著者
古田 尚輝
出版者
成城大学
雑誌
成城文芸 (ISSN:02865718)
巻号頁・発行日
no.204, pp.117-94[含 英語文要旨], 2008-09

本論は、1980年代後半から90年代前半にかけてフランスで大量に放送された日本のテレビ・アニメーションが与えた衝撃と反響を考察する試みである。本論では、これを研究が未開拓であった日本のアニメーションの輸出を手掛かりに探る。 東映動画が製作した『UFOロボ・グレンダイザー』が『ゴールドラック』(Goldorak)と改題してフランスで放送され始めたのは、30年前の1978年7月のことであった。この作品は、従来フランスで放送されていた幼児を対象としたアニメーションとは全く異質で、ロボットを主人公としたキャラクター設定やストリー展開の早さなどで異常な反響を呼んだ。これがきっかけとなって、日本のテレビ・アニメーションの地上波での放送は折からの商業テレビ局の開局を背景に80年代後半から急増し、90年にはアニメーション放送全体の35%を占めるに至った。これを東映動画の記録で見ると、フランスへ輸出されたテレビ・アニメーションは70年代から90年代に東映動画が製作した作品の約60%にも上っている。 しかし、こうした異質な文化の集中豪雨的な輸出は、異文化への免疫性に乏しく批判的視聴を経験していない子どもたちの人気を沸騰させる一方で、アニメーションは幼児向けという既成概念に捕われた親たちの激しい拒絶反応を招いた。日本のアニメーションは暴力的、性的で教育上好ましくないと批判され、90年代後半に入ると批判を恐れる放送局の編成方針も影響してその比率はアニメーションの放送全体の7%にまで激減した。現在では視聴者が限定された衛星放送やケーブル・テレビで細々と放送されているだけである。そして、これによって生じた地上波放送の空白を埋めるかのように、フランスのアニメーション産業は手厚い保護育成策に守られて再起し、アニメーション放送全体に占める割合は80年代後半の約17%が2000年代には約35%に倍増するまでに至っている。 日本のテレビ・アニメーションのかつての"氾濫"と現在の衛星波などでの微々たる放送との激しい落差、その間接的な効果としてのフランスのアニメーション産業の再起。これらは表面的には"異文化の囲い込み"の成功とも解釈出来よう。しかし、その一方で、幼児期に日本のテレビ・アニメーションの大量放送によって触発された好みや感性が今やフランスの青年層に内在化し、"第2のジャポニスム"の底流を形成しているとも考えられる。著者には、一見矛盾するような"異文化の囲い込み"と"第2のジャポニスム"のいずれもが『ゴールドラック』の残影のように思われる。This paper is an attempt to study the impact and repercussions of Japanese television animation widely broadcast in France from the late 1980s to early 1990s by observing the exportation of Japanese animation, which has not received much attention from researchers. In July of 1978, the French TV public channel Antenne2 began broadcasting Toei Animation's UFO Robot Grendizer, changing the title to Goldorak. With its robot hero and fast-paced storyline, contrasting sharply with traditional works of animation broadcast for small children, the program was an extraordinary success. This led to a rapid increase in the broadcasting of Japanese animation on French television in the latter half of the 1980s at a time when new commercial TV stations were being launched, and by 1990, over 35 percent of animation programs in France were Japanese. According to Toei Animation records, about 60 percent of their productions were exported to France from the 1970s into the 1990s. This cultural-import deluge, while tremendously popular with children, who were unprejudiced about foreign culture and uncritical in their viewing habits, aroused much concern among parents, who were accustomed to animation as a gentle, innocent medium for small children. Japanese animation was severely criticized as being too violent, sexually explicit, and unsuited for children, and by the late 1990s, as French TV stations sought to ward off further public criticism, only 7 percent of the animation broadcast in France were Japanese. Today, Japanese animation is only shown on satellite and cable networks to a limited audience. The animation vacuum was filled, thanks to generous protective government subsidies, through a fortuitous comeback by France's own animation industry, which doubled its share of all animations broadcast in France from 17 percent in the late 1980s to 35 percent by the early years of the 2000s. The flood of Japanese animations of the past, and their current limited broadcasting on satellite and cable stations, along with the revival of the French animation industry as the indirect result, might be superficially interpreted as a success in the "encirclement" of alien culture. On the other hand, the tastes and sensibilities cultivated in the period when Japanese animation was broadcast in large volume during the childhood of a generation of young people in France may have been internalized, setting in motion a "second wave Japonisme." These two contradicting factors of "alien culture encirclement" and "second Japonisme" both seem to be reverberations of the "Goldorak" era.
著者
古田 尚輝
雑誌
成城文藝
巻号頁・発行日
no.204, pp.117-94, 2008-09

本論は、1980年代後半から90年代前半にかけてフランスで大量に放送された日本のテレビ・アニメーションが与えた衝撃と反響を考察する試みである。本論では、これを研究が未開拓であった日本のアニメーションの輸出を手掛かりに探る。 東映動画が製作した『UFOロボ・グレンダイザー』が『ゴールドラック』(Goldorak)と改題してフランスで放送され始めたのは、30年前の1978年7月のことであった。この作品は、従来フランスで放送されていた幼児を対象としたアニメーションとは全く異質で、ロボットを主人公としたキャラクター設定やストリー展開の早さなどで異常な反響を呼んだ。これがきっかけとなって、日本のテレビ・アニメーションの地上波での放送は折からの商業テレビ局の開局を背景に80年代後半から急増し、90年にはアニメーション放送全体の35%を占めるに至った。これを東映動画の記録で見ると、フランスへ輸出されたテレビ・アニメーションは70年代から90年代に東映動画が製作した作品の約60%にも上っている。 しかし、こうした異質な文化の集中豪雨的な輸出は、異文化への免疫性に乏しく批判的視聴を経験していない子どもたちの人気を沸騰させる一方で、アニメーションは幼児向けという既成概念に捕われた親たちの激しい拒絶反応を招いた。日本のアニメーションは暴力的、性的で教育上好ましくないと批判され、90年代後半に入ると批判を恐れる放送局の編成方針も影響してその比率はアニメーションの放送全体の7%にまで激減した。現在では視聴者が限定された衛星放送やケーブル・テレビで細々と放送されているだけである。そして、これによって生じた地上波放送の空白を埋めるかのように、フランスのアニメーション産業は手厚い保護育成策に守られて再起し、アニメーション放送全体に占める割合は80年代後半の約17%が2000年代には約35%に倍増するまでに至っている。 日本のテレビ・アニメーションのかつての"氾濫"と現在の衛星波などでの微々たる放送との激しい落差、その間接的な効果としてのフランスのアニメーション産業の再起。これらは表面的には"異文化の囲い込み"の成功とも解釈出来よう。しかし、その一方で、幼児期に日本のテレビ・アニメーションの大量放送によって触発された好みや感性が今やフランスの青年層に内在化し、"第2のジャポニスム"の底流を形成しているとも考えられる。著者には、一見矛盾するような"異文化の囲い込み"と"第2のジャポニスム"のいずれもが『ゴールドラック』の残影のように思われる。
著者
古田 尚輝
出版者
成城大学文芸学部
雑誌
成城文藝 = The Seijo Bungei : the Seijo University arts and literature quarterly (ISSN:02865718)
巻号頁・発行日
no.196, pp.266-213, 2006-09

本稿は、日本のテレビ放送で1950年代から60年代前半にかけて「映画」という表記とその内容がどう変化したかを調べ、その要因を考察するものである。要因は、新興の放送産業と映画産業との関係、放送局の自主製作能力の向上、それに番組編成の変化の3つにあると考えられる。日本の放送局は、テレビ放送開始当初、番組製作能力が未熟であったため、編成の多くを映画会社等が製作したフィルム作品に依存した。そして、ニュース映画、短編映画、漫画映画、劇映画の4種類を概括的に「映画」と表記して放送した。これらはすべて放送局以外の外部製作であった。53年春、NHKはまずフィルムニュースの自主製作を始め、同年11月には外部製作のニュース映画と区別して『映画ニュース』と題して放送し、54年6月にはそこから「映画」表記を除いて『ニュース』として独立させた。NHKはまた、54年度から短編映画の自主製作も始め、54年8月から定時番組『短編映画』を編成し、外部製作と区別して「NHK製作」と表示して放送した。そして、表現法や撮影技術が向上すると、57年11月には「映画」表記のない初めてのフィルム番組『日本の素顔』を始めた。外部製作の作品はその後も「短編映画」と題して放送されたが、本数が減少し、逆に独自の番組名を持ったフィルム番組が増加する。こうして、50年代末までにニュース映画と短編映画から「映画」表記が消える。ニュース映画と短編映画の2つの分野は、映画産業のなかでも周辺に位置し、膨大な経費と人員も必要とせず、放送局の参入が比較的容易であった。一方、漫画映画は、1970年代後半にアニメーションという言葉が定着し「映画」表記が消滅するが、アニメーション製作業は放送への依存度が高く、当初から放送産業の支援産業として組み込まれた。こうして大手映画会社の劇映画だけが最後まで「映画」として残った。大手映画会社は、テレビ放送を敵視する一方でテレビ放送事業に参画するという両面性を見せ、テレビ放送対策で混迷した。日活を除く5社は54年度から55年度にはテレビ放送に劇映画を提供したが、56年度以降は提供を拒否し、58年には日活も加わって「6社協定」を結び、6社の劇映画はすべてテレビ画面から姿を消した。放送局はその空白をテレビ放送用に製作されたアメリカ・テレビ映画の大量編成で埋めた。一方、大手映画会社は、59年に開局した民間放送局に出資し、同時にテレビ映画製作にも着手する。そして、64年2月には再び劇映画のテレビ放送提供に方針転換する。大手映画会社の劇映画が姿を消した58年から64年までの"空白の6年間"は、テレビ放送が事業収入を急速に伸ばし自主製作能力を高め、産業として自立する時期である。逆に映画産業は58年をピークに凋落の傾向が顕著となり、経営規模でも放送産業に凌駕されてゆく。本稿が対象とした50年代から60年代前半は、映画からテレビ放送への映像メディアの主役交代の時期であった。テレビ放送における「映画」表記の変遷にも、こうしたメディアの交代と産業構造の変化が反映していると考えられる。
著者
古田 尚輝
出版者
成城大学
雑誌
成城文藝 (ISSN:02865718)
巻号頁・発行日
vol.196, pp.266-213, 2006-09

本稿は、日本のテレビ放送で1950年代から60年代前半にかけて「映画」という表記とその内容がどう変化したかを調べ、その要因を考察するものである。要因は、新興の放送産業と映画産業との関係、放送局の自主製作能力の向上、それに番組編成の変化の3つにあると考えられる。日本の放送局は、テレビ放送開始当初、番組製作能力が未熟であったため、編成の多くを映画会社等が製作したフィルム作品に依存した。そして、ニュース映画、短編映画、漫画映画、劇映画の4種類を概括的に「映画」と表記して放送した。これらはすべて放送局以外の外部製作であった。53年春、NHKはまずフィルムニュースの自主製作を始め、同年11月には外部製作のニュース映画と区別して『映画ニュース』と題して放送し、54年6月にはそこから「映画」表記を除いて『ニュース』として独立させた。NHKはまた、54年度から短編映画の自主製作も始め、54年8月から定時番組『短編映画』を編成し、外部製作と区別して「NHK製作」と表示して放送した。そして、表現法や撮影技術が向上すると、57年11月には「映画」表記のない初めてのフィルム番組『日本の素顔』を始めた。外部製作の作品はその後も「短編映画」と題して放送されたが、本数が減少し、逆に独自の番組名を持ったフィルム番組が増加する。こうして、50年代末までにニュース映画と短編映画から「映画」表記が消える。ニュース映画と短編映画の2つの分野は、映画産業のなかでも周辺に位置し、膨大な経費と人員も必要とせず、放送局の参入が比較的容易であった。一方、漫画映画は、1970年代後半にアニメーションという言葉が定着し「映画」表記が消滅するが、アニメーション製作業は放送への依存度が高く、当初から放送産業の支援産業として組み込まれた。こうして大手映画会社の劇映画だけが最後まで「映画」として残った。大手映画会社は、テレビ放送を敵視する一方でテレビ放送事業に参画するという両面性を見せ、テレビ放送対策で混迷した。日活を除く5社は54年度から55年度にはテレビ放送に劇映画を提供したが、56年度以降は提供を拒否し、58年には日活も加わって「6社協定」を結び、6社の劇映画はすべてテレビ画面から姿を消した。放送局はその空白をテレビ放送用に製作されたアメリカ・テレビ映画の大量編成で埋めた。一方、大手映画会社は、59年に開局した民間放送局に出資し、同時にテレビ映画製作にも着手する。そして、64年2月には再び劇映画のテレビ放送提供に方針転換する。大手映画会社の劇映画が姿を消した58年から64年までの"空白の6年間"は、テレビ放送が事業収入を急速に伸ばし自主製作能力を高め、産業として自立する時期である。逆に映画産業は58年をピークに凋落の傾向が顕著となり、経営規模でも放送産業に凌駕されてゆく。本稿が対象とした50年代から60年代前半は、映画からテレビ放送への映像メディアの主役交代の時期であった。テレビ放送における「映画」表記の変遷にも、こうしたメディアの交代と産業構造の変化が反映していると考えられる。
著者
古田 尚輝
雑誌
コミュニケーション紀要
巻号頁・発行日
vol.18, pp.23-80, 2006-03 (Released:2012-08-06)
著者
古田 尚輝
出版者
成城大学
雑誌
成城文藝 (ISSN:02865718)
巻号頁・発行日
vol.197, pp.100-75, 2006-12