著者
古木 葉子 (鬼頭 葉子)
出版者
京都大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2006

社会学者ギデンズの議論とティリッヒ思想を比較検討し、社会状況におけるティリッヒ思想の役割について研究を行った。近代以降、伝統的な共同体が変化する中で、個人の行為の基準とは何か、道徳的判断について考察した。ティリッヒまたギデンズによれば、我々の時代において、近代以前の伝統的な共同体の物語や展望が揺らいでいる。そのため、個人の行為の基準や体系的認識に対する信念が個人の判断に委ねられるようになった。しかし、人間は何らかの共同体に起源を持ち、自分がどこへ向かうのかを、自らの行為によって選択していかざるを得ない存在である。ティリッヒは、個人が共同体において、何をなすべきかの基準を「道徳的命法」として提示した。道徳的命法とは、共同体において他者の人格を肯定せよ、という命令であり、その根底には宗教的次元がある。現在、個人の行為が影響を及ぼす「他者」の範囲は拡大しつつあり、この基準は、より個人の高い見識や判断を必要とする困難な問題である。また、ティリッヒの死の思想について、同時代の実存主義・実存哲学ならびに同時代のキリスト教神学における死についての考察と比較しつつ明らかにした。ティリッヒは存在論に基づく実存の分析を行う点で、ハイデガーやヤスパースとの接点を持つ。また、「私個人の死」を思惟の対象とする点で、ジャンケレヴィッチの方法とも共通する。二つ目に、ティリッヒはさらに死の向こう側について語るが、この立場は、人間から見た時間軸(過去-現在-未来)と、神の時間軸(始め-終わり)が異なるという時間概念の特徴に基づく。三つ目に、ティリッヒの死の思想に関する問題点。ティリッヒが希望を見出している「永遠」については「わからなさ」を残し、モルトマンのように今「わかる」希望を語る立場とは異なる。また実存的分析に基づく「死」は、他者や世界との関係性といった観点から捉えることは難しい。