- 著者
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加納 遥香
- 出版者
- 日本音楽学会
- 雑誌
- 音楽学 (ISSN:00302597)
- 巻号頁・発行日
- vol.68, no.1, pp.17-31, 2022-10-15 (Released:2023-10-15)
1954 年のジュネーブ協定によりベトナムは南北に分断された。北部を支配領域とする社会主義体制下のベトナム民主共和国(以下、ベトナム)では、ベトナム労働党が厳重な思想統制を敷く一方で、自国の文化に創出に積極的に取り組んだ。16 世紀末イタリアに起源を持つオペラに関する事業として、文化省は国立のオペラ団であるベトナム交響・合唱・音楽舞踊劇場を設立し、外国のオペラ作品を上演した。さらにベトナムの作曲家ドー・ニュアン Đoች Nhuận(1922–1991)がオペラの形式的特徴に基づいて創作した《コー・サオ Cô Sao》は、ベトナムで初めての「音楽劇 nhạc kịch」として 1965 年に初演された。 本稿では、当時の政策文書、新聞・雑誌記事、楽譜を用いて、1954 年から 1965 年にかけて展開されたオペラに関連する政策、活動、言論を読み解く。それにより、ソ連やフランスといったオペラ大国と密接な関係を持つベトナムが、外来の芸術であるオペラにどのように向き合ったのかという問いに取り組む。ベトナムの対外関係と国際社会に対する対外意識に着目して、ベトナムの音楽家たちのオペラに対する思想や姿勢を照らしだし、同国の国家建設におけるオペラの機能を明らかにする。 ベトナムの政府や音楽家たちは、植民地時代の遺産としてのオペラ劇場や西洋音楽に関する知識、技術、人材を継承し、社会主義諸国の積極的な協力の下でオペラを受容することで、オペラに関する制度を構築し、ベトナムらしさに満ちた自国の作品と共産主義者の方針に沿う新しい言説を創出した。国家建設において、オペラはベトナムが国際舞台にあがるための手段であった。さらにそこで、「音楽劇」という概念を用いることで、冷戦構造の中で、まさにベトナムを舞台として熱戦が始まるこの時期に、ベトナムはヨーロッパ、ソ連、中国などを眼差しながら主体的な国家を構想していた。