著者
宮松 浩憲
出版者
久留米大学
雑誌
産業経済研究 (ISSN:03897044)
巻号頁・発行日
vol.48, no.1, pp.95-116, 2007-06
著者
桑野 栄治
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学文学部紀要. 国際文化学科編 (ISSN:09188983)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.105-143, 2007-03

本稿は一六世紀前半の朝鮮中宗代に時期を限定し、毎年正朝・冬至・聖節・千秋節に王宮の正殿にて明帝を遥拝する望闕礼、ならびに異域からの使者が集う朝賀礼と会礼宴の実施状況について、官撰史料を中心に整理・分析したものである。クーデタにより即位した中宗は功臣会盟祭を優先するなど、かならずしも忠実に宮中儀礼を実施していない。三浦の乱の鎮圧後、靖国功臣と非功臣勢力という政治上の対立構図が瓦解すると、中宗一一年には倭人と野人を朝賀礼のみならず朔望の朝会にも随班させることが決定する。儒者官僚による成宗代への復古主義であり、倭人と野人を四夷からの「朝貢分子」とみなす華夷意識の表出でもあった。凶年と天災により控えられてきた貞顕王后のための豊呈の儀も翌年正朝に復活し、己卯士禍が発生する中宗一四年までは望闕礼→朝賀礼→豊呈とつづく正朝・冬至の宮中儀礼がほぼ定例どおり実施された。一方、中宗二三年冬至には王世子の望闕礼随班が実現し、ひきっづき王世子は百官を率いて朝賀礼を主宰した。朝賀礼の場には「日本国王使」 一鶚東堂も随班しており、王世子は「朝貢分子」の前で王位継承権者としての役割をつつがなく果たす。僞使は華夷意識から抜けだせない朝鮮側と、その事情を熟知して貿易の権益を求める対馬側の、相互のバランスのうえに成立していた。総じて、中宗が名節の対明遥拝儀礼を忠実に実施していたとはいいがたい。中宗二〇年の聖節を前に司憲府は近年の権停礼を非難し、中宗三四年の千秋節には中宗がこれまで聖節の望闕礼を権停礼により実施していたことを告白している。朝賀礼は権停礼による実施がなかば慣例化し、天災にともなう財政事情により会礼宴も激減した。むしろ前代の燕山君は望闕礼と朝賀礼に積極的であり、朝鮮初期の礼と法を確立した父王成宗はもっとも忠実に名節の宮中儀礼を実施したことがあらためて浮きぼりとなった。
著者
辻丸 秀策 恵紙 英昭 福山 裕夫 内村 尚直
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学文学部紀要. 社会福祉学科編 (ISSN:13455842)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.15-21, 2001-03
被引用文献数
1

外来通院中のてんかん患者の運転状況の実態を明らかにするため,外来通院中の18才以上のてんかん患者(512名)を対象として,自動車免許の有無,運転状況,発作頻度,発作型,事故との関連性などについて,面接調査を行い,さらに発作が2年以上抑制されているてんかん患者の交通事故率について検討した.その結果,免許取得率は41%で,運転率は34%であった.次に,免許保有者の事故率は,41%で,その発作型は,複雑部分発作と二次性全般化発作の合計が,約8割を占めていた.しかし,事故の原因が発作であったものは19%であり,発作による事故は相対的に少なかった.また,この数値は,事故経験者の過去の運転歴全期間を通じての結果であるため,調査時点より過去1年間に限ってみた場合,事故率は約3.9%であった(福岡県内の事故発生率が約4.5%).このことから,必ずしもてんかん患者の事故率が高いとは考えられないと思われた.さらに,てんかんが治癒可能な疾患であるという事実から,現行道路交通法において欠格事由とされているてんかん患者と自動車運転免許について臨床的立場から考察した.
著者
古賀 範理
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学外国語教育研究所紀要 (ISSN:13406175)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.1-17, 2000-03

This paper refers mainly to the memoir of Joseph C. Trainor who was a staff member of the Education Division of CIE (Civil Information and Education) of the Allied Powers, and focuses on the circumstances under which the Allied Powers played an important role in educational reform in Japan and how the tentative and suggested Course of Study was compiled. When the first Course of Study was published in March, 1947, the adjectives "tentative" and "suggested" were attached to its title, partly because there was not enough time to make it perfect before its publication, and partly because it was an instruction manual and reference guidebook through which teachers could make a suitable curriculum for their own schools. Three documents are regarded as having a great influence on the first Course of Study in this paper. One of them is the report of the American Education Mission to Japan. Another one is a brochure titled "Education in Japan" which was published by CIE to help the Education Mission discuss the educational situation in Japan at that time. The third is the report of the Committee of Japanese Educators which was established to cooperate with the American Education Mission. This paper discussed the main ideas concerning the curriculum which are expressed in these three documents. All of them equally condemned the centralized, nationalistic method of teaching which had been practiced in Japan before the occupation. They advised that Japan should adopt a child-centered method of teaching, allowing the teachers freedom to compile their own curricula suitable for each school and region. Current Japanese education in elementary, lower secondary and upper secondary schools is conducted under the regulations prescribed in the Course of Study, or national standards for school curricula. The Course of Study describes the objectives of each subject, its allotted hours per week and the contents which should be taught at schools. Moreover it forms the principal criterion by which the Ministry of Education authorizes the textbooks which must be used at all elementary and secondary level schools. Therefore, it can be said that the Course of Study functions as a nationwide, centralized standard for the school education. Now teachers, as well as administrators of education in Japan, are in a very difficult situation, similar to that just after the War. However, we can learn a lot from the enthusiasm of the educators at that time while they were compiling the Course of Study for the first time in the history of Japanese education.
著者
桑野 栄治
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学文学部紀要. 国際文化学科編 (ISSN:09188983)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.89-114, 2002-03

本稿は、「まれなる独裁者、世祖」と評される朝鮮一五世紀後半の世祖代を国家儀礼の側面から照射したものである。従来、世祖の王権についてはおもに圜丘壇祭祀の復活という側面から論じられてきたが、本稿では対明遥拝儀礼の実施状況とあわせて検討し、一五世紀ソウルの儀礼空間を通して世祖の王権を考察した。一四世紀末に朝鮮王朝を開創した太祖李成桂は、正朝と冬至に王都漢城の王宮から明皇帝の居城を遥拝することによって事大政策を標榜し、以後、この儀礼は第四代朝鮮国王の世宗代まで王朝国家の重要な国事行為として継続実施された。この対明遥拝儀礼を望闕礼といい、望闕礼を終了すると王宮内では異域(日本・女真・琉球)からの使節を取り込んだ朝賀礼と会礼宴が催された。ところが、世宗の死後、短命な文宗・端宗の時代をへて第七代朝鮮国王世祖が即位すると、正朝・冬至の国家儀礼のあり方に大きな変化が生じるようになる。世祖は、本来は中国の皇帝のみが行いうる祭天儀礼を王都漢城の南郊で実施し、その一方で明帝を遥拝する望闕礼を放棄した。世宗は晩年に望闕礼を王世子または百官に代行させていたが、世祖は王世子による代行さえ認めなかったのである。にもかかわらず、朝賀礼と会礼宴は王宮内で盛大に催され、とりわけ王権の強化につとめた即位のはじめには五〇〇名余りの「倭人」と「野人」を参席させるなど、世祖は「夷」をしたがえる皇帝を彷彿させる。一五世紀の儀礼空間を通してみた場合、世祖の治世年間は朝鮮時代史上、まれにみる時代であったといっても過言ではあるまい。
著者
伊藤 祐
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学商学研究 (ISSN:1342047X)
巻号頁・発行日
vol.8, no.1, pp.195-218, 2002-09
著者
溝口 恵美子
出版者
久留米大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2018-04-01

炎症性腸疾患(IBD)における慢性炎症からの腸上皮と癌化にはキチナーゼ様タンパクI型(CHI3L1)が深くかかわっている。我々は汎キチナーゼ阻害剤でキサンチン誘導体の一種であるカフェイン(CAF)がCHI3L1の発現・活性化を抑制することを発見している。本研究では、アゾキシメタン(AOM)誘導性の大腸異形成モデルにおいて、CAFよりもペントキシフィリン(PTXN) によって大腸腫瘤数・腫瘤の大きさが有意に抑制されることが分かった。CAFおよびPTXN同時投与では副作用(例:ショック死)が強いため実験を中断した。今後、PTXNが将来的に大腸癌の予防・治療薬として臨床応用できる可能性が示唆された。
著者
三浦 直樹 原岡 一馬
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学心理学研究 (ISSN:13481029)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.71-80, 2002

本研究では,"社会とのつながり"の構造について因子分析を用いて探索し,"社会とのつながり"と心理的幸福感の関係について検討することを目的とした。被調査者は,391名の中学生および高校生であり,"社会とのつながり"と心理的幸福感の質問紙調査が実施された。心理的幸福感の測定尺度としては,疎外感尺度および充実感尺度を用いた。それらは,孤独感,空虚感,圧迫感,無力感,自尊感,充実感の因子から構成された。因子分析の結果,受容的つながり,道具的つながり,貢献的つながりの3因子が抽出された。相関分析と分散分析の結果,「受容的つながり」は孤独感,空虚感,圧迫感,無力感と負の関係がみられ,自尊感,充実感と正の関係がみられた。「道具的つながり」および「貢献的つながり」についても,いくつかの心理的幸福感の尺度との聞に相関がみられた。また,つながりの頻度と心理的幸福感の関係におけるつながりの重要度の効果も検討された。「受容的つながり」と空虚感,「貢献的つながり」と自尊感の関係において交互作用が見られ,重要度の効果が示唆された。これらの結果から,中学生および高校生にとって,特に「受容的つながり」を主とした"社会とのつながり"が心理的幸福感と関係していることが示された。
著者
大岡 由佳 辻丸 秀策 古里 百合子 鋤田 みすず 福山 裕夫 前田 正治
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学文学部紀要. 社会福祉学科編 (ISSN:13455842)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.17-27, 2004-03

本論では,犯罪被害者に認められる心的外傷,なかんずく監禁被害者の心理的問題について,2000年に起こった西鉄バスジャック事件被害者の様子から考察した.マスコミ報道による資料のほか,実際の被害者の治療経過を提示し,Symonds Mによる4段階の心理反応期に基づいて,被害者の心理的変化を分析した.また,このような被害者に対する適切なケアや支援のあり方についても論じた.
著者
児島 将康 佐藤 貴弘 松石 豊治郎 岡本 伸彦 永井 敏郎 西 芳寛
出版者
久留米大学
雑誌
萌芽研究
巻号頁・発行日
2004

本年はグレリンの遺伝子発現調節機構について研究を行った。グレリンの発現・分泌調節はグレリンの生理作用を調節する上で非常に重要であるが、グレリンの発現・分泌を調節する因子としては、現在のところ空腹シグナルしか知られていない。そこでグレリンの遺伝子発現調節に関与する因子を探索するために、ヒトグレリン・プロモーターシークエンスをルシフェラーゼ発現ベクターに組み込んだレポーターベクターを作成し、グレリン遺伝子発現を調節する転写因子の研究に取り組んだ。グレリン・プロモーター配列において、これまでに明らかでなかったグレリン遺伝子発現の抑制領域を見出した。グレリン・プロモーターの-1600領域付近まで削ったベクターでは、プロモーター活性が低下した。またコンピューターサーチによってグレリン遺伝子のプロモーター領域に結合する転写因子の候補を探索し、その中で入手できたものについて、プロモーター活性に及ぼす影響を調べた。その結果、グレリン遺伝子のプロモーター活性を調節する転写因子として、抑制性のNF-kBと促進性のNkx2.2が関与していることを見出した。グレリン遺伝子のプロモーター領域に抑制性の領域を見出した。この結果グレリン遺伝子は正負のバランスによって発現調節が行われていると考えられた。またリポポリサッカライド(LPS)投与によって敗血症性ショックに陥るが、このとき血中グレリン濃度の減少が見られる。LPS投与によってToll-like4受容体が活性化され、引き続いてNF-kBが活性化される。NF-kBによってグレリン遺伝子のプロモーター活性が抑制されることから、LPS投与による血中グレリン濃度の減少にはNF-kBが関与している可能性が強いと考えられた。
著者
秀島 眞佐子 岩元 澄子 原口 雅浩
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学心理学研究 (ISSN:13481029)
巻号頁・発行日
no.5, pp.149-156, 2006

本研究では,Grunwaldの「空間図式」について統計的に再検討し,空間象徴図式の展開を試みた。研究1では,青年群86名,中高年群83名を対象に,Grunwaldの「空間図式」の16語の言葉のイメージを,SD法を用いて測定した。主成分分析の結果,「生存の資源」と「生存の促進」の2つの主成分を採用した。各言葉のイメージ得点を両群で比較したところ,「生存の促進」において,違いが見られた。すなわち,青年群では,すべてプラス得点であったのに対し,中高年群では,プラスとマイナス得点に2分された。これを「空間図式」と参照したところ,中高年群でのプラス得点の言葉は「空間図式」の下側に,マイナス得点の言葉は上側に位置して一致した。このことから,「空間図式」は,中年期以降におけるSD法で得られるような抽象的なイメージを反映したものであると考えられた。研究2では,青年期以降の110名を対象に,研究1で用いた「空間図式」の16語の言葉の,コラージュ法による配置を行った。クラスター分析およびχ2検定の結果,用紙上の,(1)中央に「心」・「身体」,中央から上方にかけて「母性」・「父性」・「誕生」,(2)上下に「希望」・「失望」,「空気」・「大地」,(3)左右に「過去」・「未来」が有意に位置した。このことから,用紙上の空間に対する言葉の具体的なイメージによる象徴性は(1)中央を自己スペースとして,(2)上下に感情と生活,(3)左右に時間で構成される世界と考えられた。以上の結果から空間象徴図式は言葉の抽象的なイメージによるものと具体的なイメージによるものとでは異なるものであることが示唆された。
著者
北野 収
出版者
久留米大学
雑誌
産業経済研究 (ISSN:03897044)
巻号頁・発行日
vol.48, no.3, pp.341-373, 2007-12

社会運動における知識人の役割は古くて新しい研究課題である。現代のメキシコにおける脱開発志向の社会運動においても,知識人が重要な影響を及ぼしていると考えられる。イヴァン・イリイチは,1970〜1980年代,コンヴィヴィアリティ,ヴァナキュラー,ジェンダー等の概念を用いて産業文明をラディカルに批判した思想家である。グスタボ・エステバは,政府高官を経て,自ら設立したローカルNGOを拠点として,南部メキシコ・オアハカ州において,反グローバリズム・脱国家主義志向の草の根社会運動を指導する自称「脱プロ知識人」である。本稿では,メキシコを代表するこの2人の知識人の交流と対話の軌跡を,文献およびエステバと筆者との対話を手がかりに明らかにする。そして,現役の社会運動家でもあるエステバの学習の過程,NGOを通じた彼らの実践活動とイリイチ思想との関連性を検証した。知識人が創出する思想・哲学は,時代を超えて,現場での実践活動に一定の影響と方向性を与えていることが確認された。
著者
桑村 栄治
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学文学部紀要. 国際文化学科編 (ISSN:09188983)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.83-122, 2003-03

本稿は、朝鮮一五世紀後半の成宗代に時期を限定し、朝鮮国王が毎年正朝と冬至に王宮の正殿にて実施した対明遥拝儀礼(望闕礼)の実態を整理・分析したものである。永世遵守の基本法典である『経国大典』には「正至・聖節・千秋節に殿下は王世子以下を率いて望闕礼を行う」と定めるが、国喪期間、国王の病気、そして雨雪など悪天候の場合、朝鮮国王はやむをえず望闕礼の実施を停止した。しかし、世宗代の晩年期と世祖代の一時期のように、王世子または文武百官がこれを代行することはない。望闕礼の停止と代行に関する規定が『経国大典』はもちろん、国家儀礼のテキストである『国朝五礼儀』にも存在しないのは、朝鮮国王と儒者官僚が望闕礼の実施を王朝国家における当然の国事行為と考えていたからである。正朝・冬至の儀礼空間は朝鮮国王の美徳と権威を内外に誇示する格好の場となり、望闕礼終了後の朝賀礼と会礼宴には、受職女真人をけじめ日本・琉球からもさまざまな通交者が参席して華を添えた。これら「朝貢分子」の代表格が朝鮮の藩屏を自称する対馬宗氏である。朝鮮政府が野人を厚遇した背景には辺境の防備という現実的な軍事問題があり、倭寇対策として倭人を撫接する外交政策と相通ずる。成宗は一五世紀朝鮮の歴代国王のうち、もっとも忠実に望闕礼を実施した国王であった。朝鮮国王はみずからが帝都北京に赴いて大明皇帝に拝謁することに代え、王都漢城から王世子・文武百官とともに遠く明帝を遥拝した。望闕礼は朝鮮国王にとっては対明外交儀礼であり、君臣間の儀礼的関係を百官の前で示す装置としても機能していたのである。
著者
片岡 祥 園田 直子
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学心理学研究 (ISSN:13481029)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.11-18, 2008

本研究は,恋人に対する「依存」のしやすさとアタッチメントスタイルとの関連を検討したものである。被験者は大学生123名(男性53名,女性70名)であった。25項目からなる恋人依存尺度を因子分析したところ,"恋愛不安"と"恋人中心"の2因子が見出された。そして,恋人版に修正した30項目からなる一般他者を対象としたアタッチメントスタイル尺度(ECR-GO)を用いて参加者を4群に分類し,"恋愛不安"と"恋人中心"の2因子の得点の違いについて比較したところ,恋人にもっとも依存するのはとらわれ型,もっとも依存しないのは拒絶型であった。また,恐れ型と安定型を比較すると,両型とも"恋人中心"に差はなかったが,恐れ型は"恋愛不安"が高く,安定型は"恋愛不安"が低かった。その結果,恋人に対する"依存"には関係に対する不安と恋人を中心に考える程度という2次元があり,アタッチメントスタイルの違いが恋人に対する"依存"の程度を予測できることが示唆された。