著者
功刀 俊洋
出版者
福島大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

革新=社会党推薦の市長・市政について、1950年代から1960年代前半までの東北地方と京阪神地方を比較すると、東北地方の革新市長は、1959年前後から遅れて登場し、1960年代に社会党公認の市長として飛鳥田一雄横浜市長の全国革新市長会にその中心メンバーとして参加していった(たとえば、仙台、秋田、酒田、大館)。それに対し、京阪神地方の社会党系市長は、1950年代の早期から登場しながら、1960年代に退場してしまうか、革新市長会に不参加・消極的という態度をとった(たとえば、大阪、神戸、西宮、舞鶴、宇治)。この相違の原因は、野党や労働組合の党派・組織対立の影響と、地域開発の現実性の違いにあった。第1に、東北地方の社会党は、左派(佐々木更三)中心であり党内最左派出身の飛鳥田をリーダーとすることに親和的だった。それに対し、京阪神地方の社会党は右派(河上丈太郎、江田三郎)中心であり、また民社党と共産党が強力で社会党の市政における指導権は弱かった。それで、京阪神の革新市長は、民社・同盟系労組をも地盤としており、1960年代には自民・民社・社会の相乗り市政に移行していった。第2に、京阪神地方は東海から瀬戸内地方と同様、繊維産業など既成工業の合理化と石油化学・鉄鋼などの新興工業の立地(新産業都市建設)が1960年代前半に現実に進行しており、都市政治への「合理化・開発=保守化・中央依存」圧力が東北地方より強かった。それに対し、東北地方では、新興工業(機械組み立て・アルミ・パルプ)誘致が実現するのは1970年代であり、1960年代までは、社会党市政が生活基盤整備に尽力したため、住民の支持がっづき、保守勢力にも許容される余地があった。これが、東北地方の革新市政が1960年代後半まで生き残り、「革新自治体の時代」を準備できた経済的要因であった。