著者
友廣 哲也
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.10, no.16, pp.71-91, 2003-10-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
128

群馬県域の遺跡からは弥生時代終末から古墳時代前期にかけて多数の外来土器が出土する。このため群馬県域における古墳時代の成立は外からのインパクト・圧力によるところが大きいとされている。1952年群馬県太田市石田川改修工事で偶然発見された土師器の中に,当時は出自が分からなかったS字状口縁台付甕が含まれていた。発見当初より群馬県内の土師器は,どこかから分からないが人が土器を持って移動してきたと考えられてきた。その後S字状口縁台付甕が東海に出自を持つことが分かってからは,東海地方の人々が集団で移動してきたとされるようになった。これが現在県内では大多数の支持を受けている入植民説である。そして最初の入植の候補地には,東海様式にいち早く変換したことを理由に,高崎市井野川流域が比定されている。入植民説に従えば東海の人々はなぜ群馬県域を目指したのか,どのくらいの人が来たのか,入植民と在地の人々との軋轢は無かったのか,さらに当時の群馬に住んでいた人々の社会・文化は壊滅・崩壊したのか等々の問題を解決しなければならない。しかし,一方外来土器の出土することを人の移動に連動させないする解釈もある。交易や交流によって様々な地方の土器が行き来した結果と考える解釈である。外来土器が出土する現象は,弥生時代終末期から古墳時代前期に限った特徴では無く,たとえば沖縄の貝が九州や北海道でも確認される事例や,古墳時代後期の土器が他地域で確認される例もあり,時代を限らず交易や交流の存在を指摘されるものも少なくない。したがって筆者は外来土器の出土が即ち人の移動に連動するという理解では無く,交流があったとの視点で理解したいと考えている。群馬県内では弥生時代中期の遺跡から多くの外来土器が出土する。そのような遺跡は低湿地に占地し,水田耕作を開始したと考えられる遺跡である。その中には弥生時代中期から古墳時代へと途切れることなく継続する遺跡も少なくない。そうなれば入植民説では説明できない。そこで筆者は外来土器が出土することは,外来の文化との接触・交流があったとの視点に立ち,再度弥生時代終末から古墳時代前期にかけての遺跡を検討したいと考えている。井野川流域には東海からの入植地とされ東海の土器様式を持つとされる多くの遺跡がある。その中で弥生時代中期に始まり古墳時代へと継続した新保遺跡(大量の土器・木器・骨角器を出土している)を取り上げ交流の視点から検討をしたい。