著者
厳 安生
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.1-22, 2006

本論文はほぼ同じ頃にできた表題ニテキストに対する精読と比較を通して日中両国が開けた世界に面した当初に取った姿勢、見せた差異ならびにしばしの連動風景を考察するものである。分析例に両者の「博覧会」と「営業力」に関する記述および効果を取り上げる。英国などで万国博覧会という産業文明の新制度に開眼し「進歩」史観を刺激された岩倉一行は帰国後すぐ同制度の導入に着手、そして一世紀後の大阪万博につながっていくのだが、それと上海万博(二○一○)との四十年の隔たりは十九世紀後半以降の両国の近代化に見られる時間差にほぼ対応している。その間の、始めは同じ出発の時点に立ち同じ東洋的「先知先覚」の自負に燃えて且つお互い遜色のない見聞や見識を示していながら、郭のそれが国の開化と進歩に何ら役立つことができなかったのは何故か。一方の「営業力」に関しても岩倉使節団がそれを考察の軸にして得た諸々の啓発が後の「殖産興業」に大きな役割を果した傍に、郭による同様の考察と先見性に富む一連の建言は本国の「営業力」開発につながるどころか、建言者本人の自滅ひいて全発言の一世紀余の埋没を招くほかに効果はなかった。この事例、後世に尽きない思考を残すと同時に東アジア比較文化史を研究する上でも恰好なスタディ・ケースになろう。