著者
土佐 博文
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.255-274, 2004-02

蘭方医佐藤泰然によって佐倉本町に開かれた蘭医学塾佐倉順天堂には、日本各地から多くの塾生が集まり、その数は数千を数えたという。しかしながら、一部の有名な人物以外の全体像については必ずしも明らかにされていない。これは適塾などのように、全時期にわたってまとまった形で門人帳が残されていないという史料的制約によるものである。また、多くの門人名については村上一郎氏の著書『蘭医佐藤泰然』にも挙げられているが、出身地の記載がなく追跡調査には困難を伴う状況である。そのような状況において、本稿では、一時期の門人の状況を示すものではあるが、門人の出身地が記載されたものとして貴重である、慶応元年閏五月の『佐倉順天塾社中姓名録』をもとにした門人の追跡調査の結果に基づき、詳細が判明した門人について紹介し、その全国的な広がりについて考察する。また、調査によって門人の子孫の所在が確認できた、佐倉藩医で明治以降軍医として活躍する西友輔と、明治期に官界で活躍する茨城県千代川村出身の塚原周造の関係史料について紹介する。最後に、調査の過程において塚原周造関係史料のなかからみつかった、彼が順天堂在塾中に作成したと考えられる『順天塾姓名録』について紹介する。これによって、従来知られている門人帳と比較検討してその分析を試みる。