著者
古川 一明
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.179, pp.269-294, 2013-11-15

東北地方の宮城県地域は,古墳時代後期の前方後円墳や,横穴式石室を内部主体とする群集墳,横穴墓群が造営された日本列島北限の地域として知られている。そしてまた,同地域には7世紀後半代に設置された城柵官衙遺跡が複数発見されている。宮城県仙台市郡山遺跡,同県大崎市名生館官衙遺跡,同県東松島市赤井遺跡などがそれである。本論では,7世紀後半代に成立したこれら城柵官衙遺跡の基盤となった地方行政単位の形成過程を,これまでの律令国家形成期という視点ではなく,中央と地方の関係,とくに古墳時代以来の在地勢力側の視点に立ち返って小地域ごとに観察した。当時の地方支配方式は評里制にもとづく領域的支配とは本質的に異なり,とくに城柵官衙が設置された境界領域においては古墳時代以来の国造制・部民制・屯倉制等の人身支配方式の集団関係が色濃く残されていると考えられた。それが具体的な形として現われたものが7世紀後半代を中心に宮城県地域に爆発的に造営された群集墳・横穴墓群であったと考えられる。宮城県地域での前方後円墳や,群集墳,横穴墓群の分布状況を検討すると,城柵官衙の成立段階では,中央政権側が在地勢力の希薄な地域を選定し,屯倉設置地域から移民を送り込むことで,部民制・屯倉制的な集団関係を辺境地域に導入した状況が読み取れる。そしてこうした,城柵官衙を核とし,周辺地域の在地勢力を巻き込む形で地方行政単位の評里制が整備されていったと考えた。