著者
北川 治男
出版者
麗澤大学
雑誌
麗澤学際ジャーナル (ISSN:09196714)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.A15-A25, 1997

人間は不可避的に老い、そして死ぬ存在である。しかし人間が人間たるゆえんは、掛け替えのない自己自身や他者の生命の減衰と亡減を強く意識し、自覚する存在であるところにある。老年期とは、各人の人生のあらゆる側面において「縮減(リダクション)」が迫られる時期である。縮減とは、身体的諸機能が衰えること、退職、社会的活動や影響力の減少、配偶者との死別などを含む。老年期を迎えるに当たって、我々は「縮減の哲学」をもつことが必要となる。リダクションは、縮小、減少、減力などを意味する言葉で、生産、製造、産出などを意味するプロダクションとは対をなし、その対局に位置する言葉である。老年期を迎えるとき、我々は、生命の発展を期し事物の創造に携わる「生産(プロダクション)」という視点で人生の意味を捉えてきたそれまでの生き方から、かげりゆく生命力や影響力に直面して「縮減(リダクション)」という視点で自己の人生の意味を捉え直し、自己の人生哲学を再構成していくことが迫られるのである。老年期は、縮減における、縮減を通じての「自己成全(セルフ・フルフィルメント)」の時期である。それは生の充実や発展ではなく、生の全局面における縮減を前提にして、自分なりのまとまりのある人生を築き上げていく時期である。我々は老年期において、自己の縮減という自己の有限性の自覚を介して生き方の機軸の転換が求められる。それは同時に、人生の意味の深化でもある。老年期は、より深いところで自己の人生の意味を受け止めていくことのできる時期でもある。老年期には「生産(プロダクション)の哲学」から「縮減(リダクション)の哲学」への転換が求められるが、それは今日の限りない生産と消費の循環という高度産業社会の価値観や信念体系と真っ向から対立するものである。老年期に求められる「縮減の哲学」は、現代社会の哲学と全く相反するものになっているので、現代に生きる我々は、老いと死を受容することが本当に難しくなっている。だからこそ老いと死の受容の問題を生涯学習の中核的な課題に据え直すことは、高度産業社会の価値観や信念体系に基本的な反省を促すうえで必須の課題でもある。今日のように困難になった老いと死の受容のためには、介添えが必要である。老いと死の受容は、老いつつある人・死にゆく人と、当人を取り巻く近しい人々の間に、揺るぎない確固とした信頼関係が成り立っていなければ達成できない。また老いと死の受容を試み、受容にチャレンジする人の真摯な企て・生き方は、身近に居る後続世代の人々に深い形成作用を及ぼす。人間の生を、出生から死にいたるまでのライフ・サイクル全体から捉えれば、「発達(ディベロプメント)」の彼方に横たわる縮減を視野に入れた人間形成論が必要になってくる。この新たな人間形成論は、子供と大人の発達や異世代間の相互規制をも含む人間形成だけではなく、人間の生の必然的契機である縮減を受容することによる自己成全までを考察の対象とするものである。このような人間形成論に基づけば、若い世代も老年世代も、老いと死という人生に不可避の事態をいかに受容していくのかが、生涯学習の必然的な課題となるのである。