- 著者
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北脇 義友
- 出版者
- 瀬戸内市立国府小学校
- 雑誌
- 奨励研究
- 巻号頁・発行日
- 2015
岡山藩は備前地域と備中地域からなるが、現在までに備前地域では17世紀の墓が約400基、備中地域では約320基の儒教の墓を見付けることができた。備中地域の儒葬墓は、約8割方の地域の調査が終わった。これまでの調査から、藩主池田光政が進めた儒教政策によって武士や領民は儒教の墓を造った。さらに、備前国では、湊町の牛窓村・片上村にそれぞれ約20基のまとまった儒葬墓が見つかった。このことから、この二つの村では一時ではあるが、儒教が広がっていた。管見の知る限り領民の儒教としては最も古いと思われる。さらに備中地域でも、大庄屋一族が儒教の墓が造ったことがわかった。しかし、備前地域と備中地域の墓の形式は異なっている。会津藩では、儒葬の墓地として寛文4年(1664)に指定した大窪山で17世紀の儒葬墓26基を見付けた。そして、この墓地で最も古いのは1674年で藩主保科正之の死後造られ始めたことが分かった。水戸藩では、儒教の墓地として指定した酒門墓地と常盤墓地について調査した結果、17世紀の墓23基を採取した。この中で特徴的であったのは「香取氏幻心居士墓」(1684年死去)と戒名をもった墓の存在であった。これは仏教と妥協を図ったと考えられる。岡山藩と儒葬墓を比べると会津藩と水戸藩では少なく、岡山藩と比べて儒教の広がりは限定的であった。土佐藩では、家臣の儒葬墓が散在していることから、多くが未調査である。今回の調査では、岡山藩・会津藩・水戸藩と比べて古い時期から儒教の墓が造られている。儒者小倉三省の父(1654死去)の墓は棹石の下部に蓮華を刻み、ここでも仏教と妥協を図っている。さらに墓石の背後に長方形の石垣を積み、独特の墳をもっている。近世における儒教は17世紀後半に家臣を中心に広がっていった。そして、この事態の墓は、多様性をもっていることが分かった。