著者
勝野 まり子
出版者
学校法人 開智学園 開智国際大学
雑誌
日本橋学館大学紀要 (ISSN:13480154)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.3-12, 2008-03-01 (Released:2018-02-07)

「春の陰影」(1914)は、D.H.ロレンスの初期の短編小説の一つであるが、次の3つの理由から注目に値する作品である。彼自身の手によって改稿や改題が入念に6回なされた後で現在の形で出版されたこと、彼の主要な長編小説の世界と類似する世界を展開していること、そして、そこには30種類もの植物が異なる2通りの<象徴>的な形で登場することである。最後の点が、特に興味深いものである。この小論では、「植物描写における象徴の二重性」と「直感」という、密接に関係し合う2つの観点から「春の陰影」を考察する。その「植物描写における象徴の二重性」を簡潔に述べると、次のようになる。作者は、多くの種類の植物が持つ宗教上および民俗上の伝統的な<象徴>を意図的に用いて、作品の登場人物間の人間関係とプロットを暗示させ、それらを語りによって裏付けする。他方では、彼は幾つかの場面で植物を美しく生き生きと描く。そこでは、主人公サイソンは思考とは無縁に植物の美に深く感動する。それらの生き生きとした植物描写は、読者の五感にも訴えかけ、1つに結びつき、ついには1つの<象徴>を生む。そこには、それぞれの植物を個別に<象徴>として描こうとする作者の意図は見出せない。しかし、小説全体を通してみると、それらの幾つかの植物描写は一つの<象徴>となっている。それは、過ぎ行く時、春の中で土に育まれる植物と1人の女性の輝かしい生命を<象徴>している。そのような植物の二重の<象徴>は、旨く働き合い、これもまた作者の語りによって裏付けされながら、テーマを伝える。それは土に育まれるどんな生命も等しく賞賛され、それぞれがそれぞれの世界を持ち、その独自の世界は他の何ものによっても踏み込まれるべきではない、というテーマである。さらに、「植物描写における象徴の二重性」には、この作品の価値に加えて、ロレンスの作家としての豊かな才能も見出される。その<象徴>における二重性の1つは、宗教上および民俗上の伝統的なものであり、人間関係とプロットを暗示させるために意図的に用いられている。そして、それは作者が小説を書くための熟練した技と博識を有する並外れて知的な英国人作家であったことを伝える。他方では、幾箇所かでなされる生き生きとした植物描写全てが結び付き、1つの<象徴>を生み出す。それは、作者が豊かな「直感」を備えた人であったことを伝える。「直感」によって、人は誰でもどんな生命の輝きをも真に知ることができる。作者は「直感」によって、ありとあらゆる生き物の生命の輝きを認識し、「春の陰影」の主人公であるサイソンと彼のかつての恋人ヒルダも、「直感」によってそれらを認識することができる。今日、世界中で欧米化が極限的な状況にまで広まっている。それは、人間の経済的な発展をもたらしたが、同時に、あらゆる生命に大きな苦しみをもたらしている。約百年前に、英国人であるロレンスは、欧米文化を「直感」に欠くものとして批判し、「直感」が世界の望み多き将来への鍵であると信じた。我々も、知性や伝統的な知識を最善に生かしながらも、他方で、我々の「直感」を再生させることによって、そのような苦しみを軽減できるように思われる。これが「春の陰影」が我々に示唆することである。
著者
勝野 まり子
出版者
日本橋学館大学
雑誌
紀要 (ISSN:13480154)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.3-18, 2012-03-01

この小論では、D. H. Lawrence の出世作となった、彼の生活体験を基として語られる短編小説"Odour of Chrysanthemums"について、二つのキーワード、"red"と"chrysanthemum"を取り上げて、次の3 点について考察する。(1)それら二つの言葉のリアリズムにおける働きとシンボリズムにおける働き(2)それらの言葉とこの作品のテーマとのかかわり(3)リアリズムがシンボリズムを超えて伝えるところである。この小説では、"red"は、初冬の寒くて薄暗い、無彩色の町に、昼夜燃える炭鉱の火の色、そこに生きる炭坑夫の妻の台所で燃える炎の色、彼女の娘が美しいと魅了されるかまどの火の色、その家族が使用した古いテーブルクロスの色として登場し、"chrysanthemum"は、その町の道端にピンクに咲く花、炭坑夫の妻に折り取られてエプロンに挿まれ、彼女の家に持ち込まれる花であり、彼女の小さな客間に持ち込まれ飾られる花であり、彼女の娘が美しいと感激する花であり、その花瓶を炭坑夫に割られて主人公によって処分される花として登場する。その二つの言葉は、どちらも読者の視覚、嗅覚、肌感覚といった五感に訴えながら、それ自体を、そして、舞台となっている、初冬の英国ノッティンガムにある作者の故郷である炭鉱の町と、そこで生きる人々の姿を読者の目の前に現存するかのように生き生きと描き、この作品のリアリズムの世界を作り上げている。その一方では、"red"と"chrysanthemums"という言葉が一致して象徴するものは、炭坑夫の妻である主人公の「所有欲」、その「所有欲」や自らの考えに囚われた主人公の意のままにならない子等や夫との死んだような家庭生活であり、彼女の夫の落盤事故による「死」であり、彼女の「所有欲」に占められた結婚生活と家庭生活の終焉である。主人公は、夫の「死」に遭遇することによって、それまでの自らの「所有欲」によって生じた誤り、自分を取り巻く生命体、つまり、夫や子やその他もろもろの生命体をありのままに見つめていなかったこと、そして、それら他の生命体を自分の意のままに支配しようとしてきた誤りを悟り、「死」ではなく、自らの新たなる「生」に向かうのである。それぞれの生命体はそれぞれの「生」を営み、他のどんな「生」をも所有できないという彼女の悟り、それがこの短編小説のテーマとなっている。主人公が新たなる「生」に目覚める以前の世界は、"red"と"chrysanthemums"の生むシンボリズムが提示するものである。その世界では、人々は己の考えや所有欲に囚われ死んだような生活を送っているのである。言い換えれば、作者は、人間心理に対する鋭い洞察力と巧みな言葉の使用によって生み出すシンボリズムによって、「死」に向かう世界観を伝えている。そして、それは、この短編小説の主人公Elizabeth のみならず、100 年以上も前にD.H.Lawrence が見た当時の多くの心悩める人々の世界であり、この現在に生きる多くの心悩める人々の世界にも繋がるように思わる。そして、主人公が、新たに求めることになる「生」を営む場は、二つのキーワード"red"と"chrysanthemums"という言葉が生き生きと描写し、彼女を取り巻いてすでに存在していた世界であり、それらの言葉のリアリズムにおける働きが伝えていた世界である。そこでは、それぞれの生命体がそれぞれの「生」を営み、他のどんな「生」をも所有できない世界である。言い換えれば、作者は、彼自身を取り巻く世界に対する優れた観察力と生き生きとした言葉による写実力によって生み出すリアリズムによって、自らの「生」に向かう世界観を伝えているのである。そのようなリアリズムとシンボリズムは、相矛盾することなく、この作品のプロットを運びテーマを提示しながら、作者が自らの周囲に見る両義的な世界を語り、作者と読者の豊かな対話をも生じさせている。さらに、そのリアリズムはシンボリズムを超えて、以前にも増して「死」に向かいがちな現代の読者に、自らを取り巻くあらゆる生命体を見つめ、自らの真の「生」に向かう知恵を伝えているのである。
著者
勝野 まり子
出版者
日本橋学館大学
雑誌
紀要 (ISSN:13480154)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.71-80, 2006-03-30

この小論は英国短編小説家として最も有名と言えるKatherine Mansfield(1888-1923)の「アイロニー」の世界に関するものである。彼女はNew Zealandに生まれ,勉学のために渡ったロンドンでの生活とヨーロッパ各地での旅を経て,Fontainebleauで結核で没するまでの間,彼女の「アイロニー」の世界が美しく描かれている数多くの短編小説を世に出した。この小論では,故郷を舞台に書かれた "How Pearl Button Was Kidnapped" を取り上げ,彼女の「アイロニー」の世界を考察する。その世界は美しい自然に恵まれた彼女の故郷を母胎に生まれた。西洋文学思想史と東洋思想史の「アイロニー」論を参考にして,「言葉」,「美的体験」,「常識の覆り」という三つの観点から論じる。「言葉」と「常識の覆り」は東西問わずに「アイロニー」考察に不可欠とされるが,「美的体験」は西谷が指摘するように東洋の禅にのみ強調されている。"How Pearl Button Was Kidnapped" においては,"blue," "the House of Boxes," "big," "little"という「言葉」が繰り返し用いられて,「アイロニー」の世界を展開するために重要なことを伝えている。"Pearl Button" という主人公の氏名も同様の象徴的な働きを持つ。それらの「言葉」が繰り返し用いられる中で,主人公は生まれて初めて原住民の優しさや大自然の海の美しさを見て感じて認識する。主人公の「美的体験」は,自分の帰属する社会とは全く異なる世界,大自然と原住民の優しく美しい世界との感情的な接触である。そのような「美的体験」を通して,彼女は徐々に自分が属する社会の「常識の覆り」を知るのである。その体験によって,彼女は自分の属する社会とは全く異なる価値観を持つ別の世界があることを見出す。そのようなKatherine Mansfieldの「アイロニー」の世界は,「美的体験」を強調する禅の「アイロニー」の世界に共通するものであり,東洋人である著者にとって魅力的な世界となっている。