初期の吉田初三郎とその門下による一群の鳥瞰図があげられるが,明治・大正期にはそれとは異なる意匠をもつ鳥瞰図が,市街地や温泉地,景勝地,社寺を対象に数多く作成された。それらは当初は銅版,後には石版印刷による対象の精緻な描写を特徴とする鳥瞰図であり,図の名称から「真景図」と総称することができる。本発表では,景勝地の「真景図」の事例として,主に松島と厳島を取り上げ,同時期の案内記や写真帖と比較しながら,刊行状況や作成主体,作成意図,図面構成,構図,描写内容などの資料的検討と考察を行う。その上で,「真景図」を活用した当時の景観(風景)研究や観光研究の可能性を探ってみたい。
著者
西原 純
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2009年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.42, 2009 (Released:2009-12-16)

行政分野 今次の平成の大合併によって誕生した超広域自治体で、政令指定都市制度を採用した自治体について、浜松市を事例として合併後の行政の実情を明らかにすることを目的とした。 浜松市は、2005年に周辺11市町村を編入合併し、2007年に政令指定都市となったが、合併後の行政の実情・評価を、旧12市町村連合自治会長らへのインタビュー調査、旧浜松市・旧天竜市・旧水窪町の住民へのアンケート調査によって把握した。 自治会長へのインタビュー調査・住民アンケートによって、編入市町村ほど合併に不満が強く、窓口サービスの低下が顕著であった。さらに、新市や区についての帰属意識もまだ醸成されておらず、一つの自治体として機能するためにはかなりの時間が必要である。
著者
谷 謙二
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2009年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.3, 2009 (Released:2009-12-16)

1990年代後半以降の日本の大都市圏においては,戦 後の長期的なトレンドが反転し,人口の都心回帰,中 心都市への通勤率の低下などが顕著になった。この変 化を考える際には,90年代初めまでの大都市圏のシス テムが,いつ,どのように形成されたかを検討する必 要がある。筆者は,戦前の大都市(圏)と高度成長期 以降の大都市圏とではかなりの違いがあり,その違い は戦時期から復興期にかけての経済統制や占領政策に よって形成された部分が大きいと考える。これはいわ ゆる「総力戦体制論」につながるものであるが,当時 の大都市圏の変動はあまりにも激しく,変化の全貌は 十分に明らかとなっていない。本発表では,制度面と して土地所有,通勤手当,都市計画,労務動員,実態 面としては通勤流動,人口分布変動に注目して,当時 の大都市圏の変化とその含意を検討する。
著者
齊藤 知範
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2009年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.48, 2009 (Released:2009-12-16)

先行研究の問題点 先行研究によれば、犯罪不安とは、「犯罪や、犯罪に関連するシンボルに対する情緒的反応」、被害リスク知覚は、「犯罪被害に遭う主観的確率」とそれぞれ定義することができ、別々の構成概念として捉えることが可能である。 阪口(2008)が用いている、2000年のJGSS(日本版総合社会調査)における分析指標は、「あなたの家から1キロ(徒歩15分程度)以内で、夜の1人歩きが危ない場所はありますか(1 ある、0 ない)」である。アメリカのGSSが”afraid”という言葉を用いて「夜の1人歩きが不安な場所があるか」と尋ねており犯罪不安の指標に近いのに対して、JGSSの指標は「夜の1人歩きが危ない場所はあるか」と尋ねているためリスク知覚に近く、犯罪不安の指標としては不適切であると考えられる。先行研究においても、犯罪不安を測るためには、JGSSの指標を今後「夜の1人歩きが不安な場所があるか」という指標に変更することも検討すべきであるといった重要な問題点が指摘されている(阪口 2008:475)。阪口(2008)などの先行研究においては、犯罪不安を測る上ではワーディングをはじめとする調査設計に大きな問題点があり、データの制約上、犯罪不安の要因構造に関して充分な検討をすることが困難である。さらに、犯罪不安に関する調査設計や分析に際して、地理的な観点は、これまでわが国の諸研究においてはほとんど考慮されてこなかった。 本研究のアプローチ これに対して、本研究においては、住民調査を実施し、犯罪不安に関する指標を心理的な側面と行動に関する側面とに切り分けて測定することにより、分析に使用する。行動に関する側面については、具体的にどのエリアに対して犯罪不安に由来する回避行動を取っているかを、白地図を用いて記入してもらう調査を併用している。 住民調査についての概要を記す。神戸市須磨区のニュータウン地区と既成市街地地区からそれぞれ2小学校区、3小学校区を任意に選定し、これら5校区の20歳から69歳までの成人住民の縮図になるように、住民基本台帳にもとづき、確率比例抽出法によってサンプリングした。1つの調査地点につき50名ずつを抽出し、50の調査地点の合計2500名を対象に、2009年1月から2月にかけて、郵送法により調査を実施した。回収率の向上を目的とする、督促とお礼状を兼ねたリマインダー葉書は、1回送付した。1086票が回収され、回収率は、43.4%であった。回答に不備のあった4票を除外し、1082票を分析対象とした。 当日は、その分析結果の一部について報告し、社会学的、地理学的視座から、いくつかの考察を加えることとしたい。