著者
堂前 亮平
出版者
沖縄国際大学南島文化研究所
雑誌
南島文化 (ISSN:03886484)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.21-30, 1984-03
著者
堂前 亮平
出版者
久留米大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1995

近代期の奄美・沖縄の主要な島の中心地において、寄留商人と呼ばれる他県および同県の他地域からの外来商人が、商店や事業所を構えて街を形成していた。本研究は、寄留商人という社会集団が形成する商業空間の形成と特質を考察するものである。沖縄諸島において寄留商人町がみられたのは、沖縄本島の那覇、久米島の儀間、宮古島の平良、石垣島の4箇であり、奄美諸島では奄美大島の名瀬、古仁屋、喜界島の湾、早町、徳之島の亀津、平土野、沖永良部島の和泊、知名、与論島の茶花であった。奄美・沖縄に多くの寄留商人が本格的に移住してくるのは、廃藩置県後のことである。寄留商人の出身地をみると、圧倒的に鹿児島県出身者が多い。これは、地理的距離に加え、歴史的関係によるものである。奄美諸島や沖縄諸島に寄留商人が入ってくる理由は、藩政時代か盛んに行なわれていた砂糖や織物などの取引に商業活動の旨味を目論んだからである。また砂糖や織物の取引のみならず、呉服や雑貨などのさまざまな商品の卸小売りにおいても、奄美・沖縄は商業の空白地域であったことである。例えば、奄美諸島最大の商業地区は名瀬であり、当時259の商店・事業所のうち、経営者の出身地で最も多いのが、鹿児島県出身者で84人、次いで地元名瀬出身者が64人となっている。また沖縄県で最大の都市である那覇においては、335人の寄留商人が商業を営んでいたが、その中で鹿児島県出身者205人で、寄留商人全体の3分の1近くを占めている。寄留商人はいずれの島でも、島の中心地で寄留商人経営の店が集まって街を形成していた。このような寄留商人町も第二次世界大戦の末期には、県外からの寄留商人は引き上げていき消滅した。
著者
堂前 亮平
出版者
久留米大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1997

本研究は、川崎市、大阪市、名古屋市、福岡市およびこれらの都市の周辺都市における沖縄県出身者の社会空間の形成および特質について明らかにし、社会集団と空間との関係を考察するものである。沖縄から県外への移住は、大正末期から昭和初期にかけての恐慌によって、県外に生活の糧を求めて海外移民や本土の工業都市への出稼ぎがはじまった。大正末期、沖縄から最も出稼ぎが多かったのは、大阪で、全体の43%を占めていた。ついで神奈川県であった。本土という異質社会のなかで生活するために、沖縄県出身者は相互扶助のために必然的に県人会や、郷友会といった同郷組織をつくり、助け合って生活を送ってきた。この基底には、沖縄のシマ共同体という強い連帯がある。このため、沖縄県出身者は、必然的にお互いに近い距離に家を持つため、居住地も沖縄県人の集中地域が見られる。川崎市では川崎区、大阪市では大正区、名古屋市では緑区といったところである。幾つかの沖縄県人会館は、沖縄県出身者の拠点として機能している。琉球舞踊をはじめ三線や太鼓などの沖縄の芸能は、沖縄県出身者の拠り所として、沖縄社会のなかで演じられてきたが、近年、地域行事にも積極的に参加するようになり、地域との交流が進んできた。このような傾向は日常生活についても見られ、沖縄県出身者の生活行動様式が変化してきた。このことは、本土の人たちの沖縄に対する意識が、沖縄を「特別なもの」から「個性輝くもの」と見るように変化してきたことによる。相互扶助を目的として、県人会が組織されているが、その性格も、親睦的なものへと変化してきている。