著者
坂口 英伸
出版者
The Association for the Study of Cultural Resources
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.63-83, 2019 (Released:2020-07-15)
参考文献数
70

本論は小野田セメント株式会社が1950年代より展開した芸術支援活動の一端を解明しようとする試みである。セメント製造業者である同社が異分野といえる芸術に進出した理由は、建築や土木の主要素材というセメントの従前の伝統的イメージからの脱却と、美術素材としてのセメントの利用促進と応用域の拡大にあった。その実現化の手段として同社が目論んだ戦略が芸術活動へのスポンサーシップだった。その代表例として有名なのが野外彫刻展への協賛である。同社は東京都主催の野外彫刻展への出品作家に対して、主に経済と物質面から彼らの制作活動を下支えした。 本論で考察の対象とする芸術支援活動は、①セメント彫刻作品の買い上げと寄贈(買上寄贈)、②依頼主からの注文に応じて作品制作を請け負う受託制作、③児童の造形教育への関与、の3点である。論点①②③のそれぞれについて、本論では具体例を挙げながらその活動内容を詳述し、その意義づけを試みる。 論点①については、野外彫刻展の出品作を主対象とした。小野田セメントは野外彫刻展へ出品された作品(一部)を彫刻から買い上げて全国各地へ寄贈する活動を展開した。現金による作品の買上は、制作活動が彫刻家へ経済的恩恵として還流され、セメント彫刻の創作が活発化する効果があった。 論点②の受託制作とは、個人や団体などのさまざまな依頼主からの要望を小野田セメントが聞き入れ、オリジナル作品を制作するオーダーメイド方式ともいえる。依頼主かの目的や意図に合わせ、同社は彫刻家を選定して作品の制作を依頼、完成作品は依頼主を通じて寄贈された。作品には人々の精神に潤いをもたらす効験が期待された。 論点③の具体例として、プレイ・スカルプチャー(遊戯彫刻)の制作援助、小学校と連携した記録映画の撮影、児童造形作品展への協賛を挙げる。造形教育への支援を通じて、セメントの受容層の拡大とセメントの需要量の増大が目指されたのである 同社の芸術支援活動の動機と目的は、美術素材としてのセメントの利用促進という実利的な側面と、芸術を通じた人々の豊かな精神の涵養や児童の創造性の育成という公益的側面に根差したものだった。同社の芸術援活動によって、日本の戦後美術の新局面が開拓されたと筆者は考える。
著者
坂口 英伸
出版者
文化資源学会
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.1-19, 2017

<p>本論では鉄筋コンクリートの観点から、近代日本の記念碑研究に検討を加える。従来の記念碑研究が銅像を中心とした建設背景や制作者の分析であるのに対し、本研究は鉄筋コンクリートという構造と素材に主眼を置き、近代日本における鉄筋コンクリート造の記念碑の誕生と発展を論じる。記念碑制作の担い手である彫刻家と建築家の関係に着目すると、鉄筋コンクリート造の記念碑が登場する道筋が明瞭となる。記念碑への鉄筋コンクリートの導入者は、西洋建築を学んだ建築家である。その応用の背景には、日清・日露戦争による大量の戦死者の存在があった。鉄筋コンクリート造の記念碑の誕生期にあたる明治40年代、碑文を刻んだ平らな一枚岩を垂直に立てる従来の伝統的な記念碑に加え、戦死者の遺骨や霊名簿などの奉納が可能な内部空間を有する記念碑が必要とされた。内側に空洞をもつ複雑な形態の記念碑の建造には、専門知識と実用に秀でた建築家の関与が欠かせなかったのである。一方で彫刻家もコンクリートを率先して作品に摂取した。硬軟自在なコンクリートは、新たな美術素材として彫刻家の間に浸透、彫刻家は積極的に建築へ接近した。1926(大正15)年、彫刻と建築との融合を目指す彫刻家団体として構造社が誕生。設立者の日名子実三は、建築家・南省吾の監修のもとで《八紘之基柱》を設計、その総高約37mは1940(昭和15)年当時の日本で最大規模を誇った。鉄筋コンクリートという堅牢な構造の採用により、日本の記念碑はかつてないモニュメンタリティを獲得したのである。記念碑は記念事項の将来への伝達を目的に作られる。顕彰すべき事跡の長期的保持は、記念碑の物理的堅牢性に結び付く。記念事項をより長く伝えるためには、より強固な素材と構造が必要である。鉄筋コンクリート(Reinforced Concrete)は、文字通り「補強(reinforced)」を目的とした堅固な素材であり、記念碑の存続を維持するには最適の材料である。記念碑の構造に鉄筋コンクリートが採用された理由は、記念事項の永続性へ対する欲求にあったと結論づけられよう。</p>
著者
坂口 英伸
出版者
文化資源学会
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.1-19, 2017 (Released:2018-07-11)
参考文献数
72

本論では鉄筋コンクリートの観点から、近代日本の記念碑研究に検討を加える。従来の記念碑研究が銅像を中心とした建設背景や制作者の分析であるのに対し、本研究は鉄筋コンクリートという構造と素材に主眼を置き、近代日本における鉄筋コンクリート造の記念碑の誕生と発展を論じる。記念碑制作の担い手である彫刻家と建築家の関係に着目すると、鉄筋コンクリート造の記念碑が登場する道筋が明瞭となる。記念碑への鉄筋コンクリートの導入者は、西洋建築を学んだ建築家である。その応用の背景には、日清・日露戦争による大量の戦死者の存在があった。鉄筋コンクリート造の記念碑の誕生期にあたる明治40年代、碑文を刻んだ平らな一枚岩を垂直に立てる従来の伝統的な記念碑に加え、戦死者の遺骨や霊名簿などの奉納が可能な内部空間を有する記念碑が必要とされた。内側に空洞をもつ複雑な形態の記念碑の建造には、専門知識と実用に秀でた建築家の関与が欠かせなかったのである。一方で彫刻家もコンクリートを率先して作品に摂取した。硬軟自在なコンクリートは、新たな美術素材として彫刻家の間に浸透、彫刻家は積極的に建築へ接近した。1926(大正15)年、彫刻と建築との融合を目指す彫刻家団体として構造社が誕生。設立者の日名子実三は、建築家・南省吾の監修のもとで《八紘之基柱》を設計、その総高約37mは1940(昭和15)年当時の日本で最大規模を誇った。鉄筋コンクリートという堅牢な構造の採用により、日本の記念碑はかつてないモニュメンタリティを獲得したのである。記念碑は記念事項の将来への伝達を目的に作られる。顕彰すべき事跡の長期的保持は、記念碑の物理的堅牢性に結び付く。記念事項をより長く伝えるためには、より強固な素材と構造が必要である。鉄筋コンクリート(Reinforced Concrete)は、文字通り「補強(reinforced)」を目的とした堅固な素材であり、記念碑の存続を維持するには最適の材料である。記念碑の構造に鉄筋コンクリートが採用された理由は、記念事項の永続性へ対する欲求にあったと結論づけられよう。