著者
坂田 達紀
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学大学紀要
巻号頁・発行日
no.64, pp.7-30, 2017-09-25

" 村上春樹の「青が消える(Losing Blue)」は、1992 年に海外の雑誌に発表され、2007 年からは(日本の)高等学校の国語教科書にも採録されている、文字数にして4200 文字の短編小説である。他の多くの村上作品と同様、表面的ないし表層的に読むのは易しいが、その内側ないし深層を理解するのはそれほど簡単ではない、つまり、結局何を言おうとしているのかが単純には捉えられない小説である。 本稿では、文体論の観点から、この小説の表現・文体の分析・考察を試みた。析出された文体的特徴は、次のとおりである。 ⑴ 異様な冒頭表現に異化効果およびサスペンス効果が認められる ⑵ 悪夢が説明抜きで叙述(描写)されている ⑶ 非現実を現実化する仕掛け(「炭取が廻る」仕掛け)が仕組まれている ⑷ 様々な意味(寓意)が読み取れるアレゴーリッシュな文体である ⑸ ユーモアの要素が見られる 「自分のことを生まれつきの長編小説作家だと思っている」村上春樹にとって、短編小説は長編小説のいわばプロトタイプ(原型・試作品)と考えられるので、上の特徴のうちのいくつかは、当然、長編小説にも見出されることが推測される。したがって、これらの特徴が、いわゆる「村上春樹らしさ」ないしは「本来の「村上春樹的」小説世界」を形づくる要素と考えられる、と結論づけた。 加えて、村上春樹が文体によって「見分けのつかない、無明の世界」を明かそうとしていること、そして、その文体が批評性を持っていることも指摘した。 本稿の分析・考察の結果は、現行の高等学校学習指導要領の「指導事項」に、「表現の特色に注意して読むこと」という文言や「書き手の意図をとらえたりすること」という文言が見られることに鑑みて、この小説を国語教材として用いる際にも役立つものと考えられる。"
著者
坂田 達紀
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学紀要
巻号頁・発行日
no.68, pp.7-29, 2019-09-25

" 村上春樹の「とんがり焼の盛衰」は、伊勢丹デパート主催のサークル雑誌に1983 年に発表された、3600 字程度の分量の短編小説である。その後、単行本3 冊、文庫本1 冊、全集のうちの1 冊(いずれも短編集)に収載され、現在では高等学校国語教科書にも採録されている。 この作品もまた、他の多くの村上の短編作品と同様、字面を追って書かれていることそれ自体(たとえばストーリーなど)を理解することは容易いが、結局のところ作品全体として何を言わんとしているのか(たとえばテーマなど)を把捉することの困難な作品である。言い換えれば、ただ単に表面ないし表層を読むのみならず、内側ないし深層までをも読むことが求められる作品なのである。 本稿では、まず、作品「とんがり焼の盛衰」がどのように読めるのか、いわば読みの可能性を、本作品から読み取れる寓アレゴリー意に着目しながら考察した。ついで、本作品の文体的特徴を分析し、最後に、いわゆる村上文学全体の中での本作品の位置付けを論じた。 明らかになったことは、まず、読みの可能性としては、様々な寓意が読み取れることはもとより、その奥に、現代の人間社会に対する作者・村上春樹の批評精神が読み取れる、ということである。この批評精神のゆえに、この作品の価値は高まるのではないか、ということも指摘した。ついで、本作品からは、次のような四つの文体的特徴が析出された。 ⑴ 非現実を現実化する仕掛け(「炭取が廻る」仕掛け)が仕組まれている ⑵ 様々な意味(寓意)が読み取れるアレゴーリッシュな文体である ⑶ ユーモアの要素が見られる ⑷ 遊離したシニフィアンが秩序をもたらす文体である これらのうち、⑷の特徴は、この作品を特異なものにする重要な文体的特徴であった。最後に、作品「とんがり焼の盛衰」は、村上が「デタッチメント(かかわりのなさ)」を大事にしていた時期に書かれた、「デタッチメント(かかわりのなさ)」の考え方を色濃く反映した作品として、村上文学全体の中に位置付けられることを指摘した。併せて、本作品中の「とんがり鴉」は、後に書かれた長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』( 1985 年)に登場する「やみくろ」の原型と考えられる可能性についても言及した。 本稿のこれらの考察・分析の結果は、本作品を国語教材として用いる際にも参考になるのではなかろうか。"
著者
坂田 達紀
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学紀要 (ISSN:18833497)
巻号頁・発行日
no.66, pp.7-27, 2018-09-25

村上春樹の「沈黙」は、『村上春樹全作品1979 ~ 1989 ⑤ 短篇集Ⅱ』(講談社、1991 年)のために書き下ろされた短編小説である。この小説について、作者の村上は、「僕の作品系列の中では、かなり特殊な色合いのもの」、「とにかくストレートな話」、「もともとはとても個人的な意味合いを持った作品」などと述べている。さらに、「僕としては作品集の中に「こっそりと忍び込ませた」という感じの作品だった。」とも述べている。しかし、この小説は、その後何度も単行本(短編集)に収録されたり、この小説一作品だけで単行本化されたり、高等学校国語教科書にまで収載されたりしている。あるいはまた、「大幅に手を入れた」りもされている。つまり、村上は、書いた当初はそれほどでもなかったが、後になって、この小説を重要な作品と見なすようになったものと考えられる。 本稿では、以上のことを念頭に置きながら、作品「沈黙」の文体的特徴を析出するとともに、どのような読み方ができるのか、いわば読みの可能性を探ることを試みた。加えて、デビュー以来の村上作品の中で(村上の言葉で言えば、彼の「作品系列」の中で)、この作品がどのように位置付けられるのかを考察した。その目的は、この作品の持つ特殊性を明らかにすることである。 析出された文体的特徴は、聞き書きという形式を利用したリアリズムの文体ということと、純粋な三人称小説でもなければ一人称小説でもない、三人称と一人称とがいわば混在した文体ということである。いずれの特徴も、この作品の持つ特殊性を示すものと考えられる。また、読みの可能性としては、作品に描かれた二つの「沈黙」(高校時代の「大沢さん」が学校で強いられた「沈黙」と、現在の「大沢さん」が真夜中に見る夢の中の「沈黙」)を截然と区別して読むことの重要性を指摘したうえで、「沈黙」と「深み」との関連性を読み取るべきこと、および、システムの「悪」に対する村上の批判が読み取れることを述べた。さらにまた、本来自分の内側にある恐怖を描くことの多い村上が、「沈黙」という外側の恐怖を描いているという意味では特殊な作品だが、この作品の(作者自身による)扱いには、村上のデタッチメントからコミットメントへという考えの変化が読み取れることから、きわめて重要な作品として村上文学の中に位置付けられることを指摘した。最後に、タイトルは「沈黙」であるが、「沈黙」するのではなくそれを破らなければならないとする村上の姿勢が読み取れるという意味で、逆パラドキシカル説的な作品とも言えることを付言した。 本稿で得られた分析・考察の結果は、この作品をより深く読む際にはもちろんのこと、国語教材として用いる際にも役立つものと考えられる。