著者
上保 国良 佐々木 隆爾 上保 国良
出版者
日本大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

本研究の成果は,「幕末・明治期における民謡・流行歌を通じてみた外国文化摂取の歴史的研究」,および「幕末〜明治初期,長崎における外国音楽摂取の時代的背景」の二編からなる報告書にまとめた。第一部では,『長崎新聞』『西海新聞』を主要な資料として,次の結論を得た。長崎を事例とする研究で明白になったことは,第一に身分解放令後も芸妓は娼妓と同様激しい差別に晒されていたが,1879年半ばより彼女らの清楽を中心とする演奏が高く評価されるに至り工尺譜が普及し,第二に,この直後から開始された文部省の唱歌教育が五線譜の浸透力不足のため軽視される中で,清楽師範として人気の高かった長原梅園が明治22(1889)年,工尺譜『月琴・俗曲今様手習草』を発刊し,文部省唱歌を12曲紹介し民衆の問で愛唱される大きな契機をつくり,第三に,スコットランド民謡「あさひのひかり」(のちの「蛍の光」),ルソーを発端とする「みわたせば」(のちの「結んで開いて」),モーツアルト『魔笛』のアリアのメロディーを転用した「仁は人の道」(原曲パパゲーノのアリア)等が定着したことを明らかにした。第二部では,長崎県『学務課教育掛事務簿』,『r長崎県会日誌』r明治十二年六月,米国前大統領来港接待記事』等の精査をもとに,第一に,得られた主な資料を,その歴史的背景を説明しながら紹介し,第二に『活水学院百年史』等を参照しつつ分析し,義務教育における音楽教育は難渋しつつも,俗曲が,その担い手であった芸妓に対する差別的観念と相侯って,文部省の狙い通り零落したことを明らかにし,第三に小学校における唱歌教育が童謡をもとに,生徒の健康増進を実際上の目的として進められたことを解明し,第四に活水学院の前身では発足当初から高度の西洋音楽の教授が重視され,長崎県下の子どもに西洋音楽を定着させる有力な途を開いたことなどを明らかにできた。
著者
佐々木 隆爾 鍋本 由得
出版者
日本大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2001

(1)「大津絵節」は流行歌としての側面と,語り歌としての側面をあわせ持っている。この両側面を持ち,かつ大衆に新たな感興を呼び起こした歌は,清楽曲を全部または一部借用した歌であり,1830年代に流行し始めた。その端緒は「看々節」およびその原曲「九連環」である。「看々節」は江戸で禁止されるが,「九連環」は江戸・大坂・長崎等で愛好され続けた。清楽曲は,漢詩に節をつけた歌であることから,情報と感情の双方を伝達する手段として利用された。また「看々踊り」等が流行し,流行に拍車をかけた。このことは,19世紀前半から清楽譜が多様に出版された事実と,「甲子夜話」等の信頼性の高い記録から確認できる。(2)幕末の「大津絵節」の流行は,1853年7月に中村座で市川小団次が踊った狂言「連方便茲大津絵(つれかたよりここにおおつえ)」に端を発する。それにあやかって歌川国芳の風刺画が書かれ,それが大流行すると,その絵解き歌として「アメリカ大津絵節」も同時に流行し,それまで愛好されて来た「ヤンレ口説き節」を凌駕するようになった。このことは,安政(1855年)大地震を描いた「鯰絵」に多くの「大津絵節」が登場することで確認できる。(3)「アメリカ大津絵節」が自由民権期を含む1880年代にも強く愛好されたことは,梅田磯士『音楽早学び』(1888年)で確認され,これが民権運動期に運動鼓舞的な演歌として多大な役割を果たしたことは,福田英子『妾の半生涯』の記述から明らかである。福田の記述は,この歌におけるメロディーと歌詞の相互関係も示唆しており,歌詞にあわせて曲のどの部分が省略または反復されるかを推定する手がかりを与えている。(4)演歌としての「アメリカ大津絵節」の時代は長くは続かなかった模様で,この中のリズムが軽快な部分や沈鬱なメロディーの部分は,折から大流行を始めた浪花節の中に,それぞれ「早がけ」および「沈思」の表現法として吸収され,浪花節の表現力と伝播力を高めたものと推定される。