著者
向嶋成美 樋口泰裕 渡邉大 秋元俊哉 宇賀神秀一 王連旺 加藤文彬
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.26, no.2, pp.144-87, 2013-03-15

本稿は、章学誠『校讎通義』の訳注である。 著者の章学誠は、字は実斎、号は少岩、浙江会稽の人である。清の乾隆三(一七三八)年に生まれ、嘉慶六(一八〇二)年に齢六十四歳で没した。乾隆三十(一七六五)年、二十八歳の年から当時の大需であった朱〓に従って学び、同門で乾隆・嘉慶期における代表的な史学家である?晋涵や洪亮吉らと親しく交わった。乾隆四十三(一七七八)年に四十一歳で進士に及第するが、任官することなく、華北の各地の書院で講じたり、畢〓、朱珪の幕下に加わって『湖北通志』などの書籍の編纂を行ったりした。章学誠はその生涯に数多くの著作を残したが、その学問は当時一世を風靡していた考証の学とは傾向を異にし、明末清初の思想家、黄宗羲以来の思想性に富んだいわゆる「浙東の学」を継承するものとされる。章学誠の年譜には、わが国の内藤湖南の「章実斎先生年譜」(『支那学』第一巻第三・四期、一九二〇年)を嚆矢とし、それを補訂した胡適の「章実斎先生年譜」(上海商務印書館、一九二二年)、さらに補訂を加えた姚名達の「章実斎先生年譜」(『国学月報〓刊』第二巻第四期、一九二七年)、また呉考琳の「章実斎年譜補正」(『説文月刊』第二巻第九〜十二期、一九四〇〜一九四一年)、王重民の「章学誠大事年表」(『校讎通義通釈』上海古籍出版社、一九八七年、附録二)などがある。 章学誠の最も重要な著作として挙げられるのが『文史通義』と『校讎通義』である。前者が歴史の意義について論じたものであるのに対し、後者は目録学の理論、方法について論じたものといってよい。『校讎通義』は乾隆四十四(一七七九)年、章学誠四十二歳の年に成った。原は四巻であったが、その後章学誠の生前中に第四巻が失われ、現存するのは「内篇」三巻である。章学誠は亡くなる前にその全ての著作の編訂を友人であった浙江粛山の王宗炎に依頼した。それを基にして章学誠の次子である章華〓が道光十二(一八三二)年に河南開封で『文史通義』、『校讎通義』を刊行して以来、これらの書はいくつかの版を重ねている。そして章学誠の著作の全てがまとまった形で刊行されたのが、浙江呉興の劉承幹の嘉業堂刊『章氏遺書』四十八巻である。この嘉業堂刊『章氏遺書』に収められる『校讎通義』は実は「内篇」三巻に「外編」一巻を加えた四巻の形を採っている。しかしこの「外篇」に収められている「呉澄野太史歴代詩鈔商語」以下の二十一編は王宗炎編訂の時に加わったと考えられるもので、『校讎通義』からは除外するのが一般である。章学誠の著作のテキストについては、張述祖の「文史通義版本考」(『史学年報』第三巻第一期、一九四〇年)、孫次舟の「章実斎著述流伝譜」(『説文月刊』第三巻第二・三期、一九四一年)に詳説がある。なお章学誠の著作テキストには刊本とは別に抄本もあり、内藤湖南旧蔵の書籍を収蔵する関西大学図書館に三本がある。井上進氏の『内藤湖南蔵本文史校讎通義記略』(『東方学会創立五十周年記念論文集』、一九九七年、のち、『書林の眺望』、平凡社、二〇〇六年)によれば、その中の一本『文史校讎通義』不分巻、六冊は嘉業堂刊本より旧い形を伝えるものであるという指摘がなされていて興味深い。また近時の排印本としては、劉公純標点の『文史通義』(古籍出版社、一九五六年、中華書局新一版、一九六一年)があり、これは嘉業堂刊本を排印したものである。さらに注釈書としては、葉長清『文史通義注』(無錫国学専修学校叢書、一九三五年)、葉瑛の『文史通義校注』(中華書局、一九八五年)、王重民の『校讎通義通解』(上海古籍出版社、一九八七年、傳傑導読、田映〓注本、上海古籍出版社、二〇〇九年)がある。 本稿では訳出にあたり葉瑛の『文史通義校注』を底本として用いた。この書は『文史通義』の諸本九種をもちいて校注がなされており、今日求められる最良のテキストと判断したからである。本稿の作成は、向嶋成美、樋口泰裕、渡邉大、秋元俊哉、宇賀神秀一、王連旺、加藤文彬の七名からなる文教大学目録研究会が開催した定例研究会において、議論、検討を進める中で得られた成果に基づくものである。その議論、検討の内容に整理を加え、訳注としてまとめるにあたり、研究会での中心的役割を果たした発表者がそれぞれ発表を担当した章を執筆することとした。今回の第一回では、『校讎通義』全三巻のうち巻一の「叙」、「原道第一」を渡邉が担当執筆し、「宗劉第二」を樋口が担当執筆し、「互著第三」を宇賀神が担当執筆した。文責もまたそれぞれの担当者に帰するものとする。