著者
国武 雅子
出版者
長崎純心大学・長崎純心大学短期大学部
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
vol.1, pp.1-15, 2003-03-01

戦後になって,国家と女性の関係,女性のあり方に関する意識はそれまでとどう変わったのだろうか。これらの問題を市川房枝を中心とする女性運動の側から考えてみたい。市川房枝は,戦前から婦選獲得同盟を組織して婦人参政権運動を展開し,「満州事変」については「戦争反対」を唱えるが,日中戦争が始まると婦人時局研究会を結成して戦時体制に協力していく。そして戦後になると「平和と民主主義」のための婦人参政権を主張する。これらの運動を貫くものは何なのか。何が変わり,何が変わらなかったのか。ここでは特に市川房枝の国家に対する意識に注目して検討する。1945年8月25日,市川は戦前からの女性運動の指導者を中心に戦後対策婦人委員会を結成する。「敗戦」という国家の課題に対応しようとするもので,「アメリカから与えられるより前に」と,日本政府に対し参政権を要求する。この戦後対策婦人委員会の政治委員会を母体に1945年11月3日,参政権運動のための新しい団体として新日本婦人同盟が結成される。戦時期婦人時局研究会によった若い世代を中心としたもので「勤労無産大衆婦人の立場に立ち」,「封建的な鉄鎖」と「金権的な支配」から女性を解放し,民主主義と平和を確立するための参政権の行使を目指した。「政治と台所」という戦前からのスローガンは変わらず,主婦としての女性の政治参加の意義を強調する。1946年4月の第1回総選挙に対して,市川は立候補せず,他の女性候補に対する応援よりも「政治教育」に重点を置いた活動を行う。また, 1947年3月,市川房枝は言論報国会理事であったことを理由に公職追放になるが,その解除の訴願文書の中で彼女は「国民の一人としてある程度協力せざるを得なかった」ことを主張していた。戦前,戦中,戦後を通して一貫してみられるのは,如何に国家の課題に答えるかという発想である。その背景にあるのは国家への帰属意識であり,国家の担い手として認められることが男女の平等,女性の解放につながるという認識である。それは個人が国家の主体として政策に関与することによって,国家が個人の問題を解決するという国家観を前提にしている。