著者
北上 真生
出版者
神戸大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2007

当該年度においては、幕末期の宮中女房・庭田嗣子による記録に焦点をあてて検討を試みた。嗣子は、和宮親子内親王の降嫁に際して、典侍という宮中女房の身分のまま随行する。そして、嗣子は江戸城大奥において宮の動静を日次に記した『和宮御側日記』とともに、それを補完する別記を記録している。特に、別記の一つである「将軍昭徳院凶事留」は、宮中の女房によって将軍家茂の凶事が記録されるという、文学的概念にはそぐわない相貌を見せる。嗣子は、随行に際して、江戸城大奥においても御所の風儀(京風)を遵守し、皇女ひいては朝廷の威光を立て公武一和へ導くようにとの大命を帯びる。このようななかで、大奥の実権は和宮の姑である天璋院の掌中にあり、将軍正妻としての和宮の存在基盤は非常に脆弱なものであった。そこで、嗣子は、皇女の威光を立てて京風を守りつつも宮の夫である将軍家茂や天璋院に孝養・礼節を尽くすことで家風も落ち着き公武一和が結実すると和宮や御附女中に論し、京方と江戸方との拮抗を抑え、位階による身分秩序と家長を中心とした武門の家族秩序とを如何に整合付けるかを模索するのである。そして、和宮の大奥における存在基盤の確立を支える一具として記録が作成されるのである。しかし、和宮の家茂との結婚生活はわずか五年弱で終焉を迎え、家茂の死によって降嫁の意義が曖昧なものとなる。嗣子は和宮の行末の立場を案じ、妻たる御台所としての果たした役割と夫への礼節・孝養を示す最後の機会である凶事に焦点を絞り、和宮に視点を置いて宮の主体的な凶事への関わりを「将軍昭徳院御凶事記」として記し留めたのである。以上のように、複雑な様相を呈する近世期の女房日記の一特質を明らかにした。