著者
渡邊 麻里
出版者
文化資源学会
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.17-33, 2018 (Released:2019-07-12)
参考文献数
38

1975年、歌舞伎座において、日本人のための日本語による、同時解説イヤホンガイドが導入された。現在、イヤホンガイドは歌舞伎公演に定着し、多くの観客が利用するようになり、歌舞伎において重要な地位を占めている。しかし、イヤホンガイドの実態や、誕生の経緯とその目的は、これまで明らかになっていない。そこで本稿では、イヤホンガイドの歴史を振り返り、歌舞伎におけるイヤホンガイドとは如何なるものかを改めて考えるため、1960年の歌舞伎アメリカ公演の際に導入された、イヤホンを用いた同時通訳に着目した。 この同時通訳は、当時ニューヨーク・シティ・バレエの総支配人であり、アメリカ公演で重要な役割を果たしたリンカーン・カースティンの発案によるものである。1960年以前、同時通訳は国際会議では利用されていたものの、舞台芸術においては、同時通訳ではなく、パンフレットや開幕前及び休憩時間における解説が主流であった。それでは何故、アメリカ公演において、歌舞伎に同時通訳が導入されたのか。その目的と経緯を、歌舞伎公演の前年の1959年に行われ、カースティンが関わった雅楽アメリカ公演や、歌舞伎アメリカ公演における演目選定を通して考える。また、アメリカ公演の同時通訳は、ドナルド・リチーと渡辺美代子の二人の通訳者により行われ、その同時通訳台本が残されている。この台本をもとに、当時上演された『仮名手本忠臣蔵』と『娘道成寺』の二つを取り上げ、同時通訳の内容がいかなるものであったのかを考察してゆく。
著者
新井 葉子
出版者
文化資源学会
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.35-48, 2017 (Released:2018-07-11)
参考文献数
50

本稿は、これまであまり整理されていなかった明治期の軍用空中写真撮影状況について明らかにする試みである。まず、日本初の空中写真撮影について整理するにあたり、「日本で初めて軍用空中写真の撮影が試みられたのはいつか」という問いと、「日本で初めて軍用空中写真の撮影が成功したのはいつか」という問いとに分けて考察する。次に、日本における空中写真画像の普及を検討するために、「日本で初めて空中写真を掲載した一般刊行物はどれか」、「日本で撮影された空中写真画像のうち、現存する最古のものはどれか」、「日本で空中写真が一般国民の関心を引くようになった時期はいつか」との問いを立てて、本稿執筆時点での結論を記述する。以上の5つの問いを通して、明治期に気球から撮影された軍用空中写真の来歴を整理するものである。
著者
坂口 英伸
出版者
The Association for the Study of Cultural Resources
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.63-83, 2019 (Released:2020-07-15)
参考文献数
70

本論は小野田セメント株式会社が1950年代より展開した芸術支援活動の一端を解明しようとする試みである。セメント製造業者である同社が異分野といえる芸術に進出した理由は、建築や土木の主要素材というセメントの従前の伝統的イメージからの脱却と、美術素材としてのセメントの利用促進と応用域の拡大にあった。その実現化の手段として同社が目論んだ戦略が芸術活動へのスポンサーシップだった。その代表例として有名なのが野外彫刻展への協賛である。同社は東京都主催の野外彫刻展への出品作家に対して、主に経済と物質面から彼らの制作活動を下支えした。 本論で考察の対象とする芸術支援活動は、①セメント彫刻作品の買い上げと寄贈(買上寄贈)、②依頼主からの注文に応じて作品制作を請け負う受託制作、③児童の造形教育への関与、の3点である。論点①②③のそれぞれについて、本論では具体例を挙げながらその活動内容を詳述し、その意義づけを試みる。 論点①については、野外彫刻展の出品作を主対象とした。小野田セメントは野外彫刻展へ出品された作品(一部)を彫刻から買い上げて全国各地へ寄贈する活動を展開した。現金による作品の買上は、制作活動が彫刻家へ経済的恩恵として還流され、セメント彫刻の創作が活発化する効果があった。 論点②の受託制作とは、個人や団体などのさまざまな依頼主からの要望を小野田セメントが聞き入れ、オリジナル作品を制作するオーダーメイド方式ともいえる。依頼主かの目的や意図に合わせ、同社は彫刻家を選定して作品の制作を依頼、完成作品は依頼主を通じて寄贈された。作品には人々の精神に潤いをもたらす効験が期待された。 論点③の具体例として、プレイ・スカルプチャー(遊戯彫刻)の制作援助、小学校と連携した記録映画の撮影、児童造形作品展への協賛を挙げる。造形教育への支援を通じて、セメントの受容層の拡大とセメントの需要量の増大が目指されたのである 同社の芸術支援活動の動機と目的は、美術素材としてのセメントの利用促進という実利的な側面と、芸術を通じた人々の豊かな精神の涵養や児童の創造性の育成という公益的側面に根差したものだった。同社の芸術援活動によって、日本の戦後美術の新局面が開拓されたと筆者は考える。
著者
鈴木 聖子
出版者
文化資源学会
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
no.4, pp.41-49, 2005
著者
坂口 英伸
出版者
文化資源学会
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.1-19, 2017

<p>本論では鉄筋コンクリートの観点から、近代日本の記念碑研究に検討を加える。従来の記念碑研究が銅像を中心とした建設背景や制作者の分析であるのに対し、本研究は鉄筋コンクリートという構造と素材に主眼を置き、近代日本における鉄筋コンクリート造の記念碑の誕生と発展を論じる。記念碑制作の担い手である彫刻家と建築家の関係に着目すると、鉄筋コンクリート造の記念碑が登場する道筋が明瞭となる。記念碑への鉄筋コンクリートの導入者は、西洋建築を学んだ建築家である。その応用の背景には、日清・日露戦争による大量の戦死者の存在があった。鉄筋コンクリート造の記念碑の誕生期にあたる明治40年代、碑文を刻んだ平らな一枚岩を垂直に立てる従来の伝統的な記念碑に加え、戦死者の遺骨や霊名簿などの奉納が可能な内部空間を有する記念碑が必要とされた。内側に空洞をもつ複雑な形態の記念碑の建造には、専門知識と実用に秀でた建築家の関与が欠かせなかったのである。一方で彫刻家もコンクリートを率先して作品に摂取した。硬軟自在なコンクリートは、新たな美術素材として彫刻家の間に浸透、彫刻家は積極的に建築へ接近した。1926(大正15)年、彫刻と建築との融合を目指す彫刻家団体として構造社が誕生。設立者の日名子実三は、建築家・南省吾の監修のもとで《八紘之基柱》を設計、その総高約37mは1940(昭和15)年当時の日本で最大規模を誇った。鉄筋コンクリートという堅牢な構造の採用により、日本の記念碑はかつてないモニュメンタリティを獲得したのである。記念碑は記念事項の将来への伝達を目的に作られる。顕彰すべき事跡の長期的保持は、記念碑の物理的堅牢性に結び付く。記念事項をより長く伝えるためには、より強固な素材と構造が必要である。鉄筋コンクリート(Reinforced Concrete)は、文字通り「補強(reinforced)」を目的とした堅固な素材であり、記念碑の存続を維持するには最適の材料である。記念碑の構造に鉄筋コンクリートが採用された理由は、記念事項の永続性へ対する欲求にあったと結論づけられよう。</p>
著者
横尾 千穂
出版者
文化資源学会
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.25-41, 2023 (Released:2023-07-14)
参考文献数
65

1986年、大浦信行の連作版画作品「遠近を抱えて」に使用された昭和天皇の写真のコラージュに対し、富山県議会で議員が用いた「不快感」という言葉が、議会内容とともに報道され、作品・図録の非公開や作品売却・図録処分など、社会的な関心を集める事態が次々と生じた。これらの事態では、作品評価、表現の自由、芸術文化の制度や公共性のあり方が、議会、市民運動、美術領域、法領域で議論され、現在では「富山県立近代美術館問題」という、表現の自由や検閲の問題として認識されている。そのため、これまで同問題が、各領域の内部で共有される情報媒体に依存し議論され、それぞれの言説群の関係性によって形作られてきた点は注目されてこなかった。さらに、各領域の議論を俯瞰して問題の全体像を捉える試みもなかった。そこで本論では、議員の発言が報道される1986年から、大浦と市民団体による裁判が上告棄却される2000年までに発行された、新聞、雑誌、ミニコミ誌、裁判資料等の収集を行い、同問題に対する認識の整理を行った。その上で、各領域で行われた議論の関係性から、同問題の全体像を再構成するとともに課題を示した。まず同問題では、天皇の肖像権、表現の自由、美術の専門性といった観点が、議会の作品評価をめぐる議論に登場し、同問題を規定する観点を形成した。さらに、事態が生じるたびに、作品の表現内容、作品への措置、社会状況が、要因や要求として主張された。しかし裁判を機に、当事者ごとの立場が明確になり、問題はむしろ膠着状態を強めていった。同問題では、各領域の常識的な解釈に、関係する他領域の見解との摩擦が生じることで、各領域の専門的・経験的な妥当性が高まっていった。また、大浦作品は評価の是非に関わらず、ある逸脱性が確認されることでしか記述されてこなかった。同問題の課題とは、こうした複雑な議論の関係性に与しながら、それぞれの言説群の内側で問題を解決しようとすることで、慢性的な議論が続いていることである。
著者
坂口 英伸
出版者
文化資源学会
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.1-19, 2017 (Released:2018-07-11)
参考文献数
72

本論では鉄筋コンクリートの観点から、近代日本の記念碑研究に検討を加える。従来の記念碑研究が銅像を中心とした建設背景や制作者の分析であるのに対し、本研究は鉄筋コンクリートという構造と素材に主眼を置き、近代日本における鉄筋コンクリート造の記念碑の誕生と発展を論じる。記念碑制作の担い手である彫刻家と建築家の関係に着目すると、鉄筋コンクリート造の記念碑が登場する道筋が明瞭となる。記念碑への鉄筋コンクリートの導入者は、西洋建築を学んだ建築家である。その応用の背景には、日清・日露戦争による大量の戦死者の存在があった。鉄筋コンクリート造の記念碑の誕生期にあたる明治40年代、碑文を刻んだ平らな一枚岩を垂直に立てる従来の伝統的な記念碑に加え、戦死者の遺骨や霊名簿などの奉納が可能な内部空間を有する記念碑が必要とされた。内側に空洞をもつ複雑な形態の記念碑の建造には、専門知識と実用に秀でた建築家の関与が欠かせなかったのである。一方で彫刻家もコンクリートを率先して作品に摂取した。硬軟自在なコンクリートは、新たな美術素材として彫刻家の間に浸透、彫刻家は積極的に建築へ接近した。1926(大正15)年、彫刻と建築との融合を目指す彫刻家団体として構造社が誕生。設立者の日名子実三は、建築家・南省吾の監修のもとで《八紘之基柱》を設計、その総高約37mは1940(昭和15)年当時の日本で最大規模を誇った。鉄筋コンクリートという堅牢な構造の採用により、日本の記念碑はかつてないモニュメンタリティを獲得したのである。記念碑は記念事項の将来への伝達を目的に作られる。顕彰すべき事跡の長期的保持は、記念碑の物理的堅牢性に結び付く。記念事項をより長く伝えるためには、より強固な素材と構造が必要である。鉄筋コンクリート(Reinforced Concrete)は、文字通り「補強(reinforced)」を目的とした堅固な素材であり、記念碑の存続を維持するには最適の材料である。記念碑の構造に鉄筋コンクリートが採用された理由は、記念事項の永続性へ対する欲求にあったと結論づけられよう。
著者
澤田 るい
出版者
文化資源学会
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.1-13, 2022 (Released:2022-07-15)
参考文献数
34

1913(大正2)年に、結核予防対策を担うために設立された日本結核予防協会は、結核の予防法や治療についての正しい知識を普及させるため、様々な啓発事業を展開した。中でも、協会の理事であった遠山椿吉を中心として、当時新しい娯楽媒体として注目され始めた映画の活用に乗り出し、1918(大正7)年に『悪魔の活躍』と『一陽来復』という劇映画の要素も含んだ結核予防映画を製作した。これは教育映画全体で見ても極めて初期の作品であり、製作を担ったのは写真家の平野守信である。昭和期に入ると、徐々に増加し始めた教育映画を手がける製作会社と連携して、協会がその役割を終える1939(昭和14)年までに合計15本の映画を製作した。多くの作品は、結核に関する教訓を『不如帰』などの物語にのせて伝えようと試みられており、教育映画の草創期において、教育的効果と映画の持つ娯楽的要素との融合を図ったことが評価できる。
著者
李 知映
出版者
文化資源学会
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.21-33, 2017 (Released:2018-07-11)
参考文献数
19

1930年代の朝鮮における演劇活動は、日本の植民地統治期間であったにもかかわらず、戯曲の創作、演劇批評、そして公演活動が、それまでのどの時期よりも活発な活動を見せていた。活発な演劇活動を支えていたのは、如何なる要因であったのか。本論文では、その内最も大きな要因として、朝鮮総督府の手によって京城に設置(1935年12月10日開館)された「府民館(ブミンゴァン)(부민관)」に着目する。そしてとりわけ、主に「府民館」で公演を行なっていた劇団の一つである「劇芸術研究会(グゲスルヨングへ)(극예술연구회)」(以下、「劇研」)の演劇活動の考察を通じて、「府民館」と当時の朝鮮演劇界の関係性について明らかにすることを、本論文の目的とする。「劇研」の演劇活動は、第1期から第3期までに分けられるが、特に、第2期の主な活動は「府民館」にて行なわれた。「劇研」の方針は「翻訳劇中心論」と「小劇場優先論」に立脚していた第1期活動から、第2期活動での「観客本位」、「演劇専門劇団化」、「リアリズムを基盤とするロマンチシズム」の開拓などに主軸をおくという変化を見せる。その活動方針の変化の中心には、柳致眞(ユチジン)(유치진)という人物が大きく関わっていた。しかしそれだけではなく「劇研」の活動方針の変化を助長した要因、言いかえれば、活動方針の変化の前提になった大きな要因として、「府民館」が存在したのである。当時「府民館」の存在があってこそ、「劇研」の活動を通じて、柳致眞(ユチジン)の「観客本位論」を劇場という場で試すことが可能になった。また、大劇場での公演に適合する劇作技法と公演様式、そして演技方法に関する工夫と、その実践が可能となった。こうした「劇研」の「府民館」での活動を反映して、当時の演劇界にはさらなる動きが起こった。演劇や演技について生まれた新たな思想が、「府民館」の動きと競い合うようにして、当時の演劇界を盛り立てたのである。
著者
中川 三千代
出版者
文化資源学会
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.35-52, 2018 (Released:2019-07-12)
参考文献数
14

本稿では、フランス人美術商エルマン・デルスニス(Herman d’Oelsnitz)が日本で開催した展覧会活動について論じる。デルスニスは1922年から1931年まで、ほぼ毎年の仏蘭西現代美術展覧会と、その他大小さまざまな展覧会を開催した。更に1934年から3年間は、作品斡旋という形でフランス絵画を日本に紹介した。これら全期間を対象としてデルスニスの活動を明らかにする。まずデルスニスの関与した展覧会を分類整理する。その上で、主要な展覧会の実施体制、出品内容、入場者数などについて考察する。更に、三越、大阪朝日新聞社、国民美術協会の協力について考察し、展覧会を継続可能にした要因を論じる。1931年までの展覧会活動を3つの時期に区分し、その後の活動を加えて4つの時期区分とする。具体的にはデルスニスが個人で企画し、政府や美術団体の協力を得て開催した時期を初期とし、1924年設立の日仏芸術社を拠点として活動を拡大し、美術月刊誌『日仏芸術』の発行も併せて行った時期を中期とし、それ以降、日仏芸術社の閉鎖までを後期とする。更に、デルスニスの活動終了までを晩期とする。時期区分に従い仏展などの展覧会について特徴をまとめる。特に1934年にデルスニスの活動が復活できた要因として、教育機関、美術団体に属する多くの日仏芸術社時代の協力者との人的関係の重要性を明らかにする。本稿はデルスニスの展覧会活動について通観し、デルスニスと日仏芸術社が日本でのフランス美術普及に果たした役割を見直す基礎を与えると考える。
著者
高橋 舞
出版者
文化資源学会
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.5-23, 2023 (Released:2023-07-14)
参考文献数
28

1980年代になると、ニュー・ミュージコロジーによって音楽学の研究テーマは多様化され、これまで作曲家や作品の影に隠れていた「演奏」も研究対象となる。それと平行して、1990年代頃から作曲家による楽譜そのものを「作品」と考える「作品観」が変化したことから、録音分析による演奏研究が発展した。特に2004年に設立された、録音の音楽学的研究を促進するための研究センターThe AHRC Research Centre for the History and Analysis of Recorded Music(CHARM)において、コンピュータ・ソフトウェアを用いた録音分析が活発に行われてきた。これまでの録音分析の成果から、演奏様式が20世紀前半に大きく変化することが認識されるようになった。1920年代までの初期の録音に残されている、急激な速度変化を特徴とする演奏様式こそは、18世紀末からのピアノ演奏理論書において受け継がれてきた「修辞学的演奏観」に基づいた「修辞学的演奏様式」である。一方で、1920年代以降の演奏様式の変遷については、見解が分かれている。また、これまでの録音分析は、作品の特定の構造に依存して行われることが多く、客観的な分析手法が開発されてきたとは言い難い。そこで本論文では、速度偏差と録音間速度相関に着目した、より客観的でかつ汎用性の高い分析手法を提案する。そして、その新たな手法をJ. S. バッハの《半音階的幻想曲とフーガ》BWV903と《平均律クラヴィーア曲集》第1巻第1番BWV846の前奏曲およびフーガの3作品の、1912年から2019年までの54種類の録音資料から計79種類の録音データに対して適用し、1920年代以降の演奏様式の変遷を検証した。その結果、1920年代以前は1930年代以降と比較すると、速度偏差が有意に大きく、「修辞学的演奏様式」であることが確認できた一方で、「修辞学的演奏様式」と類似した演奏形式は、1930年代から2010年代までほとんど常に見られ、選択可能なアプローチとして存在していたことが明らかになった。
著者
筬島 大悟
出版者
文化資源学会
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.49-59, 2017 (Released:2018-07-11)
参考文献数
28

現在、UNESCOの世界遺産条約と無形文化遺産条約では、それぞれ遺産リストへの登録に必要とされる価値が異なっているが、その価値の解釈において両者は混同され、その結果条約の運用に混乱をもたらすようになっている。今後の両条約の円滑な履行のため、両条約の関係を明らかにして論点を整理することは重要となるが、本稿では、この価値規定とその解釈の変遷に焦点を当て、両条約の現在の履行の問題点を整理し、両条約の現在の履行の関係性について分析を行った。その結果、世界遺産条約では、資産の多様性を重視する方策を各国が政治的に利用した資産の登録を行うことで世界遺産としての価値の逓減を招き、条約の精神が無形文化遺産条約化していることが、またその一方で、無形文化遺産条約では、地域比不均衡問題の発生や価値の顕著性の付与など、その履行が世界遺産条約化してきており、両条約の精神や制度が相互に交錯している現状にあることが明らかになった。
著者
渡邊 麻里
出版者
文化資源学会
雑誌
文化資源学 (ISSN:18807232)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.17-33, 2018

<p>1975年、歌舞伎座において、日本人のための日本語による、同時解説イヤホンガイドが導入された。現在、イヤホンガイドは歌舞伎公演に定着し、多くの観客が利用するようになり、歌舞伎において重要な地位を占めている。しかし、イヤホンガイドの実態や、誕生の経緯とその目的は、これまで明らかになっていない。そこで本稿では、イヤホンガイドの歴史を振り返り、歌舞伎におけるイヤホンガイドとは如何なるものかを改めて考えるため、1960年の歌舞伎アメリカ公演の際に導入された、イヤホンを用いた同時通訳に着目した。 この同時通訳は、当時ニューヨーク・シティ・バレエの総支配人であり、アメリカ公演で重要な役割を果たしたリンカーン・カースティンの発案によるものである。1960年以前、同時通訳は国際会議では利用されていたものの、舞台芸術においては、同時通訳ではなく、パンフレットや開幕前及び休憩時間における解説が主流であった。それでは何故、アメリカ公演において、歌舞伎に同時通訳が導入されたのか。その目的と経緯を、歌舞伎公演の前年の1959年に行われ、カースティンが関わった雅楽アメリカ公演や、歌舞伎アメリカ公演における演目選定を通して考える。また、アメリカ公演の同時通訳は、ドナルド・リチーと渡辺美代子の二人の通訳者により行われ、その同時通訳台本が残されている。この台本をもとに、当時上演された『仮名手本忠臣蔵』と『娘道成寺』の二つを取り上げ、同時通訳の内容がいかなるものであったのかを考察してゆく。</p>