著者
柴田 純
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.109-139, 2008-03-31

柳田国男の〝七つ前は神のうち〟という主張は、後に、幼児の生まれ直り説と結びついて民俗学の通説となり、現在では、さまざまな分野で、古代からそうした観念が存在していたかのように語られている。しかし、右の表現は、近代になってごく一部地域でいわれた俗説にすぎない。本稿では、右のことを実証するため、幼児へのまなざしが古代以降どのように変化したかを、歴史学の立場から社会意識の問題として試論的に考察する。一章では、律令にある、七歳以下の幼児は絶対責任無能力者だとする規定と、幼児の死去時、親は服喪の必要なしという規定が、十世紀前半の明法家による新たな法解釈の提示によって結合され、幼児は親の死去や自身の死去いずれの場合にも「無服」として、服忌の対象から疎外されたこと、それは、神事の挙行という貴族社会にとって最重要な儀礼が円滑に実施できることを期待した措置であったことを明らかにする。二章では、古代・中世では、社会の維持にとって不可欠であった神事の挙行が、近世では、その役割を相対的に低下させることで、幼児に対する意識をも変化させ、「無服」であることがある種の特権視を生じさせたこと、武家の服忌令が本来は武士を対象にしながら、庶民にも受容されていったこと、および、幼児が近世社会でどのようにみられていたかを具体的に検証する。そのうえで、庶民の家が確立し、「子宝」意識が一般化するなかで、幼児保護の観念が地域社会に成立したことを指摘し、そうした保護観念は、一般の幼児だけでなく、捨子に対してもみられたことを、捨子禁令が整備されていく過程を検討することで具体的に明らかにする。右の考察をふまえて、最後に、〝七つ前は神のうち〟の四つの具体例を検討し、そのいずれもが、右の歴史過程をふまえたうえで、近代になってから成立した俗説にすぎないことを明らかにする。
著者
岩本 通弥
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.265-321, 2008-03-31

本稿は日本近代の産育儀礼の通史的展開として、その一大転機と位置付けられるであろう民力涵養運動期における「国民儀礼」の創出について、民俗学的観点から分析する。第一次大戦の戦後経営ともいえる民力涵養運動は、日露戦後の地方改良運動の延長と見做されたためか、近代史でも地方改良運動や後続の郷土教育運動・翼賛文化運動に比べ、研究蓄積はさほど厚くないが、民俗学的にみると、その史料には矯正すべき弊習として従前の暮らしぶりも描写されるなど、実に興味深い記述が多い。この運動は形式上、内務省の示した「五大要綱」に応じた、各県・各郡・各町村の自己変革であるため、その対応は地方毎であるが、列島周縁部では、例えば岩手県では敬神崇祖の強調で伊勢大麻を奉祭する「神棚」設置が推進され、鹿児島県では大島郡に対し、「神社ナキ地方ハ我カ皇国ノ不基ヲ定メ賜ヒタル…先賢偉人ノ神霊ヲ奉祀スヘキ神社ヲ建立スルコト」と命じるなど、一九四〇年代の神祇院体制への土台として地域的平準化が図られており、従前の竈神や納戸神・便所神などへの素朴で個別的な民間信仰は、天照の下に統合され、家内安全も豊作・安産祈願も「天照のお蔭」と思わせるような換骨奪胎過程が見てとれる。そのほか各地の記事を通覧すると、門松や注連縄、初詣や七五三、神前結婚式の普及を推奨したり、礼服規定で喪服を黒に統一するなど、今日日本で「伝統」と見做される「国民儀礼」の多くは、この期の運動によって成立するが、それまで地方毎に多様だった民俗文化を平準化し、「文化的ならし」を図る一方、自治奉告祭や出征兵士の送迎、三大節など、地域共同体に何かしらの出来事があれば、「氏神」に参集させ、新たな形式の「集団参拝」を強要するなど、私的で人的であった習俗を、公的で外部からも見える可視的な社会的儀礼へと変換させた。それは地域内階層差や初生児優遇の儀礼を平等化する一方、忠君愛国へ向けた儀礼の全国的画一化の端緒ともなった。
著者
森栗 茂一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.95-127, 1994-03-31

仏教には,水子を祀るという教義はないし,水子を各家で祀るという祖先祭祀も,前近代の日本にはまったくなかった。にもかかわらず,今日,「水子の霊が崇るので水子供養をしなければならない」と,人々に噂されるのはなにゆえであろうか。いわゆる1970年代におこり,80年代にブームを迎えた水子供養が,すでに20年を経過した今日,これを一つの民俗として研究してみる必要があろう。前近代の日本では生存可能数以上の子供が生まれた場合,これをどのように処理してきたか。一つには,予め拾われることを予期して,捨て子にする風があった。捨て子は,強く育つと信じられ,わざわざ捨吉などの名前をつけたこともあった。しかし,社会が育ててくれる余裕がないと思えるとき,間引きや堕胎がおこなわれた。暮らしていけないがゆえの間引きや堕胎を,人々は「モドス」「カエル」と言って,合理化してきた。実際,当時の新生児の生存率は低く,自然死・人為死に関わらず,その魂が直ちに再生すると信じて,特別簡略な葬法をした。それでも,姙娠した女が子供を亡くすということは,女の心身にとっては痛みであり,悩みがないわけではない。しかも,明治時代以降の近代家族が誕生するにあたって,女は「良妻賢母」「産めよ増やせよ」「子なきは去れ」と,仕事を持たない「産の性」に限定された。そのため,女は身体の痛みの上に,社会的育徳という痛みを積み上げられた。そんな悲痛な叫びが,水子供養の習俗に表れている。ところが,この女の叫びは,宗教活動の方向と経営を見失った寺院のマーケットにされてしまう。寺院や新宗教の販売戦略,心霊学と称するライターによって演出され,読み捨て週刊誌に取り上げられてひろまった。明治時代以降の近代家族は,男の論理による産業システムのためのものであった。その最高潮である60年代の高度経済成長が終わった70年代に入って,水子供養が出てきていることは興味深い。産業社会の幻影が,女を水子供養に走らせた。その女を,寺院は顧客として受け入れた。こうして,女は金に囲いこまれて,水子という不安に追い込まれ,水子供養という安心に追い込まれていったのである。そこで,彼女らの残した絵馬を分析することで,女の追い詰められた心理の一端を,分析してみたいと思う。
著者
小島 道裕
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.113, pp.113-134, 2004-03-01

永禄六〜七年(一五六三〜四)の旅行支出簿である表題の資料は、当時の旅行の実態や、都市的な場、そして物価やサービスの価格についての豊富な情報を含んでいる。これについては既に一度史料紹介を行ったが、地名比定は大幅に改善することができるようになり、また関係史料との比較などから、内容についても分析を進めることが可能になった。醍醐寺の僧侶と思われる記者の目的は、同じ醍醐寺の無量光院院主堯雅の東国での付法と関係があり、帳簿の一部で支出が見られない部分は、堯雅の滞在先とほぼ重なる。すなわち、帳簿に空白部分があるのは、関係する真言宗寺院を用務で訪ねていたため、支出の必要がなかったものと考えられる。それ以外の部分ではほとんど旅籠に宿泊しているが、旅籠代がかなり一定していることをはじめ、他の料金にもサービスの量に応じた相場があったものと思われる。このことは、広汎な旅行の需要と供給の結果としか考えられず、当時既に、経済的関係のみで旅行を行うことが可能なシステムが存在していたと見なせる。また、旅籠代はかなりの部分で一泊二食二四文であるが、これは一五世紀初めの史料とも一致し、その他の料金にも大きな変動がないものがある。本史料は、長期的な価格変動の検討にも道を開いている。旅籠や昼食を提供しているそれぞれの場について見ると、外来者向けのサービスを自立したものとして持っており、近世に引き継がれたものも多い。近世の交通体系は、このような中世段階で自然発生的に成立していた旅行のシステムを前提にしてできたものと言うことができる。
著者
一ノ瀬 俊也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.131, pp.51-84, 2006-03-25

戦場における佐倉歩兵第五七連隊の行動は、いくつかの連隊史や回想録で比較的よく知られている。しかし、兵士たちの平時の日常生活、意識については不明な点も多いように思われる。本稿は一九三四(昭和九)年に連隊のある上等兵がほぼ毎日書いていた日記帳の内容を分析して、連隊の兵士が毎日どのような訓練・生活を送っていたのかを再構成することを目的とする。日記の筆者は(おそらく)三三年一月現役入営し、翌三四年七月一九日除隊している。日記帳にはこのうち三四年一月一日から除隊後の同年八月一八日までの記述がある。具体的に千葉での演習・勤務、富士山麓での演習、対抗競技と連隊への帰属意識、日常の衣食住、私的制裁、連隊と地域社会との関わり、といった諸テーマを設定して、兵士たちの〈日常〉の再構成に努めるとともに、彼らが自己の所属する軍隊をどうみていたのか、それは帝国軍隊の支持基盤たりえたのか、といった問題にも展望を示したい。なお、参考資料として、本日記の全文を連隊生活とは直接関係のない除隊後のものを除き、翻刻した。
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.459-472, 2017-03-31

本稿は、民俗儀礼を起源とする俳句の季語を文芸資源と捉え、その形成の過程を論じようとするものである。七五三という儀礼は実は新しく、都市的な環境のなかで成立したものである。そして特に現代では古い状況から新しい状況へと変化することを示す儀礼というよりも、人生の階梯を晴れ着などで示す表層的な儀式という性格が顕著である。そうした七五三が文芸資源として俳句作品に用いられる際には、子どもの成長や晴れ着の着こなし、儀式のなかでの動きを切り取るものとして機能している。社会的な儀礼よりも一時的な儀式としての意味合いが強調される。一方、岡見は「堀川百首」の源俊頼の和歌における「をかみ」の語釈として胚胎し、近世の季寄せや歳時記の類にこの語に関する関心が引き継がれてきた。記録上は、多少のバリエーションがあり、担い手や方法に差異があるが、実際の民俗儀礼として明確に確認はできない。この語は俳句作品のなかでは年の暮の情景を示すものとして、さらには時間感覚を表出させるものとして働く場合が多い。それは幻想的であり、年中行事というよりも特殊な境界の時空をとらえるものとなっている。
著者
久留島 典子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.167-180, 2014-01-31

戦功を記録し、それを根拠に恩賞を得ることは、武士にとって最も基本的かつ重要な行為であるとみなされており、それに関わる南北朝期の軍忠状等については研究の蓄積がある。しかし戦国期、さらには戦争がなくなるとされる近世において、それらがどのように変化あるいは消失していくのか、必ずしも明らかにされていない。本稿は、中世と近世における武家文書史料の在り方の相違点、共通点を探るという観点から、戦功を記録する史料に焦点をあてて、その変遷をみていくものである。明治二年、版籍奉還直前の萩藩で、戊辰戦争等の戦功調査が組織的になされた。そのなかで、藩の家臣たちからなる軍団司令官たちは、中世軍忠状の典型的文言をもつ記録を藩からの命令に応じて提出し、藩も中世同様の証判を据えて返している。これを、農兵なども含む有志中心に編成された諸隊提出の戦功記録と比較すると、戦死傷者報告という内容は同一だが、軍忠状という形式自体に示される儀礼的性格の有無が大きな相違点となっている。すなわち幕末の藩や藩士たちは、軍忠状を自己の武士という身分の象徴として位置付けていたと考えられる。ではこの軍忠状とは、どのような歴史的存在なのか。恩賞給与のための軍功認定は、当初、指揮官の面前で口頭によってなされたとされる。しかし、蒙古襲来合戦時、恩賞決定者である幕府中枢部は戦闘地域を遠く離れた鎌倉におり、一方、戦闘が大規模で、戦功認定希望者も多数にのぼったため、初めて文書を介した戦功認定確認作業がおこなわれるようになったという。その後、軍事関係の文書が定式化され、戦功認定に関わる諸手続きが組織化されていった結果が、各地域で長期間にわたって継続的に戦闘が行われた南北朝期の各種軍事関係文書であったとされる。しかし一五世紀後半にもなると、軍事関係文書の中心は戦功を賞する感状となり、軍忠状など戦功記録・申告文書の残存例は全国的にわずかとなる。ところがその後、軍忠状や頸注文は、室町幕府の武家故実として、幕府との強い結びつきを誇示したい西国の大名・武士たちの間で再び用いられ、戦国時代最盛期には、大友氏・毛利氏などの戦国大名領国でさかんに作成されるようになった。さらに豊臣秀吉政権の成立以降、朝鮮への侵略戦争で作成された「鼻請取状」に象徴されるように、戦功報告書とその受理文書という形で軍功認定の方式は一層組織化された。関ヶ原合戦と二度の大坂の陣、また九州の大名家とその家臣の家では、近世初期最後の戦争ともいえる島原の乱に関する、それぞれ膨大な数の戦功記録文書が作成された。この時期の軍忠状自体は、自らの戦闘行動を具体的に記したもので、儀礼的要素は希薄である。しかもそれらは、徳川家へ軍功上申するための基礎資料と、恩賞を家臣たちに配分する際の根拠として、大名の家に留めおかれ管理・保管された。やがてこうした戦功記録は、徳川家との関係を語るきわめて重要な証拠として、現実の戦功認定が終了した後も、多くの武家で、家の由緒を示す家譜等に編纂され、幕府自体も、こうした戦功記録を集成していくようになった。以上のように、戦功記録の系譜を追ってくると、戦功を申請し恩賞に預かるというきわめて現実的な目的のために出現した軍忠状が、その後、二つの方向へと展開していったことが指摘できる。一つは事務的手続き文書としての機能をより純化させ、戦功申告書として、申請する側ではなく、認定する側に保管されていく方向である。そしてもう一つは、「家の記憶」の記録として、家譜や家記に編纂され、一種の由緒書、つまり記念し顕彰するための典拠となっていく方向である。最初に考察した幕末萩藩の軍忠状も、戦功の記録が戦国時代から近世にかけて変化し、島原の乱で、ある到達点に達した、その系譜のなかに位置づけられる。そしてこのことは同時に、近代以降の軍隊が、中世・近世武士のあり方から執拗に継受していった側面をも示唆するといえる。
著者
渡邉 一弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.95-118, 2012-03-30

日中戦争中の弾丸除けの御守である千人針や日の丸の寄書きを見ていると、かなり頻繁に出てくる見慣れない漢字のような文字「[扌+合+辛][扌+台][扌+合+辛][扌+包+口](サムハラ)」。その文字は千人針のみならず衣服に書き込まれたり、お守りとして携帯された紙片に書かれたり、戦時中の資料に様々な形で見られサムハラ信仰とも言うべき習俗であることが分かる。戦時中のサムハラ信仰は、弾丸除け信仰の一つに集約されていたと考えられるが、その始まりは少なくとも江戸時代に遡り、その内容は、怪我除け、虫除け、地震除けなど多岐にわたっていた。「耳囊」をはじめとした江戸期の随筆にこの奇妙なる文字、あるいは符字とも呼ばれる特殊な漢字が度々紹介されている。その後、明治時代になり、日清・日露戦争といった他国との戦争に際して、弾丸除けのまじないとして、活躍することとなる。出征する兵士に持たせるお守りとして大量に配られ、その奇妙なる文字は兵士たちの間で弾丸除けの俗信として広がっていった。なかでも田中富三郎という人物の活動がサムハラ信仰を全国的に知らしめるきっかけとなり、戦時中のサムハラ信仰を全国的に普及させ、現在のサムハラ神社に引き継がれている。俗信の研究の重要性は、宗教などに権威化されたお札などと違って、民間信仰のなかから生まれ、少しずつ様々な意味づけがなされ、いつの間にか人々がその奇跡を信じ、成立するものである。戦時中の人々は、弾丸除けの俗信を信じることで、その現実を乗りきろうとした。こうした俗信の由来は、その時代時代に信じやすいように様々な逸話が加えられ、加工されていく。その時代のなかで解釈することと、その俗信の変化を通史的に整理することと、その両面が研究として必要となる。サムハラ信仰の研究は少なからずあるが、断片的であり、通史的に現代までを俯瞰する研究はない。本稿では、江戸期に始まるサムハラ信仰を現代まで俯瞰することを目的とする。
著者
宇田川 洋
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.107, pp.217-249, 2003-03-31

H. WATANABE (1992) reported that if it can put the history of chashi upon the history of treasure, it will be enlightend a way to understand the social meaning of chashi through the relation of the social structure between the chashi and the treasure. And he considerd so that the treasures are inducements or a purpose of the struggle, both the treasures and chashi are the constructed element of “battle complex” in aynu.In this paper, I consider the prestige goods or the ikor such as treasures that are the sword, the lacquer ware and the tamasay (the necklace consisting of glass balls) and so on, from Satsumon period to Modern Age.K. YAMAURA (2000) introduced the trade as action at a distance by C. Renfrew. It is from Mode 1, the direct approach, to Mode 10, the trade at the barter port. And he arrived at the conclusion that there is Mode 4 in Epi-Jomon period and Mode 8 or 9 in Satsumon period. At present, this study of the prestige goods or the ikor such as treasures will give the data for searching the trade as action at a distance in aynu society.The materials of Satsumon Culture (Fig.3)There are some bronze bowls excavated at Biratori Town, Eniwa City and Kushiro City in Hokkaido from about 10th century to 12th century. In these materials, Sahari-bowls from so-called Korea Peninsula are including. And a bronze mirror, Koshu(Hu-zhou)-kyo, found at Zaimokucho 5 site in Kushiro City from Sekko-sho (Chekiang) in China, it may be 12th century. These kind of remains are of Continental origin. Another special material is laquered bowls from Honshu found in Sapporo City and Kushsiro City from 10th century to 13th century. In Yoichi Town, two bronze bells (taku) produced from China are found in a grave pit. And so two bronze portions of belt (katai-kanagu) are found in same Yoichi Town, these goods may be from Honshu.The materials of Okhotsk Culture (Fig.4)It is a well-known fact that the iron and bronze artifacts from Mohe or Tongren Culture and Jurchen Culture in the basin of the Amur River and the Maritime Province of Siberia are found in Okhotsk Culture. There are the bronze portions of belt, the bronze, copper and tin bells (taku and suzu) and iron halberds and so on found in Eshashi Town, Tokoro Town, Abashiri City, Nakashibetsu Town and Nemuro City.The peoples of Okhotsk Culture obtained some remains from Honshu as well as many metal artifacts from of Continental origin. For example, the Warabite-tou which is the sword with bracken like handle, are found in Esashi Town, Abashiri City, Tokoro Town and Rausu Town.The materials of so-called Middle Age and Modern Age (Fig.6~12)Figs.6 and 7 are the Japanese helmets made of iron and bronze found in Rumoi City, Fukagawa City, Biratori Town, Sapporo City, Kushiro City, Rikubetsu Town, Shizunai Town and Atsuma Town. The end of hoe-like materials (kuwasaki) made of iron and copper are Figs.8 and 9 found in Kuriyama Town, Shakotan Town, Yakumo Town, Sapporo City, Shizunai Town and Biratori Town and so on. It was recorded in the old documents of Edo era that these artifacts were the treasure named kira-us tomikamui, the god of treasure with horn, in aynu society.Another archaeological remains are the bronze mirrors showed Figs.10 and 11. Most of the mirrors are excavated from the grave pits of the Middle Age, and the greater part of the mirrors are made of Japan origin. Whenever the dress up time, aynu women wear the tamasay, the necklace consisting of glass balls, and the sitoki, the mirror or the disk made of metal hanging down the lower end of the tamasay. That is a matter of cource the tamasay and the sitoki are the treasures in aynu society. In referred to the Fig.11-16~18, the brass or bronze disks like the sitoki are found from the aynu grave pits in Akan Town, Setana Town and Nemuro City.Besides, the special artifacts at least I regard them as the prestige goods are found. For example, Fig.11-20~31 found in Tokoro Town, Biratori Town and Chitose City are the iron coil-like remains which are probably from of northern peoples origin like as shaman's belt. Fig.11-32~34 found in Biratori and Tokoro Town are the small bronze portions and the origin may be Mohe and Jurchen Culture in Siberia. In these bronze portions, a example of Fig.11-34 found in Tokoro Town belongs to Okhotsk Culture.Fig.12 is the white porcelains of Honshu origin which were excavated at Katsuyama-date site in Kaminokuni Town. The symbolic mark is notched out of the bottom of these plates that resemble closely the mark of itokpa, the mark of ancestor, or the mark of sirosi, the sign of owner, in aynu society. The aynu peoples have been living in the Katsuyama-date may think these porcelains as the prestige goods.Concerning the trade of archaeological materials, a lot of the prestige goods or the ikor such as treasures excavated at Menashidomari site in Eshashi Town of Okhotsk Culture, Moyoro site in Abashiri City of Okhotsk Culture and Ohkawa site in Yoichi Town of Satsumon Culture, Middle Age and Modern Age. So these three archaeological sites may be main barter ports of trade from Satsumon period to Modern Age.In this connection, we can find that the prestige goods are placed on chashi in the old documents of Edo era, and around the ikor many plunderer exist in aynu legends. For example, the name of topattumi (a thief), ikasitumi (a group robbers) and ikkatumi (a ruffian) appear at the main area of Hidaka, Tokachi, Kushiro and Nemuro district. Thus, it can be said that there is a possibility that a study of the prestige goods or the ikor make clear the process of a formation of the Aynu culture. We should treat these archaeological remains more carefully.
著者
根津 朝彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.163, pp.63-89, 2011-03-31

荒瀬豊(1930年生まれ)の思想をジャーナリズム概念とジャーナリズム史の観点から考察する。そこにはジャーナリズム・ジャーナリズム史を研究する意味はどこにあるのかという問いが含まれる。本研究は,初めてジャーナリズム史研究者である荒瀬豊の思想に焦点をあてたものである。具体的には荒瀬の思想形成,ジャーナリズム論,ジャーナリズム批判を通して検討する。「❶思想形成」では,荒瀬が東京大学新聞研究所において研究者生活を過ごす前史にあたる学生時代と新潟支局の朝日新聞記者時代に彼が「現実と学問をつなぐ」意識をいかに培ってきたのかをたどる。新潟の民謡を論じた「おけさ哲学」の分析とともに荒瀬の問題意識の所在を位置づけた。「❷ジャーナリズム論」では,主に戸坂潤と林香里のジャーナリズム論を参照しながら,荒瀬がジャーナリズムを単にマス・メディアの下位概念として理解するのではなく,両者にある緊張関係を考察したことを重視した。荒瀬がとらえたジャーナリズム概念とは,現実の状況に批判的に向き合う思想性を意味し,ジャーナリズムに固有の批評的役割を掘り下げたことを明らかにした。「❸ジャーナリズム批判」では,荒瀬の歴史上におけるジャーナリズム批判を具体的に検討した。米騒動において「解放のための運動」と新聞人の求める「言論の自由」が切り離さる過程を荒瀬は読み込み,新聞の戦争責任と絡めて「一貫性ある言論の放棄」を見出した。荒瀬の敗戦直後の新聞言説の分析をとらえ返すことで彼のジャーナリズム批判の方法が論理の徹底性にあることを明示した。最後に課題を挙げた上で,民衆思想を潜り抜け,知識人との距離感と諷刺・頓智への感度を有する荒瀬の実践的な批判性が,自己の知識人像とジャーナリズム思想を結びつける原理であったことを提起した。
著者
鵜澤 由美
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.225-263, 2008-03-31

これまで、近代以前の日本には誕生日の習慣はなかったと考えられ、誕生日に関する研究もほとんどされてこなかった。しかし、日本でも天皇や将軍などの誕生日は祝われ、古くは奈良時代に誕生日の行事が行われていたのである。そこで本稿では、近世における誕生日の実態を明らかにするべく、誕生日の祝われ方、位置付けなどを考察していく。将軍の誕生日には、将軍の御前で祝が行われるとともに、殿中に祗候している者たちに餅や酒が下賜されるという行事が行われた。将軍の誕生日は、将軍と、殿中で祗候する詰衆や旗本、御家人との主従関係を意識させる儀礼の一つであったのである。この祝の構造は大名家の一部でも見られ、藩主の誕生日に家臣が集められて祝儀が行われた。公家にとっての誕生日は節句のようなものであり、当主が自らの誕生日を最も盛大に祝っていた。家族や友人と祝宴を開くのが一般的であった。産土神である御霊社への参詣も行われた。また、天皇の誕生日は、近世に入っても毎月行われ、女官が心経を読誦した。下級武士や庶民は、子供や孫の誕生日を中心に祝った。赤飯を炊き神に上げ、親類や隣人と会食をするなど、家族的な行事だった。誕生日には餅や酒が出され、また厄除けの力があるという小豆も食べられた。神仏の信仰も重視されている。日頃の無事を喜び、今後も息災であることを願ったと推測される。年を取るのはみな一斉に正月であったけれども、前近代の人々も、自分や家族などの生まれた日を特別な日として意識していた。一年に一度めぐってくる誕生日を記念し、祝うという概念があったのである。明治以降、西洋文化が輸入され、戦後に満年齢が制度化されて誕生日に加齢の要素が加わり、生活の欧米化も加速していく中で、今日のような祝い方になったと考えられる。
著者
山本 理佳
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.187-219, 2015-02-27

本稿で取り上げる大和ミュージアム(広島県呉市)は,正式名称が「呉市海事歴史科学館」であり,呉市を設立主体とする博物館である。呉における戦前から戦後に至る船舶製造技術を主たる展示内容としているが,愛称の「大和ミュージアム」が示すように,旧日本海軍の超大型軍艦「大和」の建造およびその軍事活動が展示の中心となっている。こうした特徴から,大和ミュージアムは少なからぬ物議を醸しつつ,2005(平成17)年4月23日に開館した。ただし,多くの関係者の予想を大きく裏切り,大和ミュージアムは極めて多くの入館者を集め,開館後約8年を迎えた2013(平成25)年3月17日,累計入館者数が800万人に達した。通常の地方の歴史博物館の年間入館者数が数万人という規模であることからも,その極度の人気ぶりがうかがえる。この博物館は,その人気ぶりから呉市やその周辺の観光・地域戦略を大きく変化させている。本稿では,そうした大和ミュージアム開館を契機とする呉市周辺の観光・地域戦略の変化について明らかにするものである。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.139, pp.157-185, 2008-03-31

鎌倉前期の諏訪神社史料群は、『吾妻鏡』や『金沢文庫文書』などが中核になっており、鎌倉後期には『陬波御記文』『陬波私注』『隆弁私記』『仲範朝臣記』『諏訪効験』『広疑瑞決集』など諏訪信仰に関する史料群が数多くつくられた。これらは、いずれも鎌倉諏訪氏と金澤称名寺の関係僧侶の結合によって集積されたものを基礎資料にしてつくられたものという点で共通している。鎌倉期には、中央の国史や諸記録には知りえない知の体系として諏訪縁起が編纂され、関東で仰信される信仰圏が成立していた。鎌倉期においては、神の誓願・口筆を御記文とし、その聴聞を神の神託として重視する思想が流布した。その中で、諏訪大祝の現人神説や祝の神壇居所説、諏訪明神は「生替之儀」があるとする再生信仰など諏訪信仰独自の神道思想が形成されていた。仏教における念仏思想が諏訪神官層にも浸透して、仏道における神職は死後蛇道におちるという社会通念の存在する中で、仏道との葛藤の中から、諏訪神道という独自の思想が形つくられた。諏訪「神道」思想が、伊勢神道や吉田神道が成立する以前のものとして言説化していたこと、などを主張した。